第37話「奈落」(第2部前半・最終話)
目が、覚めた。
天井が、あった。
岩じゃなかった。
白い——白かったはずの、黄ばんだクロスの天井。隅に、雨漏りの染みの輪郭。見慣れた染みだった。何年も見てきた形をしてた。
ぶ、と枕元で音が鳴った。
手が、勝手に伸びる。薄くて冷たい板。指が、勝手に画面をつける。
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その通知の枠を——上下の、細い罫線を——俺は、しばらく見ていた。
知ってる枠だった。
毎晩、開いてた。毎晩、書いてた。本日の記録。岩、一つ。動かした。
……違う。
そうじゃない。順番が、違う。
俺はこの枠を、毎晩見てたから——あっちでも、この形で見えてたんだ。
◇
部屋は、狭かった。
六畳。万年床。枕元に、空き缶が三本。テーブルの上に、二本。流しに、数えたくない本数。脱いだ服の山。封筒の山は、玄関の靴箱の上で、雪崩れたまま止まってる。カーテンは閉まってて、その隙間から、刃物みたいに細く、朝日が入ってた。
身体を、起こそうとした。
起きなかった。
岩を三つ動かした身体が。洞鬼の四撃目を叩き込んだ身体が。大階段を六日で登った身体が——六畳の万年床から、起き上がらなかった。胸の上に、見えない岩が載ってた。あっちのどの岩より、重いやつが。
息を、吸った。浅かった。もう一回。浅かった。
……知ってる。
この朝を、俺は、知ってる。
白紙の書より先に、この朝を知ってた。夜明け前に書が一番掠れる理由も、朝の魔獣が一番昂る理由も、全部、知ってた。身体が知ってた。ここの朝が、一番——重いんだ。
◇
名前は、出てくる。
検証、昇。けんしょう、のぼる。
二十代の、終わりかけ。無職。理由は、聞くな。金は、ない。あるのは、通知の枠の中の数字だけだ。増える方の数字が。
昨日の記憶は——ある。あるにはある。夕方に起きて、コンビニに行って、酒を買って、飲んで、何かの動画を見て、たぶん途中で寝た。一昨日も、だいたい同じだ。その前も。
そして、眠るたびに——俺は、あそこにいる。
岩の底に。定石の男として。仲間と、火を囲んで。
どっちが夢か、なんて話をするつもりはない。
そんな上等な話じゃないんだ、これは。ただ、事実だけを言う。俺の一日は、二回ある。起き上がれない六畳の一日と、岩の底から登っていく一日が。そして書が白紙になる朝は、いつも——こっちの、朝だった。
◇
昼過ぎに、一度、起きた。
正確には、尿意に負けた。便所に立って、ついでに流しの前に立って、水道の水を、コップに一杯、飲んだ。
ぬるくて、カルキ臭い水だった。
……あっちの、滲み水の味に、少しだけ似てた。
冷蔵庫を開けた。何もなかった。閉めた。万年床に、戻った。天井の染みを見た。染みは、見れば見るほど、何かの地図に見えた。どこの階層の地図なのかは、分からなかった。
夕方、腹が、限界の音を立てた。
俺は起き上がって——今度は、起き上がれた。腹が減ると人は動ける。生き物として、最低限の仕様だけは、まだ生きてる——財布を持って、外に出た。
西日が、痛かった。
コンビニまで、百八十歩。数えたわけじゃない。足が覚えてる。店内は明るくて、寒くて、レジの店員は俺の顔を見なかった。カゴに、カップ麺と、菓子パンと、それから——
酒の棚の前で、足が、止まった。
いつもの棚。いつもの銘柄。手が、伸びかけて。
——喉が、渇いてた。
さっき、水を飲んだのに。
……ああ。
そうか。お前か。
お前、こんな顔してたのか。
俺は棚の前に、たぶん、ずいぶん長く立ってた。買わなかった、とは言わない。今日は、指が、缶に触る前に、レジの列が伸びて——列の誰かの袋から、何かが、ふわりと香った。いい匂いだった。それだけだ。なんとなく、そのまま会計に流れた。それだけだ。勝ったんじゃない。今日は、たまたま、列が伸びただけだ。
でも帰り道、俺は袋の中を見て、思った。
討伐数、零。
……それでも、あいつなら、書くんだろうな。今日の分として。
◇
夜になった。
カップ麺を食った。うまいのかどうかは、分からなかった。味はした。それだけだった。
万年床に転がって、天井の染みを見た。
スマホが、また鳴った。見なかった。枠の形は、見なくても分かる。
目を、閉じる。
瞼の裏は、暗かった。岩の底の暗さと、同じ色をしてた。あっちでは、この暗さの中で、火が爆ぜてる。ガルドのいびきがうるさくて、ミナの寝言は小さくて、ヴァーノは寝てても口が動いてて——ヴェラは。
ヴェラは、もう、いないんだった。
どっちの世界の話をしてるのか、自分でも、分からなくなった。
眠りが、落ちてくる。重くて、深いやつが。
沈む間際、俺は思った。
──目を開けると、奈落だった。
……いや。
(第2部前半 了。「二つの朝」編に続く)




