第3話「奈落で筋トレする男」
奈落の朝は、明るくならない。
ただ、岩の灰色がすこし薄くなる。それが朝の合図らしいと、三日目に理解した。
俺の一日は、こうだ。
起きる。水を飲む。岩を動かす。滲み水の窪みを広げる。周辺の通路を、昨日より一本だけ先まで見て、戻る。飯——苔と、岩陰に生えてる白いキノコ。食えるやつの見分け方は、例によって身体が知っていた。
ちなみにこのキノコ、生だと消しゴムの味だが、焚き火で炙ると、ほんの少しだけ、マシになる。三日目の発見だった。人生で一番小さい発見だと思う。でも発見は発見だ。書に書いた。誰の役にも立たない一行として。
食って、書いて、寝る。
以上。
楽しみは、ない。娯楽も、ない。あるのは手順だけだ。
「……なあ」
岩に腰掛けた見物人が、今日も口を開いた。Aだ。こいつは飯時と鍛錬時に必ず現れる。暇なのか?
「俺はいろんな冒険者を見てきたけどよ」
「ああ」
「奈落で筋トレする奴は、初めて見たわ」
「そうか」
「そうか、じゃねえのよw お前、ここ最下層? 世界で一番出口から遠い場所? で、岩? 上げ下げ? 毎朝?」
「ああ」
「なんで?」
俺は岩を置いて、少し考えた。
「……逆に聞くが、他に何がある?」
Aは黙った。
それから、盛大に噴き出した。
「っぱw ————ない! ないわ! 確かに、ねえ!」
フードの奥で、ひとしきり、本当におかしそうに笑ってた。岩の底に、あの日向の笑い声はあまりに場違いで——場違いすぎて、俺の口の端も、勝手に、少し上がった。
「……なんだよ。笑っちまったろ」
「お、笑えんじゃんw」
うるさい。
ないのだ。ここには本当に、何もない。絶望する材料なら山ほどあるが、絶望したところで岩は軽くならない。だったら、持ち上げる方がまだマシだった。
◇
脚の男——リグというらしい——は、まだ歩けない。
小柄で、薄茶の癖っ毛で、目がくりくりと忙しない男だ。何かに似てると思ったら、あれだ。岩場でたまに見かける、警戒心の強い小動物。傷が痛むと、耳……は生えてないんだが、雰囲気の耳が、へにょりと寝る。
俺の寝床の隅で手当てを受けながら、こっちを三日間、化け物を見る目で観察していた。そして三日目の夕方、ついに耐えかねたように言った。
「あんた、おかしいよ」
「よく言われる。気がする」
「普通、こんなとこ落ちたら、泣くか、喚くか、無理にでも出口に走るかだ。現に俺はそうした。それで、これだ」男は自分の脚を指した。「なのにあんたは……なんだ、その、暮らしてる」
「……暮らしてる、な」
言ってから、自分で、少しおかしくなった。確かにそうだ。世界で一番出口から遠い場所で、俺は、暮らしの話をしてる。水場の水質と、寝床の風通しと、キノコの焼き加減の話を。
「今、自分で言って、ちょっと笑いそうになった」
「笑えよ、そこは」
「怖くないのか」
怖くないのか。
いい質問だった。俺は自分の中を、少し探ってみた。怖さは——あった。あるにはあった。ただそれは、奥の方で静かに座っていて、暴れてはいなかった。
「……怖さは、暇な時に育つんだと思う」
「は?」
「だから暇を潰してる。岩で」
リグは「わけがわからん」という顔をした。それでいい。俺にもよく分かってない。
◇
変化に気づいたのは、四日目の朝だった。
岩が、軽い。
いや、正確に言おう。一昨日まで持ち上がらなかった三つ目の大岩が、今朝は膝の高さまで浮いた。
二日で人間の筋力はそんなに変わらない。なら、これは何だ。
俺は書を開いた。昨日までの記録を遡る。
——岩、一つ。動かした。
——岩、二つ動かした。
——岩、三つ。三つ目は動かず。
……検証しよう。
その日、俺は普段やらないことを一つやった。水汲みの往復を、書に「十往復」と書いてから寝た。実際には八往復しかしていない。嘘の記録だ。
翌朝。
身体は、八往復分のままだった。十往復分には、なっていなかった。それどころか——妙に、だるい。書いた分と身体の分が、ずれてる感じ。
消して、書き直した。「八往復。あと、嘘を書いた」
だるさが、抜けた。
「……なるほどな」
「気づいたか?」
Aが、いつの間にか例の岩に座っていた。
「ぼうけんのしょの基本仕様だ。——書いたことが、翌日の標準装備になる」
「やったことが、じゃなくてか」
「やって、書いたこと、だ。やっても書かなきゃ半分流れる。やってねえのに書けば……まあ、今朝ので分かっただろw」
だるさの正体か。書と身体の帳尻が合ってないと、ああなるらしい。
「じゃあ、みんな必死に書くだろ。この仕様なら」
「書くさ。——盛った戦果とか、なかった武勇伝とかをなw」
Aの声に、一瞬だけ、笑いじゃない色が乗った。
「正直に書ける奴ってのは、な。案外いねえんだよ、ノボ」
◇
その夜、寝る前に書を開いて、今日の分を書いた。
ーーーーぼうけんのしょーーーー
本日の記録
・岩、三つ目が浮いた
・水汲み、八往復
・嘘を書くと、だるい(重要)
・リグ、粥を全部食っ( )
ーーーーーーーーーーーーーー
……ん?
最後の行、一文字掠れてるな。書き損じたか。
まあいい。意味は分かる。
俺は書を閉じて、目をつむった。明日は三つ目の岩を、腰まで上げる。それと通路の探索を、もう一本先まで。やることが決まってると、眠るのは早い。
——と、思ったのだが。
「貴様ァァァ!!」
通路の奥から、怒鳴り声が降ってきた。
「そこの軟弱者ォ! 岩などチマチマ上げおって、それでも冒険者かァ! 正々堂々、儂と勝負……うおっ、ぬおっ、うわあああ」
ずんがらがっしゃん、と、盛大に何かが転がり落ちてくる音がした。
リグと顔を見合わせた。
「……なんか来たぞ」
「なんか来たな」
Aだけが、心底楽しそうに笑っていた。
※現実世界の諸君へ。書の仕様は現実にもある。──やったことは、書いた分だけ明日の自分になる。今日の分、もう書いたか?




