第12話「黒い魔獣(後編)」
なんで生きてるの。
その問いは、耳から入らなかった。
もっと内側——胸の裏あたりから、直接聞こえた。俺の声で。俺の抑揚で。俺が俺に聞くときの、あの平坦さで。
「……答える義理はないな」
「そう?」
獣は首を傾げた。俺が考え事をするときの角度で。
「じゃあ、代わりに教えてあげる。おまえが今日、笑わなかった回数。九回。笑うべき場面で。ミナの粥がこぼれたとき。ヴァーノの詠唱が噛んだとき。みんな笑ってた。おまえだけ、笑う場所を探して、見つからなくて、口の形だけ作った」
「──黙れ」
「数えてたの、おまえだよ。僕は読み上げてるだけ」
石を掴んで、投げた。
獣を、すり抜けた。
拳で殴った。煙を殴った。手応えがない、どころじゃない。殴った俺の拳の方が、冷たくなった。
「効かないよ。僕、おまえの外にいないもん」
◇
その日から、俺のルーチンが崩れ始めた。
朝の鍛錬の途中で、手が止まる。獣が見てるからじゃない。獣の言った「九回」を、数え直してる自分がいるからだ。
書を開く。今日の記録を書こうとする。
——本日の記録。
その先が、出てこない。
水汲み、八往復。書ける。事実だから。でもその横に、獣の声が並ぶ。八往復して、なんで生きてるの? 岩を上げて、なんで生きてるの? 記録して、積んで、強くなって——それで?
三日で、俺は誰の目にも分かるくらい、おかしくなった。
「大将。……飯、三口しか食ってないぞ」
「ノボよ。今日の指示、二度同じことを言ったぞ。貴様らしくもない」
「ノボさん、あの、私、何もできませんけど、その、隣にいるくらいなら」
仲間の声が、水の中から聞こえるみたいに遠かった。
俺は「大丈夫だ」と言った。九回目の、口の形だけの笑いと一緒に。
◇
四日目の夜番。獣は、もう焚き火のすぐ横にいた。
俺の隣。定位置みたいな顔で。
「ねえ。楽になる方法、知ってる?」
「……泉にでも沈めってか」
「まさか。もっと簡単だよ。──僕を、いない事にすればいい。今までそうしてきたみたいに。上手だったじゃない、ずっと」
ずっと?
その一言が、引っかかった。
ずっと、とはいつからだ。俺の記憶は霧の向こうだ。なのにこいつは、霧の向こうの俺を知ってる口ぶりで喋る。
……待てよ。
俺は、書を呼び出した。
「何するの」
「検証だ」
こいつは殴れない。斬れない。定石の引き出しにも、いない。
いないなら——俺が、最初の一人になればいい。
定石ってのは、たぶん、こうやって生まれたんだ。誰かが、図鑑にないものに出会って、死なずに、書いた。それだけのことなんだ。
ペンを持つ。手が、震えた。
書くってことは、認めるってことだ。こいつが、いると。こいつの言葉が、俺に刺さったと。九回、数えられていたと。
震えたまま、書いた。
——黒い獣に、会った。
——「おまえ、なんで生きてるの」と言われた。
——答えられなかった。
——それが、いちばん、こたえた。
書き終えて、もう一つ、気づいたことがある。
この手つきに、慣れがあった。書いて、距離を取る。名前をつけて、棚に載せる。生まれて初めてやったはずの動作を——手が、知ってた。
まただ。
「また」の出所は、今夜も、霧の向こうだった。
一行書くごとに、獣の輪郭が、薄くなった。
消えはしない。ただ、煙の密度が下がるみたいに、薄く、遠くなっていく。
「……へえ」
獣の声から、初めて、俺の声じゃない何かが混じった。
「書くんだ。僕のこと」
「ああ」
「消えないよ、それでも」
「知ってる」もう分かってた。「消すために書いたんじゃない」
獣は、しばらく俺を見ていた。
それから、来たときと同じ静かさで、焚き火の光の外へ歩いて行った。三歩の距離が、十歩になった。十歩の先で、座り直した。
いる。まだ、いる。
でも、遠い。
◇
翌朝、俺は四日ぶりに飯を全部食った。
ミナが泣きそうな顔で粥をよそい、ガルドが黙って肩を叩き、ヴァーノが「心配かけやがって」と憎まれ口の形の何かを言った。
「よう。生還したかw」
いつの間にか、Aが焚き火の向こうにいた。
「……あんた、あれが何か知ってるのか」
「さあな。ただ——」Aは、遠くの岩陰を、フード越しに一瞥した。「消えないぞ、あれは」
「だろうな」
「怖くないのか?」
「怖いよ」
正直に言えた。書いたからかもしれない。
Aは、フードの奥で笑った。
「……で、どう思う?w 消えない敵と、この先ずっと一緒に登るの」
考えて、俺は答えた。
「──荷物が一つ増えただけだ」
ーーーーぼうけんのしょーーーー
本日の記録
・飯、完食
・黒い獣、討伐数・零。距離・十歩
・荷物が一つ増えた
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先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。夜中に声で来るやつは、殴っても効かん。──書け。名指しで。それだけで距離が変わる。




