第21話「書の掠れ」
見つけたのは、ヴァーノだった。
宿の食堂。飯のあと、俺が書を開いて今日の分を書いていたときだ。向かいで杖を磨いてたヴァーノが、ふと手を止めた。
「……おい、大将。お前の書」
「ん?」
「ページの端。——白くなってないか?」
書を、光にかざした。
なってた。
開いてるページの右端。枠線が、途中で薄れてる。よく見れば文字も、端の数文字が、砂を撒いたみたいに掠れてる。
「なんだこりゃ。湿気か?」
「書は湿気らないでしょ、光の書なんだから」ヴァーノの声が、笑おうとして、笑い切れてなかった。「……なあ、大将。前から時々あったよな、それ。一文字だけ掠れてるやつ。書き損じって言ってたけど」
言ってた。三話も前から——いや、思い返せば最下層の頃から、あった。一文字。また一文字。書き損じ。インクの掠れ。そう処理してきた、小さな白。
俺は過去のページを、遡った。
数えた。
掠れは、十七箇所あった。
全部、俺の筆跡の途中で、文字が白く抜けてる。そして——古いページほど少なく、最近のページほど、多い。
増えてる。
「……ちょっと、待ってな」
ヴァーノが席を立って、食堂の主人——この街で三十年宿をやってる古株の爺さんを連れてきた。
爺さんは、俺の書を一目見た。
一目で、顔色が変わった。
「あんた……これ、いつからだ」
「掠れ自体は、二月ほど前から。増えたのはここ十日だ」
「絶好調だったろう、ここ十日」
「……なんで分かる」
爺さんは答えずに、椅子に座り込んだ。深い、深いため息をついた。
「——白紙病だ」
食堂が、静かになった気がした。
「儂も三十年で、四人しか見とらん。書が、端から白くなる。掠れが増える。速くなる。それで、ある朝——」
爺さんは、そこで言葉を切った。
「ある朝、どうなる」
「…………」
「爺さん。頼む」
爺さんは、俺の顔をしばらく見て、目を伏せた。
「——全部、白くなる。一晩でだ。技の記録も、定石も、旅の記録も。書いた文字が、一枚残らず」
「……回復は」
「せん。白紙になった書は——」
爺さんの声が、低くなった。
「——二度と、戻らない」
◇
その夜、俺は一人で書と向き合った。
仲間には「対策を考える」と言った。嘘じゃない。ただ、正確に言えば、俺が最初にやったのは対策じゃなかった。
観測だ。
新しいページに、線を引いた。日付。掠れの数。前日比。発生箇所の傾向(端から。固有名詞から)。進行の速度。
病名を貰ったんだ。なら、やることは決まってる。恐れは、測れないものに湧く。測れるものは、ただの数字だ。
……というのは、半分、強がりだ。
窓の外で、雨が降り始めた。
奈落に雨が降るのを、初めて見た。天井があるのに、どこから来るんだか。ヴァーノが前に言ってた——この世界には言い伝えがあるらしい。「奈落の雨は、上で誰かが泣いた分だけ降る」んだと。……非科学的にも程がある。検証のしようもない。
その夜の雨は、長かった。
その雨の途中で、一度だけ——気づいたら、書の白紙のページを、掴んでた。
破る手前まで、指に力が入ってた。どうせ消えるなら、いっそ俺の手で——そこまで考えて、指が、止まった。
……何をしてる、俺は。
手を離した。ページには、皺が残った。皺は、翌朝も残ってた。観測記録の隅に、小さく書いた。「——一晩、乱れた」。それも記録だ。それが、記録だ。
ペンを持つ手の下で、書きたてのインクの一文字が、目の前で、ふ、と白く抜けた。
初めて、進行の瞬間を見た。
俺は、その白を、しばらく見ていた。
それから、その隣に書いた。
——今、一文字消えた。「ミナ」の「ミ」だった。
——固有名詞から消える。大切な名前から。
——覚えてろよ、俺。書が忘れても、俺が覚えてろ。
ーーーーぼうけんのしょーーーー
本日の記録
・白紙病、告知される
・掠れ、計十七。観測開始
・ミナの「ミ」、消失。俺は覚えてる
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先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。怖いものは、まず数えろ。──数えてる間、恐怖は手を出せない。




