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第18話「泉に沈んだ男」


 大階段の中腹、五百と何段目かの踊り場で、俺たちは夜を越すことにした。


 その踊り場の壁にも、定石の壁の続きみたいに、古い紙が数枚貼られていた。


 その中の、分厚い一束に、俺は手を止めた。


 一枚じゃない。何十枚もの書の写しが、紐で綴じられてる。表紙代わりの一枚目に、几帳面な字でこうあった。


 ——泉の研究記録。イヴォ。


 泉。


 俺は焚き火の横に座り込んで、その束を、最初から読んだ。


 ◇


 イヴォという男は、天才だったらしい。


 束の前半は、圧巻だった。奈落中の魔獣の定石が、彼一人の手で何十と書き足されてる。壁の定石の三割は、この男の筆跡だという注記もあった。剣も立ち、頭も切れ、そして誰より、検証の男だった。


 「確かめてないことは、書かない」


 それが一枚目に掲げられた、彼の信条だった。


 その男が、ある日、泉に出会う。


 ——青白い泉を発見。近づくと渇きが増す。興味深い。


 最初の記述は、それだけだった。


 ——渇きは距離に比例する。十歩で軽微、五歩で強、三歩で思考の三割が水に向く。数値化できる。つまり、管理できる。


 ——ほとりの連中は管理を怠っただけだ。渇きの正体を知らずに飲むから、沈む。俺は正体から入る。順番が違う。


 ——本日、五歩地点に一刻滞在。離脱成功。渇きは離れれば消える。完全に制御下にある。


 読みながら、俺は自分の呼吸が浅くなっていくのが分かった。


 書いてあることは、正しいんだ。一行ずつは、全部。検証も、数値も、手順も。俺が読んでも穴がない。


 ——三歩地点、達成。連中が何に溺れてるのか、成分を知る必要がある。知らずに「近づくな」とだけ書くのは、俺の信条に反する。確かめてないことは、書かない。


 ——一口。検証のための、一口。舌先のみ。記録する。あれは、疲れが消えるんじゃない。疲れて「いい」ことになるんだ。この違いは飲まなきゃ書けなかった。飲んでよかった。これで正確に警告が書ける。


 ——喉が、鳴った。


 読んでるだけの、俺の喉が、だ。泉から何日も離れた、大階段の中腹で。文字を追うだけで、あの青白い「おいで」が、ページの奥から滲んでくる。俺は自分の水筒の、ぬるい滲み水を一口飲んで、続きを読んだ。読むのをやめる、という選択肢は——なぜか、最初から、なかった。


 ページをめくる手が、重くなった。


 ——二口目。一口目のデータの再現性確認のため。


 ——渇きの制御は維持している。俺は連中とは違う。連中は知らずに飲んだ。俺は知って飲んでいる。


 ——ヴェス(相棒)がうるさい。心配は有難いが、彼は数値を見ていない。感情で止める者と、数値で進む者。研究に必要なのはどちらか。


 ——ヴェス、離脱。好きにしろと言われた。好きにする。せいせいした。静かになった。やっと、静かに


 その行は、途中で終わっていた。


 次のページから、字が変わる。


 几帳面だった文字が、波を打ち始める。日付が飛ぶ。三日。十日。


 ——泉のほとりは研究に最適。移住は合理的判断。


 ——渇きは消えた。ずっとここにいれば渇かない。これも発見だ。誰も書いてない。俺だけの発見。


 ——今日は何も検証しなかった。 別にいい。


 ——別にいい。


 ——別にい


 白紙が、数枚続いた。


 束の、最後の一枚。


 そこだけ、字が戻っていた。震えて、掠れて、でも、あの几帳面な男の字が。


 ——最後の検証結果を書く。確かめたことしか書かない。それだけは守る。


 ——泉に勝てる者は、いない。俺で確かめた。


 ——理屈は全部間違いだった。管理も、数値も、「知って飲めば違う」も、全部。正しかったのは最初の直感だけだ。近づいた時点で、俺は負けていた。


 ——だからもう理屈は彫らない。石には四文字だけ彫る。理屈は反論できる。四文字には反論できない。


 ——ヴェス。お前が正しかった。この束を壁に貼ってくれ。俺の定石の最後の一枚だ。


 ——検証者イヴォ、最後の記録。近づくな。


 ◇


 束を閉じて、俺はしばらく、焚き火を見ていた。


 あの石碑。爪を立てるみたいな、四文字の彫りの深さ。


 あれは警告じゃなかった。あれは、この男の——最後の定石だ。理屈を全部脱ぎ捨てて、次の誰かのために残した、たった四文字の。


 そして俺は、あの四文字で、迂回できた。


 「……読んだのか」


 Aが、いつの間にか、焚き火の向こうにいた。


 珍しく、茶化す気配がなかった。


 「あんた、イヴォを知ってるのか」


 「……壁の三割は、あいつの字だ。奈落で定石を使う奴で、あいつの世話になってない奴はいない」


 Aは、それだけ言った。誰の言葉だと思う、とは今夜は聞かなかった。


 俺は書を開いて、今日の分を書いた。少し迷って、一行足した。


 誰に届くわけでもない。でも、書かずにいられなかった。


ーーーーぼうけんのしょーーーー


 本日の記録

 ・五百段目、通過

 ・イヴォの束、読了

 ・あんたの四文字で、俺は生きてる


ーーーーーーーーーーーーーー



先輩冒険者Aのメモ

※現実世界の諸君へ。「俺は分かってるから大丈夫」——それを言った奴から沈む。分かってる奴ほど、離れてろ。


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