第二十八話 お嬢様、これが悪意で御座います。
微睡む意識の中、私を見て楽しそうにする女性がいます。
金髪で、陽の光を受けキラキラと輝く長い髪、女性らしい優しく暖かい手……全てが懐かしく、それなのに胸の奥だけがぽっかりと空いている。
その感覚に、何故か私は泣きそうになりますわ。
……この方はどなた?
せめて、顔が見えればと、顔のある位置を見ますが……何故か顔だけが見えてきません。
見えているのに見えると認識出来ない。
感じた事のないもどかしさに戸惑いながらも私は何度も何度も顔を見ます。
……失ったものを探す様に。
母を探す幼子の様に——
「……子供が良く寝るのは良いことじゃが、今はちと不味い故、さっさと起きよ!」
「……なんですの?」
無遠慮な言葉に眠りを邪魔されたラティが、不満気に上体を起こすと、少々焦った様子で追い討ち気味に言葉をかけられた。
「寝ぼけておらんでさっさと立て!
……少々厄介な奴が来とる」
「立てと言われましても、私は足が……治っておりますわ?」
不満気に自分の足を見たラティが、剥き出しの綺麗な足の姿に、信じられないものを見た顔になる。
「時間が無い故、治せたのは足と片腕くらいじゃが、お主ならそれでも逃げるくらいは出来よう?」
「私は、私のせい、ぎ——」
逃げると言う言葉に忌避感を抱いたラティが、文句を言おうと声のする方を向くと、そこには空中を泳ぐ青い鯉がいた。
「……なんじゃ?」
鯉がラティを見ながら口を開くと、ラティが首を傾げながら独りごちる。
「……さかな?」
そう疑問を呈したまま、ラティの感覚が段々と目の前の事象を認識する。
そして、ある程度のところでラティは——
「——魚が空を飛んでますわぁぁあっ!」
絶叫した。
「うっっるさいわっ!
何をいきなり大声を出しておるんじゃ!」
両のヒレをばたつかせて抗議する魚を困惑気味に見上げながら、ラティがボソリと言う。
「だって、魚が空を……」
「黙らっしゃいっ!
それより、傷の具合はどうじゃ?」
「……中途半端に治っているからか、痛くて堪りませんですわ!
それよりも、傷を治せるなら沙織を!
お願いです、私の家族を助けて下さいませっ!」
「……オマエさんからの頼みなら、聞いても良いがのぅ」
「勿論、私で出来ることなら、ちゃんとお礼はしますわ。
ですからお願いっ!」
深々と頭を下げるラティを、魚が見詰める。
その顔からは、何の感情もうかがえ無かった。
魚が再び口を開こうとしたその時、少し離れた木にめり込む大猿の死骸の隣にそれは現れた。
「こんな所で茶番とは……随分と余裕がありますわねぇ?
それに、アタシの可愛いお猿さん達に、こんな酷いことをするなんて、貴女……面白いわねぇ?」
浅黒い肌に黒髪黒眼、その身長は高く目測でも二メートル以上はある。
その男が現れた途端、辺りの空気が僅かに重く、まとわり付く様に感じられた。
だが、ラティが見て最初に感じたのは……その男が身に纏う腐臭に対する嫌悪感であった。
「……あなた、少し、いいえ、かなり慎みという物が足りておりませんわね?」
「おい、オマエさん。
あまり挑発する様なことは——」
ラティの言動に慌てる魚を手で制して黙らせると、突然現れた男の格好を見たラティが、眉をひそめて言い放った言葉に、男は意外そうな表情になった。
「……あら?
お嬢ちゃんは、アタシをちゃんと女性として扱ってくれるのかしら?」
嬉しそうに話す男を見て、何故か止まらない冷や汗を感じながら、ラティが答える。
「だって、あなたは自分をちゃんと女性として認識しておられるみたいですから、扱いが女性に対するものなのは当然ではなくて?」
男と話しながら、ラティが小声で魚に嘆願する。
「……時間を稼いでる間に、どうか沙織を助けて下さいませ」
「……あいわかった。
だが、オマエさんはまだ雛鳥の様なものじゃ。
あの蛇の相手にはならぬ、それを忘れるでないぞ?」
「……わかっておりますわ」
つい、魚を見て話してしまったラティに、男が不満を露わにする。
「……あら、アタシみたいなレディを前にして内緒話?
ちょっと感心しないわねぇ……」
「それはそれは……こちらの不作法を謝罪致しますわ。
ところで、私はラティ・フォン・アイゼンフェルトと申します。
……お名前を伺っても?」
ラティは慌てて男に謝罪しながらも、これまでに習った話法を絞り出しながら、なんとか時間を稼ぎつつ、魚へ向けられたカッツェの興味を逸らす為に話を続けた。
「あら、これはご丁寧にどうも……アタシはカッツェ。
愛の使徒カッツェと、皆さんには呼ばれていますわ」
「…………っ!」
カッツェが名乗りをあげた途端、辺りの空気が更に重く感じた。
そのまとわり付く様な空気と、僅かに感じる腐臭に一瞬だけ顔を顰めたラティが話を続ける。
「愛の使徒ですの?
では、カッツェさんは……あ、お名前をお呼びしても宜しいですか?」
「そのくらい構わないわよ?
アタシも、貴女のこと、ラティちゃんと呼ばせて貰うわね?」
カッツェが上機嫌に話す姿を見て、内心で安堵したラティが話を続ける。
「有難うございます。
では改めて……カッツェさんは、宗教関連の方ですの?」
「ん〜、当たらずとも遠からずって感じかしらぁ?
アタシってば、この美貌じゃない?
人に限らず魔物すら魅了してしまうのよぉ」
カッツェの目が細まり、怪しげな空気感を醸し出す。
だが、ラティはその変化を敢えて無視して話を続けた。
「私はまだ子供ですので、男女の機微はわかりかねますが、カッツェさんみたいに美しくあれたらと、思いますわ。
その鍛えられ、均整の取れたボディライン、かなりの努力が見えますもの」
「あっらぁっ!
ラティちゃんは、お世辞がとても上手ねぇ?
おねぇさん嬉しくなっちゃう!
だ・か・ら、チャンスをあげるわ……」
そう言った途端、カッツェの双眸がほのかに赤く光り、その圧が強まる。
今まで経験した事の無い感情が湧き起こり、ラティの膝が震えた。
「っ……な、なんですの……」
「おねぇさんね、これからちょっとだけラティちゃんと遊ぶつもりだから……壊れないでね?」
その瞬間、ラティは直感に従い右に枝を構えた。
構えると同時に、その枝がミシリと嫌な音を出し、その後に加わった圧倒的な力で、枝ごと体が持っていかれる。
「んぎぃぃっ!」
ラティも対抗しようと踏ん張るが、拮抗したのは数秒あるか無いかで、その小さな体は衝撃音と共に宙を舞い、途中にあった猿たちの死骸を巻き込みながら近くの巨木に叩き付けられてやっと止まる。
「——がはっ!」
肺の中の空気が衝撃で全て出た感覚と、喉の奥から吹き出した血にむせるラティのそばまでカッツェがゆっくりと歩く……
「あらぁ、ちょっと力加減間違えちゃったかしら?」
「……がはっ!
な、何が……くうっ……」
カッツェは、血を吐きながらも折れた腕で立ちあがろうと踠くラティのそばまで来ると、その前髪を掴んで無理矢理持ち上げ、その顔を覗き込む様に見る。
「いいわねぇ、ちゃんと生きてるじゃないの。
まだまだこれからだもの、簡単に終わったらつまらないわよねっ!」
そう言いながらカッツェがラティの腹を殴ると、そこから鈍い音が響き、ラティの顔が苦悶に歪む。
だが、ラティは抵抗する事も出来ずに血と吐瀉物を撒き散らす事しか出来なかった。
「ほらほらほらっ!
まだよ、まだまだ遊び足りないわぁっ!」
カッツェが紅潮した顔でラティの体中を殴り続ける。
ラティの体は殴られた反動で巨木から跳ね上がるが、またすぐに殴られて巨木へと押し付けられた。
その所業は、既に何度殴られたかわからない状態のラティの体が、衝撃に耐えられず破片となった巨木と共に吹き飛ぶまで続いた。
「あはぁっ!
良いわぁ、ラティちゃん、貴女最高!
まだ壊れないなんて……アタシ、滾っちゃうわぁ!」
ラティは地面を転がり途切れかけた意識の中、興奮するカッツェを睨みつけたが、そこでその意識は暗闇へと堕ちていった。




