第2話「奈落で最初にやること」
「で? 上に行かねえの?」
Aが、岩に腰掛けてこっちを見ている。楽しそうに。
行かない。まだだ。
俺は平らな岩場を見つけて、その前に座り込んだ。ぼうけんのしょ——例の光る書を呼び出す。やり方は身体が知っていた。開くと、白紙のページが浮かんだ。
最初にやることは、決まっていた。
なんでか知らないが、決まっていた。
書く。
ーーーーぼうけんのしょーーーー
現在の状態
・武器、なし
・食料、なし
・水、なし
・地図、なし
・記憶、あやふや
・仲間、なし(変な先輩は除く)
・体力、たぶん並以下
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……書き出してみると、ひどいな。
持ってないものリスト。できないことリスト。我ながらダメの見本市だった。ダメだなあ、と声にも出た。
でも、不思議と手は止まらなかった。
「…………おい」
Aが覗き込んできた。フードの奥の声が、初めて真顔になった気がした。
「お前、書に、そんなこと書く奴なの?」
「そんなことって?」
「ぼうけんのしょってのはな、普通、勝ちを書くもんだよ。倒した魔獣。踏破した階層。挙げた手柄。──みんな、強い自分を書くんだ」
「ふうん」
俺は書きかけの「ダメの見本市」を見下ろした。それから、当たり前のことを言った。
「現在地の分からない地図に、道は引けないだろ」
Aは、しばらく黙った。
それから、フードの奥で、静かに笑った。今度は「w」じゃない笑い方だった。
「……いいね、お前」
何がいいのかは、教えてくれなかった。仕様らしい。
◇
それから俺がやったことは、冒険と呼ぶにはあまりに地味だった。
まず、水。岩壁を伝う滲み水を見つけて、窪みに溜まる場所を確保した。
飲んでみた。岩の味がした。まずい。でも、飲める。……飲める、が今日はごちそうだった。二杯目は、少しだけ、岩の味に慣れた。
次に、寝床。風の通らない岩陰を選んで、床の小石をどけて、平らにした。
それから——そこの入り口を塞いでいた岩を、動かした。
両手で抱えるほどの岩だ。重かった。膝が笑った。一度落とした。もう一度抱えた。ずり、ずり、と数センチずつ。持ち上がった瞬間、腕の奥が熱くなった。
「……ふ、」
置いた。それだけ。誰も見てない。得るものもない。
でも、書に一行増えた。
——岩、一つ。動かした。
それを見たら、なんでか、もう一つ動かしたくなった。
「なあ」Aの声。「お前さ、最下層で目覚めた男のムーブじゃないんだよな、それ。脱出とか、しないの?」
「する。いずれ」
「いずれ?」
「出口を探す体力が、今の俺にはない」俺は水の窪みを顎で指した。「だから先に、体力の出る場所を作ってる」
Aは「へえ」とだけ言った。
それから、思い出したように付け足した。
「知ってっか? 影スライムってよ、実は甘いらしいぜ。核のとこ」
「……食ったのか?」
「いや? 聞いた話w」
「誰に」
「さあなw」
この男の情報は、三割が命を救い、七割がこれだ。仕分けは、こっちの仕事らしかった。
◇
その「いずれ」が正しかったと分かったのは、日が——奈落に日があるのかは知らないが、明るさが落ちてきた頃だった。
悲鳴。
通路の奥から、男が転がり込んできた。脚から血。装備は上等なのにボロボロで、顔は真っ白だった。
「く、来るな、来るな来るな……ッ」
男の後ろの暗がりに、光が二つ。四つ。六つ。
低い唸り。犬——に、似た何か。黒い体毛が闇と同じ色をしていて、目だけが浮いている。
黒犬。
名前と一緒に、また、あれが来た。
——黒犬は、追うな。仕留めようとするな。
あれは一匹倒すと、血の匂いで二匹来る。二匹倒せば四匹だ。戦えば戦うほど増える。逃げてもだめだ。背中を見せた獲物は全力で追う。
定石は一つ。
目を切らずに、後退。ゆっくり。縄張りの線を、こっちから割る。
「おい、あんた」俺は転がってる男に言った。「立てるか」
「む、無理だ、脚が」
「じゃあ肩を貸す。いいか、走るな。俺が動いた通りに動け」
「は? 走らないと死ぬだろ……!」
「走ったら死ぬんだよ」
男を担ぎ上げて、俺は黒犬たちに正面から向き直った。目を、切らない。一歩、下がる。二歩。唸り声が大きくなる。構わない。あれは威嚇だ。三歩。四歩。
黒犬たちは、線を越えてこなかった。
闇に、目の光がひとつずつ沈んでいく。
寝床の岩陰まで戻って、男を下ろした。男はしばらく呼吸を整えてから、化け物でも見る目で俺を見た。
「……なんで、戦わなかった」
「勝ったからだ」
「は?」
「一匹も倒してない。一滴も血が出てない。全員帰ってきた」俺は書に手を伸ばした。「これ以上の勝ちが、あるか?」
書に、今日の分を書き足す。
ーーーーぼうけんのしょーーーー
本日の記録
・水場、確保
・寝床、確保
・岩、二つ動かした
・黒犬の群れ、勝ち(討伐数・零)
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男はまだ何か言いたそうだったが、脚の手当てを始めたら黙った。
夜——奈落の夜は、深い。
岩陰の外で、Aの声だけがした。
「なあ、ノボ」
「なんだ」
「お前のその戦い方……いや、生き方? どこで覚えた?」
「……分からん」
「だろうな」
Aは笑わなかった。代わりに、独り言みたいに続けた。
「──先に生活、それから攻略。定石を知ってて、勝ちの数え方が普通と逆。……なあ、ノボ。お前、」
言いかけて、やめた。
「……いや。まだいいか」
「おい、気になるだろ」
「仕様だw」
その夜、遠くで——ずっと遠くの通路の奥で、誰かの悲鳴が聞こえた。
走って出口を探しに行った、誰かの。
俺は目を閉じて、聞こえなかったことにしなかった。ただ、書の最後に一行だけ足した。
——明日は、もう少し遠くまで。
※現実世界の諸君へ。立て直しの最初の一歩を教えてやる。──かっこ悪いことから、書け。




