幕間「最初のひと月」
97話で「最初のひと月が一番きつかった」と一行で流した。
あれは、嘘じゃないが、手抜きだ。一行で流していい月じゃなかった。だから、ここに置く。読み飛ばしてもいい。でも俺は、書く。白紙のままにしない、と署名した男だからだ。
◇
帰還して、三日目の夜から、眠るのが怖くなった。
おかしな話だ。ずっと、眠りは扉だった。閉じれば、火があって、いびきがあって、寝言があって、皿の音がした。それが——閉じても、どこにも行かない。朝まで、ただの暗闇。目が覚めても、六畳。おはようを言う相手が、天井の染みだけ。
二週目、もっと怖いことが起きた。
ミナの声の高さが、思い出せなかった。
朝、ふと確かめようとして——出てこなかった。ガルドの笑い方は出る。ヴァーノの軽口の調子も出る。なのにミナの「はいっ!」の、あの跳ねる音程だけが、霧の向こうだった。三十分、部屋の真ん中に座り込んで、記憶の引き出しを全部開けた。三十一分目に、出てきた。出てきた瞬間、涙が出た。安堵と、恐怖が、半々の涙だった。
人は、忘れる。どれだけ大事だったものでも。
あの夜の王の声が、初めて、骨で分かった。あの男は、これと、何百年、戦ってたのか。
◇
三週目が、谷底だった。
カーテンを、開けられない日が、三日続いた。仕事は休んだ。飯は、食える日と食えない日が半々。書けたのは、一日一行。
——今日は、無理だった。
それだけ。三日、同じ一行。
でも、書いた。無理だった、を、三回、正直に。四日目の朝、その三行を読み返して、思った。……三行ある。つまり俺は、三日、記録を落とさなかった。谷の底でも、書の男は書の男だった。それが分かったら、カーテンの隙間くらいは、開いた。
◇
四週目に、診察室の椅子に座った。
ずっと先延ばしにしてた通院の、再開だった。待合の番号札、消毒液の匂い、古い雑誌。医者は、俺の話を、長いこと、直そうとせずに聞いた。天幕の座り方を知ってる人だった。
帰りに渡された紙の、診断名の欄に、印字があった。
——双極性障害。
波と、獣に、正式な名前があることは、前から知ってた。知ってたが、自分宛ての紙で見るのは、これが初めてだった。
しばらく、その五文字を見てた。
名前ってのは、武器にも、鎖にもなる。鎖として持てば、「俺はこういう人間だから」の言い訳が一生分手に入る。武器として持てば——敵の名前が分かってる戦いは、定石が組める。観測ができる。先人の記録が、探せる。
俺は、武器として、持つことにした。
この名前を、俺はこの先、本文ではもう書かない。俺の書に載せる名前は、俺が決める。あいつのことは、波と、獣と呼ぶ。ただ——正式な名前が一つあると知って、通院と、決まった時間の一錠が生活の定石に加わって、少しだけ、地面が固くなったのも、本当だ。
◇
ひと月の終わりの夜、俺は百円のノートに、妙なリストを作った。
——ガルド:「愚問ォ!!」。笑うとき、先に鼻が鳴る。
——ヴァーノ:「金なら、あるよ?」。嘘をつく前に、右眉が上がる。
——ミナ:「はいっ!」。音程、高め。跳ねる。
——ヴェラ:「——で、」。間合い、正確。笑うと目から。
——セレナ:「ん。」。……これは、忘れようがない。
忘れないための、リストだった。書けば、載る。載れば、消えない。この世界のノートに、その仕様があるのかは知らない。知らないが——俺が書き続ける限り、こいつらは俺の中で、うるさいままだ。
リストの最後に、俺は一行、足した。
——全員、書く。いつか、ぜんぶ。読まれる場所に。
ペンを置いて、気づいた。……ああ。これが、動機か。
救うためだけじゃ、なかったんだな。俺は——忘れたくないんだ。
先輩冒険者Aのメモ
『※現実世界の諸君へ。中の人からもう一言だけ。——谷の底の「今日は、無理だった」の一行な。あれ、立派な本日の記録だぞ。白紙と、無理だったの一行は、別物だ。————天と地ほどな』




