幕間「楔」
中継街の東に、古い岩橋がある。
深い裂け目に渡された一本道で、東の坑道へ行く冒険者は、全員ここを通る。俺たちもその朝、依頼でそこを通った。
橋の袂で、ガルドが足を止めた。
「……ん? この楔、新しいな」
橋板を岩に留める楔が——十数本、全部、打ち直されてた。手際は玄人だ。打ち込みの角度、深さ、間隔。長年の傷んだ楔を抜いて、締め直して、揺れを殺してある。昨日今日の仕事だった。
「ギルドの補修依頼かね。いい仕事してんなあ」
ヴァーノがそう言って、俺たちは渡った。橋は、揺れひとつしなかった。
——気になったのは、帰り道だ。
橋の下の岩棚に、小さな野営の跡があった。焚き火の跡、一つ。そして、その傍らに。
書が、一冊、落ちてた。
◇
白紙だった。
表紙から、最後のページまで。持ち主の名前のページも、真っ先に。完全な、白紙化のあとの書だった。
ただ——最後の数ページに、跡があった。文字じゃない。インクはもう乗らなかったんだろう。爪で、紙に直接、刻もうとした跡。ほとんど読めない。かろうじて、二文字ぶんの、へこみ。
「は」と「し」——に、見えなくもない。それだけだ。
俺は、状況を組み立てた。組み立てたくなくても、組み立ってしまった。
白紙病の、最後の夜だったんだ。誰かの。予兆は分かってたはずだ。枠線の短縮も、掠れの加速も。自分の朝が来ないことを、この人は、知ってた。
知ってて——最後の夜に、橋の楔を、打ち直した。
十数本。一晩がかりの、玄人の仕事を。明日から渡る、顔も知らない連中のために。自分の名前が、書のどこにも残らないと知りながら。
◇
ギルドに書を届けた。ロゼが台帳を三日かけて照会してくれたが、該当者は、出なかった。白紙の書は、身元にならない。最近この街に出入りした楔打ちの心得のある冒険者——候補は、多すぎて、絞れなかった。
「……ごめんなさい、先生。分かりませんでした」
「いや。……手間をかけた」
誰かは、いたんだ。確かに。腕のいい、橋の直せる、最後の夜の使い方を知ってる誰かが。その誰かの名前を、この世界はもう、どこにも保存してない。
感謝したい。心の底から。なのに、宛先が、ない。
このもやもやを、俺は、どこに置けばいいのか分からなかった。数日、分からないままだった。今も、半分、分からないままだ。
分からないまま、俺は、定石の壁に一枚、貼った。
——この橋を直した誰かへ。
——今日、十七人が渡った。俺が数えた。明日も渡る。
——あんたの楔は、鳴らない。いい仕事だ。
それだけの一枚だ。読む本人は、もういない。それでも貼った。壁の何千枚の中で、宛先のない一枚が、一枚くらいあってもいいと思った。
……いや、違うな。正直に書く。
本当は——何千枚、あるんだろう。最初から。
ーーーーぼうけんのしょーーーー
本日の記録
・東の橋、補修済み(施工者・不明)
・書、一冊。ギルドに納めた
・楔は、鳴らなかった
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先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。今日お前が無事に渡った橋、誰が締めたか知ってるか。……知らないよな。俺も知らねえ。——せめて、渡り方だけ、丁寧にな。




