第29話「ヴァーノ、任される」
話は、街の合同作戦から始まった。
上層の最難関〈風哭きの大空洞〉を、五つのパーティ合同で抜ける遠征。空洞には風の断層があって、渡るには大規模な風避けの術式が要る。術者は、各パーティから選抜で——
「——というわけで、術式の要はぜひ、宮廷魔術師のヴァーノ殿に」
会議の席で、他パーティの隊長がそう言ったとき、俺は隣のヴァーノの息が、一瞬止まるのを見た。
「あの黄金鎧のドムス卿から聞いておりますぞ。宮廷仕込みの叡智の持ち主だとか。四節詠唱の風壁術、お願いできますな?」
四節。
俺は知らない振りをしたが、知ってた。あの夜の岩陰、書いては消してた男の詠唱は、実戦でいつも三節止まりだった。四節目に入ると、必ず、どこかが震えた。
断れば——「宮廷魔術師が四節を断る」ことになる。嘘が、割れる。
受ければ——本番で、実力が割れる。
ヴァーノは、一秒の半分くらい黙って、それから、いつもの三割増しの声で言った。
「ふっ……この僕に頼むとは、諸君、目が高い! 引き受けよう!」
帰り道、誰も何も言わなかった。ヴァーノが一番喋る男だから、ヴァーノが黙ると、パーティは静かになる。
◇
その夜から、ヴァーノは消えるようになった。
飯を早めに切り上げて、街外れの岩場へ。俺は一度だけ、遠くから見た。
練習してた。
四節詠唱を。何度も。何度も。
——そして、気づいた。あの動きに、迷いがない。杖の置き場。足場の均し方。声の潰し方。手順が、出来上がってる。今夜始めた男の、動きじゃない。
前から、やってたんだ。ずっと。俺たちに軽口を叩いて、飯を早めに切り上げて——たぶん、あの黄金鎧の夜より、もっと前から。書いては消してた男は、書いては消しながら、振ってた。誰にも、見せずに。
三節目までは流れる。四節目で、声が引っかかる。杖の先の風が、乱れて散る。舌打ち。最初から。三節。四節目。散る。最初から。三節——
夜明け近くまで、それが続いた。
——見てたのは、俺だけじゃなかった。
二晩目、岩場の入り口の岩の上に、白湯の入った革袋が置かれてた。置いた奴の姿は、ない。三晩目も、あった。四晩目、置きに来た小さい影が、俺の気配に飛び上がって、唇の前で必死に指を立てた。ミナだった。「な、内緒です! 知られたら、ヴァーノさん、意地でも飲まないので……!」
ヴェラはヴェラで、妙な動きをしてた。夜の岩場の周辺の魔獣が、先回りで間引かれてる形跡があった。練習中の男は、無防備だ。誰も頼んでないのに、誰かが夜の警備をして、誰かが白湯を置いて、全員が、知らんぷりをしてた。
……いいパーティだよ、まったく。当の本人だけが、独りで戦ってるつもりでいる。
三日目、変化があった。四節目が、十回に一回、通るようになった。五日目、五回に一回。男は、伸びてた。本物の努力で、本物に、少しだけ伸びてた。
それが、余計に痛かった。
本番まで、あと二日。五回に一回は、実戦では「通らない」と同じだ。この男は今、埋まらない距離を、埋まらないと知りながら、走ってる。最初から正直に「三節までだ」と言えてたら、要らなかった特訓を。
一度だけ、練習の合間に、あいつが独り言を言うのを聞いた。
「……魔法ってのはさぁ。世界への、言い回しなんだよ。——嘘つくと、噛むの」
誰に教わったのか、自分で掴んだのか。あの男の口からは、ごく稀に、ああいうのが転がり出る。拾って、書に書いておいた。
◇
作戦当日の朝。
集合場所で、ヴァーノは完璧だった。声は大きく、装飾は鳴り、軽口は冴えて、他パーティの緊張を解きほぐしてた。ムードメーカーの、完璧な仕事。
ただ、俺は見てしまった。
杖を握る、あいつの右手。
小刻みに、震えてた。
俺は——何も、言わなかった。
今から「代われ」と言えば、あいつの嘘は皆の前で割れる。黙って行かせれば、術式ごと割れるかもしれない。どっちの割れ方が浅いか、俺の引き出しは答えを出せなかった。人の心に、定石はない。
だから、言わなかった。
それが正しかったのかどうか、俺はこの日の午後、思い知ることになる。
先輩冒険者Aのメモ
(今日は、ない。……明日の分と、まとめてな)




