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第23話「ぼうけんのしょが消えた日」(第1部・最終話)


 朝は、静かに来た。


 悲鳴もなく。前触れもなく。奈落の灰色が、いつも通り、少しだけ薄くなって。


 俺は目を覚まして、いつも通り、まず書を呼び出した。


 白かった。


 ◇


 最初のページ。白い。


 めくる。白い。


 めくる。めくる。めくる。白い。白い。白い。


 最下層の「ダメの見本市」も。岩、一つ。動かした、も。黒犬の完封も。定石の再記録も。呪印の攻略も。イヴォへの一行も。ミナの「ミ」を覚えてろと書いた、あの夜のページも。


 昨日の、いい一日も。


 全部。


 一枚、残らず。


 ◇


 ……よし。


 と、俺は思った。思おうと、した。


 観測してた。知ってた。来ると分かってた。だから、やることは決めてあった。慌てない。まず、検証だ。


 身体を、起こす。立てた。よし。人間、立てるうちは詰んでない。


 短剣を抜く。素振り、一連。——身体は、覚えてる。型は消えてない。書が消えても、手が覚えたものは残る。仮説一、成立。


 野営の手順。指が勝手に荷をまとめ始める。残ってる。仮説二、成立。


 定石。影スライム、殴るな。出てくる。黒犬、追うな。出てくる。頭の引き出しは、無事だ。仮説三——


 「……ノボ、さん?」


 ミナの声がした。


 起きてきた仲間たちが、俺を見てた。俺の手元の、白い書を見てた。


 誰も、何も言わなかった。言えなかったんだと思う。ガルドの拳が、音を立てて固まった。ヴァーノの顔から、軽口の在庫が消えてた。ヴェラは——ヴェラは、静かに近づいてきて、白いページを一枚、確かめるように見た。


 「……全部?」


 「全部だ」


 「あなた、今、どういう状態?」


 「問題ない。検証は済んだ。身体は覚えてる。手順も残ってる。定石も引ける。消えたのは記録だけで、記録した俺は消えてない。──再記録には十日もあれば」


 「ノボ」


 「食料の在庫から書き直す。それからガルド、お前の書に俺の戦闘定石が写してあったな。あれを読ませてくれ。ミナの書には回復の、ヴァーノには地図が——」


 「大将」


 「……なんだ」


 「誰も、段取りの話はしてねえよ」


 ◇


 その日、俺は宣言通りに動いた。


 仲間の書から、預けてあった定石を書き戻す。街の壁に貼られた俺の定石を、逆に写して回る。効率的だった。我ながら、完璧な再建計画だった。夕方には、白紙の書に、最初の十数ページが戻っていた。


 ほらな。


 消えても、残るものはある。俺はそれを最下層からずっと積んできた。だから、大丈夫だ。これは、対策済みの災害だ。想定の範囲内だ。俺は大丈夫だ。


 夜になった。


 宴のあとの、昨日と同じ卓。ミナが花を取り替えていた。


 「あの、ノボさん。……これ」


 ミナが、おずおずと、自分の書を差し出してきた。


 「私の書、その、回復の定石以外も、写して大丈夫なので。旅の記録も。ノボさんの分の思い出、私の書にいっぱい書いてあるので、その、よかったら」


 「……ああ。助かる」


 受け取って、開いた。


 几帳面な、真面目な字。手柄が全部他人の名前で書かれてた頃の癖は、もうだいぶ抜けて、ちゃんと「私が」で始まる行が増えてる。いい書になったな、と思いながら、ページを繰って——


 その一行で、手が止まった。


 昨日の日付。宴の記録。彼女の字で、昨日が、生きてた。


 ——お肉、おいしかったです。ガルドさんに勝負を挑みました(負けました)。


 ——お花を、買いました。人生で初めて。ヴェラさんが「いいじゃない」って言ってくれました。


 ——ヴェラさんが冗談を言いました。みんな、笑いました。


 その並びの、一番下。他のどの行より、少しだけ、丁寧な字で。


 ——ノボさんが、笑った。


 ◇


 笑って、なかった。


 俺は昨日、笑えなかった。口の形を作ろうとして、手順が出てこなくて、作れたかどうかも分からないまま、肉がうまいと言ってごまかした。あれは、笑いじゃなかった。俺が一番知ってる。


 なのに。


 ミナの書には、笑ったと書いてある。


 嘘を書く子じゃない。書に見栄を書く子じゃ、もうない。ってことは、この子には、見えたんだ。俺の、あの出来損ないの口の形が——笑ったように。この子は、それを、書き残す価値のあることとして、宴の記録の最後に、書いたんだ。


 ノボさんが、笑った。


 たった、それだけの一行。


 俺の白紙の書には、もうどこにもない、昨日の夜。それが、この子の書には、残ってる。俺が消えても——俺は、ここに、残ってた。


 「ノボさん……?」


 視界が、揺れた。


 膝が、岩の床についた。音がした。自分の膝の音だと、一拍遅れて分かった。


 立てるうちは、詰んでない。ずっとそう言ってきた。立てなくなったのは、最下層で目覚めてから、初めてだった。


 白紙の書を抱えたときは、立ってられたのに。


 たった一行に、膝が落ちた。


 「ノボさん!? どこか痛いんですか、傷、傷はどこ——」


 ミナが慌てて回復の光を出す。傷はない。閉じる場所がない。ガルドが駆け寄って、ヴァーノが椅子を蹴って立って、ヴェラが——ヴェラだけが、動かずに、全部分かってる目で、俺を見てた。


 俺は、床に手をついたまま、自分の中を探した。


 これは、なんだ。この、胸の奥の。しんとしてた場所が、軋んでる、これは。名前が出てこない。定石が出てこない。引き出しの、どこにも——


 「…………すまん」


 声が、掠れた。


 「少しだけ、……このままで、いい、か」


 誰も、何も聞かなかった。


 ミナはただ、隣に膝をついて、俺の背中に小さな手を置いた。回復の光は、もう出してなかった。傷じゃないと、分かったんだと思う。


 ◇


 どれくらい経ったか。


 宿の外の岩に、気配がした。


 顔を上げると、窓の向こう、いつもの定位置に、フードの男が座ってた。


 いつから見てたのか。たぶん、朝からだ。


 Aは、フードの奥から俺を見て、いつもの軽い声で——でも、いつもより、ほんの少しだけ静かな声で、言った。


 「よう。


  ──二回目は、少しだけ楽だぞ」


 ……二回目?


 その夜、写し戻しの済んだ書の、一番新しいページに、俺は、一行だけ書いた。


 ——ミナの書に、俺がいた。


 それ以上は、書けなかった。書けない行、というものがある夜だと、初めて知った。



先輩冒険者Aのメモ

※現実世界の諸君へ。今日は何も言わねえ。


 また明日な。


(第1部・奈落編 了。第2部「攻略編」に続く)


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