第31話「本当は」
落ちていた書を、拾った。
開いたままのページが、目に入った。見るつもりは——いや、嘘はやめよう。見るつもりで、拾った。あの男の書が白紙同然だってことは、Aの言葉と、夜の岩陰と、育たない詠唱から、とっくに察しがついてた。確かめたかったんだ。俺は、そういう男だ。
本文は、白かった。
予想通り、ほとんど白かった。日付だけが並んで、その下の記録欄は、来る日も来る日も、空白。
ただ——余白が、黒かった。
ページの端。本文の枠の、外側。そこに、米粒みたいな小さい字が、びっしりと、埋まってた。
——本当は、詠唱は三節までしか使えない。
——本当は、あの武勇伝は隣で見てただけ。ロダンが竜を退けた。僕は腰が抜けてた。
——本当は、この杖は借金のカタで手放す予定だったのを、また借りて買い戻した。
——本当は、実家はもうない。「宮廷」は、父さんが潰した店の屋号だ。
——本当は、ガルドの馬鹿力が羨ましい。ミナの素直さが羨ましい。ヴェラの強さが羨ましい。大将の、あの、装備四つで平気な顔が、一番羨ましい。
——本当は、怖い。
——本当は、怖い。
——本当は
ページを、めくった。次のページも。その次も。
本文、白。余白、びっしり。
全ページ、そうだった。
この男は、書けなかったんじゃない。
書いてたんだ。ずっと。毎晩。誰にも見えない場所に。本文に書けば「それが自分だ」と確定してしまうから、確定しない場所に——余白にだけ、本当のことを。
書いては、消してた夜。あれは嘘を書いてたんじゃない。本当を本文に書こうとして、書けなくて、消してたんだ。
◇
見つけたのは、街外れの岩場だった。
夜な夜な、四節を練習してた、あの場所。逃げた男が最後に戻る場所として、これ以上の候補はなかった。
ヴァーノは、岩に座って、膝を抱えてた。装飾はもう、鳴ってなかった。
俺の足音に、顔も上げずに言った。
「……笑いに来たか、大将」
「書を届けに来た」
「捨てといてくれ。どうせ白紙だ」
「白紙じゃなかった」
肩が、跳ねた。
「————見たのか」
「見た」
「……最悪だ」ヴァーノは、顔を膝に埋めた。「最悪だよ。あんただけには、見られたくなかった。正直に書くから強い男に、俺の、あの、みっともない余白を——」
「ヴァーノ」
俺は、書を差し出した。
開いた、余白のページを、上にして。
「——余白の方が、お前の書だ」
ヴァーノが、顔を上げた。
「本文の白紙は、お前じゃない。お前が着てた鎧だ。……こっちの、米粒の字の方が、お前だ。三節までしか使えなくて、竜が怖くて、仲間が羨ましくて、毎晩それを書かずにいられなかった男。——なあ。それの、どこがみっともないんだ」
「みっともないだろ!!」
ヴァーノが、叫んだ。初めて聞く声だった。装飾を全部剥いだ、素の声。
「三節だぞ!? 冒険者の魔術師で三節は、使えないのと同じなんだよ! 正直に言えば良かった? 言ってたら、誰が僕を隊に入れる!? 誰が僕の話を聞く!? 盛った僕にしか、価値がなかったんだよ、ずっと!!」
「今日、七人助かった」
「————は?」
「膜が割れたあと、お前は三節の範囲に畳んで、維持した。夜の特訓で四節に一歩でも近づいてた分の粘りで、維持した。あの数十秒がなければ、負傷七人は、死者七人だった」
俺は、書を、あいつの膝の上に置いた。
「盛ったヴァーノが二十四人を危険に晒して——三節のヴァーノが、七人生かした。……価値の計算、合ってるか?」
ヴァーノは、膝の上の書を見た。
長いこと、見てた。
風の音だけが、遠くで鳴ってた。
◇
翌朝。
俺が目を覚ますと、焚き火の跡の向こうで、ヴァーノが書を開いてた。
ペンを持って。手を、止めて。持って。止めて。それを何度も繰り返して——それから、書いた。
本文の欄に。人生で初めての、一行を。
——私は、三節までしか使えない。
書いた瞬間だった。
書が、淡く、光った。
ページ全体が、朝日を吸った水面みたいに一度だけ明るくなって、静まった。ヴァーノは目を丸くして自分の書を見て、それから俺を見た。
「……お、おい、大将、今の」
「育ち始めたんだ。お前の書が」
最初の正直な一行から。三節の男の書として。ここから先に書かれる全部は、もう鎧の記録じゃない。
ヴァーノは、書を抱えたまま、しばらく動かなかった。
それから立ち上がって、洟を一回すすって、言った。
「……行くわ。合同隊のとこ」
「ああ」
「全部、話す」
その背中の装飾は、もう鳴らなかった。
外したんじゃない。歩き方が、変わったからだった。
……歩き出す直前、あいつの肩が、一度だけ、大きく上下したのを——俺は、見なかったことにした。
見なかったことにする、が正しく使える朝も、あるらしい。
先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。お前が余白に書いてる「本当は」、あるだろ。──あれ、一行だけ本文に書いてみろ。今夜。




