ありがとうの言葉を
「雪花」
喫茶コマチの前で真莉愛や日良李と別れ、灰里と共に駅へ向かおうとしていると、不意に後ろから紅葉が声をかけてきた。
いつもは反対側の通りに出てしまうので、てっきりもう帰路についているとばかり思っていた雪花は、少しだけ驚き、目を丸くして立ち止まる。
「え、なに?どうしたの、こんなところで。帰らないの?」
紅葉は灰里のほうを一瞥すると、深刻な顔でまた雪花を見て続ける。
「まだ少し、時間はあるかしら」
「時間?うん、まあ、別に予定はないから…」
「そう」くるり、と紅葉が背中を向けた。まだ話の途中と思うが…。「貴方、電車は下りでしょう。一駅分だけ付き合いなさい」
「は?」
こちらの返事も聞かずにツカツカと歩き出す紅葉の背中を、呆気に取られた表情で眺めていると、そのうち、振り返った彼女に催促されてしまった。
「何をグズグズしているの。行くわよ」
「いや、横暴でしょ…」とぼやきつつ、同じように足を止めていた灰里を振り返る。
「行きなよ、皇さん。私は先に帰るから。…なんか、大事な話でもあんだろ」
雪花は、聞き分けのいい灰里に片手を上げてお礼を述べると、小言を口にしながら紅葉の隣に並んだ。
「で、なに。どうしたの」
いつも喫茶コマチには徒歩で来ているはずだから、紅葉の家はここからそう遠くはないはずだ。とはいえ、用もなく彼女が自分と散歩することを選んだとは考え難い。
しかし、紅葉はこちらの問いにも答えず、ただ黙って歩き続けていた。
規則正しいメトロノームみたいに、コツコツと、彼女の足音が響く。
夕暮れにはまだ少し早い、西日差す昼下がり。
線路沿いの閑静な住宅街を進む。栄えている土地でもないから、人の姿もほとんどなかった。
(一体、何を考えているのやら…)
端正な横顔を盗み見ながら、黙って紅葉に従い歩みを進めていると、そのうち、踏切の音が聞こえ始めた。
交互に光る、赤の明滅。そして、本能的に身構えてしまう警報音。
なんとなく、踏切というものからは死を連想してしまう。
遮断器が下りる。この踏切は少しだけ待ち時間が長かった気がする。
足を止めて、じっと警報機を眺めていると、ようやく紅葉が口を開いた。
「一つ、いいかしら」
「どうぞ」
「…どうして、私を止めたの」
警報音に混じって聞こえてきたのは、感情を抑えるのに必死な紅葉の呟き。
彼女が何を聞いているのか分からないほど、雪花は察しが悪くなかった。
「どうして…か」
上手に言語化できるだろうか、と雪花は空を見上げる。
春の匂いの薄まった、青々とした空がそこにはあった。
ふと、海の底から星空を探すアリスのことを思い出す。どことなく、今の紅葉の顔つきと似ていた気がする。
「分かんないよ、そんなの」
「…分からない、とはどういう了見なの。あのデスゲームの情報が欲しい、というのは建前だったということ?」
「嘘じゃない。だけど、後付けした理由ではあるかな」
「だったら、どうして」
首だけで紅葉が雪花を振り返る。同じタイミングで雪花も彼女を見ていた。
真っ直ぐに輝きを放ち、その光で自分を貫こうとする、黒曜の宝石。
本当に、驚くほど綺麗な顔立ちをしている。
いっそ、禍々しいほどに。
「殺せと命じたのは、貴方でしょう。なのに、どうして止めたの」
先ほどの答えでは納得するつもりはないらしい。まあ、自分でも納得できないのだから、当然なのかもしれないが。
雪花は一度俯き、十秒ほど考えてから、また紅葉へと視線をやった。
「あのまま鏡花さんたちを殺してたら、紅葉が、その、すごい後悔するんじゃないかって、思った…んだと思う」
我ながら煮えきらない言葉だったが、それでも紅葉にはなにか思うところがあったらしい。ひゅっ、と息を呑んだのが隣にいれば分かった。
「…そう。気を遣った、ということね」
「そうなるのかな…迷惑だった?」
おそるおそる問いかければ、紅葉は伏し目がちになって首を小さく振った。
「いいえ…でも、どうせ後悔ばかりの人生よ。私の人生は」
「後悔ばかり…?」
ぽつり、と漏らした孤独な言葉の意味を理解しかねていると、紅葉がさらに小さな声で、「今のは忘れて」と言った。
忘れてと言われて、忘れられる響きではない。
紅葉は、一体何を隠しているのだろう。
それは、心の暗い場所にしまっていて、痛まぬものなのだろうか。
そうは思えど、一度下りた扉を開ける勇気は雪花になく、仕方がなく頷く。
やがて紅葉が、何度か…何度か、視線を雪花と地面との間で彷徨わせた。そして、そのうち、結局は下を向いたままで桜色の唇を動かした。
「雪花」
「ん?」
「あの…」
瞬間、ぱっ、と目が合う。
火花が散る、閃光そっくりの刹那。
紅葉の陰りのある顔を見ていると…どうしてか、胸がずくんと疼いた。
言葉もなく、ただ待つしかできない雪花に紅葉が言葉を紡ごうとする。
「あ、ありが――」
彼女の口から言葉が放たれる瞬間、電車が轟音と共に通過し始めた。
「え、え?今、なんて?」
雪花は、ガタン、ガタン…と鳴る音にかき消された言葉を追いかけようとしたが、そっぽを向いた紅葉が言うことは、「なんでもないわ」…ただ一つだけだった。




