第97話「目覚め」
目が、覚めた。
天井が、あった。黄ばんだクロスの、雨漏りの染みの、あの天井。
六畳。万年床。カーテンの隙間の、朝の光。
俺は、しばらく、動かずに、天井を見てた。
胸の上に——岩は、なかった。
起き上がる。立てた。……よし。
書を——百円のノートを、開いた。奈落の記録は、載ってない。あっちの書は、あっちで綴じられた。こっちにあるのは、こっちの記録だけだ。カーテン、開けた。封筒、二通処理。三行、出せた。……こっちはこっちで、ちゃんと、積んであった。
最後のページに、俺の筆跡で、俺の書いてない一行は——
なかった。
もう、届かない。二冊は、一冊になったから。書き手も、一人になったから。
代わりに、と言っていいのか。胸の奥に、あの軽い気配だけは、残ってた。日向みたいなやつが。夢だったのか、と聞きかけて、やめた。答えの分かってる問いは、あいつの家賃にならない。
◇
それからの日々を、早送りで書く。
役所に、通った。返済の組み直しが、正式に回り始めた。二十七の数字は、月々の一つの数字に、刻み直された。
仕事が、決まった。倉庫の、通いの口だ。日雇いで顔を覚えられてた現場からの、声がかかった。「あんた、地味だけど手順がいいから」だと。地味だけど手順がいい。墓碑銘にしてもいいくらいの、いい評価だった。
最初の給料日に、シャツを一枚だけ、ちゃんとしたのを買った。安物を三枚じゃなく、いいのを一枚。手入れして、長く着る。……旗は、洗って干しとく主義なんだ。誰に教わったのかは、もう言わない。
母には、月に一度、手紙を書いてる。三行が、五行になり、今は、十行くらい書ける。会ってはいない。会わないままで、続いてる。それが、うちの定石だ。
窓辺に、鉢を置いた。ミナの種は——持って帰れなかった。物は、越境できない仕様らしい。だから、こっちで買った。似た花の種を。気持ちの仕様として。芽は、もう出てる。
夜は、眠る。
普通に、眠る。目を閉じて、朝まで、どこにも行かずに。
最初のひと月は、それが、一番きつかった。
(空白)




