第36話「ヴェラ」
翌朝。門の開放は夕刻。
出発準備の合間、ヴェラが俺を、野営地の外れに呼んだ。
「昨日の続き。……いえ、最初から話すわ」
朝の光——鉱脈の光が、彼女の金の髪で静かに揺れてた。
「私、ここで抜ける」
風の音が、遠くなった。
「……門は、今夜だぞ」
「知ってる。だから、今日言うの」
「理由を——」
「聞く? 本当に?」ヴェラは、少しだけ笑った。「あなたのことだから、もう仮説を三つくらい棄却してるでしょう。体調、配置、報酬。……全部外れ。答え合わせをしてあげる」
彼女は、息を一つ、置いた。
「あなたは強い。私が出会った誰より。定石は本物で、采配は正確で、仲間思いですらある。あなたのやり方で、私は何度も命を拾った。感謝してる。それは全部、本当」
「……なら」
「——でも、あなたといると、私が消える」
一語ずつ、正確に、置くように。
「あなたは、誰も必要としない。ガルドの力も、ヴァーノの口も、ミナの光も、私の剣も——『あれば強い』けど、『なければ死ぬ』ものじゃない。あなたは全部、自分の中で完結できる。それは強さよ。自由で、綺麗で……」
彼女は、そこで初めて、目を伏せた。
「……独りよ」
「————」
「私はね、ノボ。昔、人に寄りかかって消えかけた。だから境界線を引いた。寄りかからない。寄りかからせない。——あなたの隣は、その定石に、完璧だった。静かで、楽で。……楽すぎたの。半年一緒にいて、私、あなたに何ひとつ、預かってもらってない。分散保存の表に、私の欄はなかった。あなたは私を『大丈夫な人』の棚に入れて、それきり、開けなかった」
「それは——あんたが強いから」
「そうよ。私は強い。大丈夫。……ねえ、ノボ。『大丈夫な人』はね」
ヴェラは、顔を上げた。
「大丈夫かどうか、聞かれなくていい人って意味じゃ、ないのよ」
反論の言葉を、探した。
引き出しを、上から順に、全部開けた。定石の棚。講義の棚。ガルドを翻した言い換えの棚。ヴァーノを起こした一行の棚。どこかにあるはずだった。彼女を引き留める、正しい一手が。
——なかった。
どの棚にも、「行かないでくれ」の形をしたものが、一つも、入ってなかった。持ってないんだ、俺は。人を必要とする言葉を。最初から。
「……そういう顔も、するのね」
ヴェラは、泣きそうな顔で、笑った。
「最後に見られて、よかった」
◇
彼女の離脱を、仲間たちは静かに受け止めた。ガルドは長く彼女の手を握り、ヴァーノは軽口を三回試みて三回失敗し、ミナは泣いた。ヴェラは一人ずつに、正確で、温かい別れを配った。
俺には、何も要らないと言った。
だから俺は、彼女が荷を整える間に、黙って彼女の装備を全部、点検した。剣を研ぎ、鞘の留め具を締め直し、ロープの端を焼き、革具に油を入れた。最後に、外套の肩の留め具——あの仕立て屋の意匠のやつを、新品に打ち替えた。西は、風が強いと聞いたからだ。
それしか、できることを知らなかった。
受け取るとき、ヴェラは装備を一つずつ検めて——剣の刃に、自分の顔を映して——小さく、言った。
「……完璧。あなたらしい」
「どこへ行く」
「西の未踏域。私の地図の空白を、埋めに。——私の冒険は、私が書くわ」
彼女は背を向けて、数歩、歩いて。
一度だけ、振り返った。
「ノボ。最後に、一つだけ」
「……ああ」
「私が去ることが——たぶん、私があなたにできる、最後の攻略よ」
意味は、分からなかった。
分からないまま、金の髪が、朝の光の中を遠ざかって、岩の稜線の向こうに、消えた。
◇
その夜、俺たちは門を越えなかった。
誰も「延期しよう」と言い出さなかったのに、誰も準備を再開しなかった。四人になった野営地は、火の音だけがして、みんな早くに天幕へ入った。
俺は、一人で書を開いた。
今日の分を、書こうとした。
——ヴェラ、離脱。
三文字目を書いたところで、ぴし、と音がした。
書の枠線が、目の前で、縮んだ。
今までの掠れとは、速度が違った。枠の端が、砂の城が波に舐められるみたいに、見ている間に、削れていく。
ーーぼうけ( )ーー
俺は、削れていく枠を見ながら、妙に静かな頭で思った。
ああ——来るのか。今夜。
三度目が。
観測表の周期より、ずっと早い。予兆の三段階を、全部すっ飛ばして。まるで、今日の何かが、引き金だったみたいに——
先輩冒険者Aのメモ
(なし)




