王妃に相応しき者5
馬は懸命に走っているが、次第に敵の蹄の音が大きくなってきた。怒声とも掛け声ともとれる荒くれた声が、至近距離から聞こえてくる。コレットが震えながらも様子を見ると、陛下の体の向こうに茶色い馬の鼻先がちらちら見え隠れしていた。
もう、すぐそこまで迫ってきている! このままでは捕まるのは時間の問題。
金品狙いの山賊か。それとも裏山で襲ってきた敵か。
もしも剣を持っていたら。もしも弓矢を持っていたら。陛下は今、短剣しか持っていない。大人数を相手に闘うには、すこぶる不利な状況だ。
だったら、逃げきるしかない!!
コレットは陛下の体に腕をまわし、ぎゅうっと掴まって目をつむった。きっと陛下は、片手だから手綱操作がしづらくて、思いきりスピードが出せないのだ。
「気遣い無用です! どうぞ両手を使ってください!」
「よし。ならば、絶対に手を離すんじゃないぞ!」
一瞬の間の後コレットの体を支えていた陛下の腕が離れて、ぐんとスピードが上がった。
耳元で風がうなり髪が乱れる。
馬は飛ぶように走り揺れが激しく、力の弱いコレットは振り落とされそうだ。それでも一生懸命しがみついて堪えていると、耳に届く音が急に変わった。硬かった蹄の音が柔らかくなっていて、葉が擦れるような音もする。
コレットが薄目を開けてみれば、馬は道から大きく外れており、木々の間を縫うようにして走っていた。尖った枝が頭の上を掠めてギョッとし、柔らかい木の葉がピシピシと服にあたって身をかたくする。
猛スピードで駆ける馬は、太い木の幹に向かっていく。どんどん近づくが陛下は避ける素振りがない。幹が目前に迫り、ぶつかる!!と思った瞬間、ひらりとかわした。
「うおっ」
「ぐええっ!」
「うがあ!」
後を追っていた敵はどうにも避けられず、ぶつかって派手に倒れた。後続も倒れた馬を咄嗟に避けられずにつまずく。
それを繰り返して敵を減らしながら、陛下の馬は走りに走る。敵馬のいななきと叫び声が森中に木霊し、驚いた鳥たちがバタバタと飛び立った。
「もう少しの我慢だ。がんばれ」
コレットは陛下に言葉をかけられるが、あまりのスリリングさで声も出せず、ただしがみついているしかない。けれど不思議と恐怖はない。陛下なら失敗しないという、揺るぎない信頼があるのだ。
やがて敵を振り切り、馬はスピードを緩めて止まった。
「ここは、どこの山ですか?」
窮地を脱してホッとするも、見渡す限り木立が続く。そうとう奥深くに迷い込んでしまったのか。近くに川があるのだろう、小さなせせらぎが聞こえてくる。
「ここはまだ東の領地の中だな。しばらく馬を休ませるぞ」
コレットは、荒い息をしている馬の鼻面をそっと撫でた。
ふたりを乗せて全力で走り続け、陛下の華麗な手綱さばきに応え続けた馬はへとへとの状態で、立っているのもやっとのよう。本当によく頑張ってくれたのだ。
「ほんとうに、ありがとう。逃げられたのは、あなたのおかげだわ」
疲れ切ってふらふらだが目は力強く、さすが陛下の愛馬だと感心する。でもよく見ればあちこちから血が出ており、小さな擦り傷がたくさんあった。
「陛下、水が要ります」
「そうだな。川は、あっちだろう」
川はすぐそばにあった。手綱を引いて斜面を下りると、馬はさっそく美味しそうに水を飲み始める。
コレットは腰に着けている巾着からハンカチを取り出して水に浸し、丁寧に馬の傷口を拭いた。馬の脚には、刃物で付いたような軽い切り傷もある。敵が矢か剣を投げたのかもしれない。
陛下にあたらなくてよかった……と心底ホッとするが、馬がこんな状態では、これから先ふたりを乗せるのは無理だろう。
「よし、そろそろ出発するぞ」
「でも陛下。馬はまだ疲れています」
馬は草を食み、体力回復をはかっている。できればもう少し休ませてあげたいが、陛下は首を振ってみせた。
「だから、歩くんだ。あんなにしつこく追ってきた敵が、すんなり諦めるはずがない」
振り切っただけの敵は、ふたりを血眼で探しているだろう。一か所でじっとしているのは危険なのだ。
「絶対に、私のそばから離れるなよ」
陛下は馬の手綱を持ち、コレットは陛下の服を掴む。
うっそうと茂る草や木は隠れるのにちょうどいいが、その分死角も多くなる。敵がいつ襲ってくるとも分からない中、周りに気を付けながら、ふたりは出発した。
陛下の後について歩くコレットの瞳が不安に揺れる。木の向こうでカサッと音がするだけで、ビクビクしてしまうのだ。
音の正体は、小動物だったり鳥が小枝を揺らしたりしたもの。普段ならば気に留めないが、敏感になっている今は、音がするたびにドキッとして陛下の服をぎゅっと握っていた。叫び声だけは出さないように唇を固く結び、精いっぱいにがんばっている。
すると服を掴んでいる手が解かれ、コレットは陛下の腕の中に入れられた。すっぽりと体を包まれて、とても安心できてうれしいが、今は甘えるわけにいかない。
「……陛下、駄目です」
敵の襲撃に備え、彼の両手を塞いではならないと考えるコレットは、逞しい腕を押し退けようとした。けれど、陛下はコレットを離さない。
「震えていただろう。無理をするな」
「でも、もし敵が来たら……」
「大丈夫だ。君は、私を信じていればいい」
力強い言葉が、コレットの胸に浸透していく。
陛下には、周りを警戒しながらも、コレットを気遣える懐の深さがある。普通ならばピリピリと尖った気を放っているだろうが、コレットにはそんなものを感じさせない。狼のような強さだけじゃない。彼が騎士団長になり国王にまでなった訳が、コレットには分かる気がした。
「それなら、わたしが手綱を持ちます」
コレットは馬の手綱を渡してもらい、陛下の腕に甘えた。
しかしどれだけ歩いても木ばかりが続き道らしいものはない。日が傾き始めると、だんだん辺りが暗くなってきた。森の中の夜は月明かりが届きにくく、平地よりも遥かに暗いものだ。このまま歩き続けると、方向を見失って迷う危険がある。道らしきものは、まだ見えてこない。そんなとき、陛下がぽつりと言った。
「ここは、木こりの管理している地帯だな」
「え? どうしてそう思うのですか?」
「見ろ。木の枝が落とされてきちんと手入れがされている。おそらく、近くに木こり小屋があるはずだ」
確かに周りの景色が変わってきていた。整備されているというべきか、見通しが良くて歩きやすく、月明かりも届きやすい。
ふたりして建物らしきものを探しながら歩くと、木々の向こうの少し拓けたところに、小さな小屋があった。中には大きな斧やノコギリが置いてあり、壁際には切りそろえられた丸太が整然と積まれている。ただの作業小屋で土の床だが、夜露はしのげる。
今夜はここで休むことにし、馬は軒下に繋いだ。
陛下が小屋の中を調べている間、コレットは所在なく立ちすくんでいた。小さな窓から月明かりが射し込み、時折吹く風が戸をカタカタと揺らす。
陛下は大きな布を見つけ出し、壁際の床に広げ、コレットに座るように促した。
「寒くないか?」
「少しだけ、でも平気です」
陛下に肩を抱かれており、床は硬くて冷たいけれど、コレットの心はぽかぽかと温かい。
「今ごろ城では、私と君が帰らないことにアーシュレイが気づいているだろう。アーシュレイの指示で、騎士団が密かに動き始めているはずだ」
「襲って来たのは、山賊でしょうか」
「いや、おそらく裏山の連中と同じだろう。あのとき射ってきた矢と同じだったからな」
「え!?」
がばっと頭を上げたコレットの目の前に、落ち着きはらった陛下の目がある。
「だから迷うのを承知で、森の中へ逃げたんだ」
木を盾にしながら馬を走らせて敵を巻いたのはいいが、おかげで山で夜を明かす羽目になってしまったと、陛下は謝る。
「いいんです。陛下が無事なら、わたしは、それでいいです」
コレットは、無意識に陛下の頬に手を伸ばしていた。
精悍で無駄な肉がない陛下の肌は無傷。百戦錬磨で経験豊富な彼の弱点は、なにもないように思う。強いて言えば、今コレットが一緒にいることだろうか。ひとりならば、今ごろ森を抜けていたに違いないのだ。
「陛下。わたし、明日はお荷物にならないように、がんばります」
手を引っ込めつつ、そう言って陛下を見上げれば、大きな手のひらが頬に触れた。
「君はなにを言っている」
語気は強く、陛下の眉間にしわが寄っていて、何故だかすごく怒っている。
「君は、決してお荷物ではないぞ」
「え、でも……わたしは足が遅いですし、戦えませんし。迷惑をかけています」
「違う。それは当然のことだろう?」
陛下の手が、コレットの背中を撫で上げる。大きな手のひらにすっぽり隠れてしまいそうに細い腰。強い力で抱きしめれば、折れてしまいそうに細い体だ。
「君は、私が守るべき者であり、私の大切な者だ。以前肌に印をつけたのも、大切に思うがゆえのことだ。それは、分かるな?」
「はい。わたしを、守るため……です」
「そうだ。私は、君を守るためならば、なんでもするつもりだぞ」
まっすぐに見つめる陛下の瞳は熱く、言葉はコレットの胸に深く響く。
だが、コレットだって陛下を大切に思う気持ちは負けていない。もしも明日陛下の身に危険が及べば、身を呈してでも守りたいと思う。
「さあもう寝るぞ。明日は早く出発するんだ。君は、私の肩にもたれるといい」
壁にもたれて座ったままの姿勢で眠りに就く。
コレットの肩を抱き寄せている陛下は、すでに寝息を立て始めている。騎士の彼は場所がどこであれ、どんな状況でも眠れるのだろう。
対してコレットはなかなか眠ることができず、こっそり陛下の寝顔を見た。
いろいろな表情を見せる宝石のような紫の瞳は、今は瞼の中。
『大切に思うがゆえだ』
あんな言葉をもらえるとは思っていなかった。
スッと通った鼻筋の下にある、形のいい唇。この唇が、先日の夜、肌に赤い印をつけたのだ。
コレットはそっと、その唇に触れてみた。柔らかくてあたたかいこれが、もしも自分の唇に触れたら、どんな気持ちになるのだろう。
自分から触れてみようか。
ふとそう思ってしまい、いけないことだと自分を戒める。本物王妃ならばいざ知らず、国王陛下相手になんて大胆なことを考えるのか。
コレットは陛下の肩にもたれて目を閉じ、無理矢理眠りに就いた。




