幕間「五冊目の白紙」
物語を書き始める前に、実は、一度、失敗してる。
その話を、書いておく。飛ばした奴がいたら、戻ってきて読んでくれ。かっこ悪い話ほど、先に書く。それが俺の流儀だから。
◇
最初に書こうとしたのは、物語じゃなかった。記録だ。自分の半生の、正直な記録。あの夜のことも、獣のことも、全部書いて、けじめにする——そのつもりで、ノートを一冊、下ろした。
三日で、一冊、書けた。
読み返して、破り捨てた。
そこに書かれてた「あの頃の俺」は——化け物だった。金をせびる場面は醜悪に、喚く場面は滑稽に、波の全能感は狂気として、書かれてた。一行ごとに、書き手の憎悪が滲んでた。俺は、過去の俺を、処刑するみたいに書いてた。
これは、違う。
二冊目は、逆に振れた。あの頃の俺を、病気の被害者として書いた。かわいそうな男。誰にも理解されなかった男。環境が、運が、脳の配線が悪かった——読み返して、破り捨てた。嘘だ。これも嘘だ。俺には、選べた瞬間が、確かに何度もあった。全部を病気の袋に入れたら、選べたのに選ばなかった俺まで、消えてしまう。
三冊目。事実だけを書こうとした。日付と、出来事と、金額。感情を全部抜いた、検証記録。……三分の一で、手が止まった。乾いた記録の中で、あの頃の俺が、標本になってた。ピンで留められた獣。これは記録じゃない。剥製だ。
四冊目は、十ページで、やめた。
もう、何が正しい書き方なのか、分からなくなってた。
◇
四冊の残骸が、部屋の隅に積んであった。
俺は、それを見て——ぞっとした。
四冊。
消した版が、四つ。
……おい。俺は、何をやってる? 六畳のあの部屋で、何に署名した? 消さない、と書いたんじゃなかったのか。なのに現実の俺は、書き直すたびに、前の版を破り捨ててる。悪役にして消し、被害者にして消し、標本にして消し——やってることが、白の海と同じだ。俺は自分の手で、自分の沈殿を、また作ってた。
その夜は、眠れなかった。
眠れないまま、机の引き出しを開けて、母の手紙を、読み返した。
——あの頃のあなたの字は、獣の字でした。今度のは、あなたの字でした。
……あの人は、両方を「あなた」と書いてる。
獣の字も、今の字も、同じ「あなた」の字として。悪役にも、被害者にも、標本にもせずに。ドア越しに聞いた喚き声を、五年かけて、ただ「大きな獣がいた」とだけ、書いてる。
書けるんだ。ああいう書き方が、この世には。
俺は、五冊目を、下ろした。
そして、最初のページに、物語としてでも、記録としてでもなく——まず、一行だけ、書いた。獣の側の言い分を。六畳で聞いた、あの声を。あいつが百万回喚いた要求の、皮を全部剥いだ、芯の一言を。
——たすけて、って言いたかっただけなんだ。
書けた。
その一行が書けたら、次の行が、来た。次が来たら、その次が。処刑でも、弁護でも、剥製でもない書き方が——隣に座る書き方が、五冊目にして、やっと、ペン先に降りてきた。
破り捨てた四冊は、捨てなかった。
紐で縛って、机の下に、置いてある。あれも俺の版だ。四回間違えたから、五冊目が書けた。……どこかの壁の、最初の一枚と、同じ理屈で。
先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。自分の過去を書くとな、最初は必ず、処刑か弁護になる。──五冊目まで付き合え。隣に座れるのは、その辺からだ。




