甘くキケンな新婚生活5
リンダとマリアが辞していき、ひとりになった就寝前のひととき。
コレットは窓際にあるひじ掛け付きの椅子に座り、燭台の灯りのもとで刺繍をしている。
薄紫のハンカチに白い糸で、王妃の印であるカトレアの花を刺していく。針と鋏はリンダから借りたもので、コレット専用のお裁縫箱はない。
城から出る繕い物や仕立て物はほとんど全部を街の職人に依頼するので、侍女でもお裁縫箱を持つ人は少ないとリンダは言っていた。その話を聞いてコレットは、ジュードの持ってくる申請書のなかに繕い物の項目が多くあったことを、思い出したのだった。
今コレットがしている刺繍ひとつにしても、街の職人に依頼するのは、人々の暮らしを潤すことになり国にとってはいいことだ。けれど、ほんの少しのほつれなら自分で直せばいいのに……などと思ってしまうのは、庶民の性か。王妃として口にしてはいけないことだと分かっている。
そんなわけで、コレット専用のお裁縫箱は用意されないままだ。刺繍糸もあまり種類がなく凝った絵柄は刺せないが、それでも久しぶりの手仕事をとても楽しんでいた。
ふと、いつもより窓の外が暗い気がして、コレットは目を上げた。
普段ならばカーテンの向こうに月の明りを感じるけれど、今日はやけに静かだ。
「今夜は、新月じゃないはずだけど……」
刺繍途中の針をハンカチに縫い留め、コレットは立ち上がってカーテンを開けてみた。
外は月もなく星も見えず真っ暗で、どうやら空一面雲が覆っている様子。
窓を開けてみれば、霧のように細かい雨がガルナシア城を濡らしていた。
なんとなく手を伸ばしてみると、さわさわとやさしく撫でるように濡らす雨が肌に心地よく感じる。
夕暮れまでは晴れていたのに、いつから降っていたのか。
牧場で暮らしているときは、急に降ってきた雨に濡れることも多かったけれど、城で暮らしている限りは雨に濡れることもない。自然を感じることが少なくなってしまった。
そんな寂しさを感じながら腕を雨に濡らしていると、白いものがコレットの目の端を掠めてハッとする。
急に現れるそれはもうお馴染みのもの。陛下の腕だ。細い腕と並べるようにして窓の外に延ばされており、もう一方の腕は華奢な体をしっかりと捕まえていた。
背中がぬくもりに包まれて、彼の使う石鹸の香りがコレットの鼻をくすぐる。胸の下にある腕に、トクトクと高鳴る鼓動が伝わってしまいそうでよけたくなる。けれども強すぎず、かといって弱くもない絶妙な力加減は、ときめきとともに安心感をも与えてくる。
そんな相反する気持ちに戸惑いを感じていると、陛下はぽつりと言った。
「君がなにをしてるのかと思えば。そうか。外は雨が降っているんだな」
「はい……」
窓の外に向けて並んだ二本の腕は、男女の違いをまざまざと見せつける形になっている。
コレットの腕は、少し力を入れて握れば折れてしまいそうに柔らかく見え、対して陛下の腕は、筋肉があり無駄なく引き締まっていてとても丈夫で堅そうだ。
陛下はこの腕で国を守り、そして、いずれ迎える本物の王妃を抱き締めて愛するのだ。
コレットは胸がちくりと痛むのを感じ、慌てて腕を引っ込めて、肌についた水滴を手のひらで払った。
「すごく静かな雨ですよね……わたしも、さっき、気づいたんです」
「うむ、少し冷えたな」
陛下は窓を閉めて、濡れて冷たくなった手をさするコレットをソファへ誘った。
「今夜は、君に渡すものがあるんだ」
陛下は、テーブルの上に置いてあった長方形の小箱を手に取ると、きょとんとした表情をしているコレットに差し出した。
赤色で長方形の箱は絵柄もなにもなく、今まで渡されてきた物の中では一番のシンプルさだ。
「これを、わたしに?」
「君が欲しいと言っていると聞いたものだ。きっと気に入る」
蓋を開けてみたコレットは、小さな歓声をあげた。
中には赤いビロードで作られた針山と鋏が入っていて、小さな糸巻きがふたつと七色の刺繍糸もあった。
「これ、お裁縫の道具!……ありがとうございます!」
「今日、視察に出かけた折に手芸店に寄ったんだ。私は男だから、裁縫道具はよく分からず、店の者に尋ねて準備してもらった。中身に不足はないか?」
「はい、十分です。これだけあれば、たくさん刺繍ができますから」
陛下は仕事の途中でお店に寄ってくれたのだ。視察ならばきっと騎士団と一緒で、彼も黒衣の騎士服を着ていたはずだ。
コレットは、ミルクをかけてしまったあの日の陛下を思い出していた。
あんな立派で恐ろしい彼が手芸店に訪れたなら、お店の主人はさぞかし驚いたことだろう。
手芸店といえば、カメの数を誤魔化すように勧めて来たあの男性のお店だろうか。
つい最近のことなのに、なんだか懐かしいような気持ちになる。
あの男性と手芸店の中にいる陛下を想像したらとても可笑しくなり、コレットはクスクスと笑いを漏らした。
そして、そういえば、と思い出す。あのときもらった紫色の刺繍糸は、木綿のワンピースのポケットに入れたままだ。あの紫の糸は、陛下の瞳の色に似ている。あれで陛下のハンカチにイニシャルを刺繍したら素敵だ。例の宿泊施設で脱がされて、それからいったいどうなったのか。
あれから一度も目にしてないことを考えると、ワンピースは捨てられたということもある。それだと、お沙汰終了時に着て帰る服がないということになり……。
下着一枚でうろうろする自分の姿を想像していまい、コレットはサーッと青ざめる。
なんということだろうか! 帰る際の服のことは、まったく失念していた。
明日にでも、早速リンダに訊かなければならない。でも今は立派な裁縫道具があるのだ。最悪の場合、自分でワンピースを仕立てようと決め、コレットは道具箱の蓋を閉めた。
思考から離れれば、陛下がじっと見つめていたことに気づいて顔を赤らめる。
「あ……」
「ふむ。君は、笑ったり、青くなったり、表情が豊かだな。今なにを考えていた?」
「今は……えっと、その」
今さっきコレットの考えていたことなど、どう陛下に話せばいいのだろうか。手芸店のことや下着一枚でウロウロなど、どこをとっても話しにくいことばかりで困ってしまう。
咄嗟にいい言葉が思いつかず「なんでもありません」と、か細い声を出してうつむいた。
その小さな顎が、陛下の指によってくいっと上に向けられる。さらに乱暴に思えるほど強い力で腰も引き寄せられてしまい、コレットは声も出せずに陛下を見つめた。
突然どうしたのだろうか。
「考えていたことを言えないならば、ひとつ答えてくれ。今ここにアーシュレイがいれば、君は、なんでも話してくれるのか?」
「え……?」
陛下の声には怒りの色がある。けれどコレットを見つめる瞳には、狼のような鋭さの中にも切なさが混じっているように見える。どうしてそんな複雑な表情をするのか、コレットには分からない。
腰に回っている陛下の手は痛いくらいに強く、納得する答えがあるまで放すつもりがないことは、よく分かる。
「あの、分かりません。どうして、アーシュレイなのですか?」
「私は、裁縫道具の件を彼から聞いたんだ。君は、私には言えないことでも、彼には言えるんだろう? 君にとって、私は信用できない男なのか?」
そう問いかける彼は哀しそうにも見える。陛下のことを信用していないなど、そんなつもりは毛頭ない。ただ、気恥ずかしくて言えないだけだ。
「そ、そんなことはありません。わたしは、アーシュレイにはなにも……リンダにしか話してないです」
「リンダ?」
恐らくリンダは、アーシュレイにどうするべきか尋ねたのだろう。そこから陛下に伝わったのだ。
頭の中を逡巡させて理解した様子の陛下から怒りの気が消え、コレットの顎から指が離れた。
「乱暴にしてすまない。つい、我を抑えられなかった。勘違いをして君を責めるとは、情けない男だな。だがこれも、君を思うがゆえだ。許してくれ」
「わたしを、思うから……?」
それはどういう意味だろうと考えるコレットだが、すぐに思考停止させられることになる。
陛下の指はそっと唇の輪郭を辿り、ゆっくりと頬から耳へと移動していく。いたわるような指使いにコレットの背中がぞくぞく震えて、小さな声が漏れた。体の芯に熱が生まれて、まるで陛下の指先から、体を熱くする魔法の力が出ているようだ。
次第に体の力が抜けていき、姿勢を保つことが難しくなる。だが、陛下の腕にしっかりと支えられているため、コレットは全面的に体を預けた。
いつもより多めに肌を甘やかされているのは、言葉少ない彼なりのいたわりと謝罪の現れなのかと思う。
うなじから下りていく指が鎖骨を撫でていき、夜着の襟もとでぴたっと止まった。この先は……? そう思った瞬間ふっと離れてしまい、コレットは名残惜しさを感じてしまう。
もっと触れてほしい。
そう思っている自分に恥じらいを覚えて、さらに肌が熱くなった。
お沙汰でなった偽物の王妃を、陛下が愛して抱くことはない。そして、コレットもこれ以上を望んではいけないのだ。けれども陛下を思う気持ちは尊敬のそれから、より深いものへと変わっていっている。
こんなことを考えていることがばれないよう、コレットはぎゅっと胸を押さえた。
そんな彼女の体を、陛下は甘やかに抱き寄せた。
「君は、一時的とはいえ、私の妃だ。これからはほしい物や要望があったら他の誰でもなく、まず私に言ってほしい」
「……はい、陛下。そうします」
「それだけでなく、日々の中であったこと。感じたこと。なるべく話してほしい。私は、もっと君の話を聞きたい」
陛下は、食事のときに聞くコレットの話を楽しんでいるというから意外に思う。
だって陛下はいつも笑わないし、「ああ」とか「そうか」とか、短い相づちしか返ってこないのだ。そんなふうに思っていてくれたなんて。食事中も狼の威厳を放っている彼が、まさか楽しんでいたなんて。胸の内にくすぐったさを覚えてしまう。
今夜は少しだけ陛下の思いが伝わってきて、近づけたような気がする。機会があれば先代の王の死因や、ミネルヴァの言っていた“禁じられた書物”のことを話してみようと思った。
そして、やっぱり夜の陛下は昼間の彼とは雰囲気が違う。これは、妃だけに見せる一面なのかもしれない。特別な気がしてしまうが、コレットのお沙汰が終了して本物王妃を迎えれば、そのお方にも見せる姿なのだろう。切なくなる。でも今は、コレットだけが知っている陛下だ。
コレットは、陛下の胸を押して見上げた。
「わたしはこれから、なんでもどんどんお話します。でも陛下も、もっとお話してください」
「うむ、分かった……努力しよう。それで、早速なんだが。急な話だが、明後日の午後は少し時間が取れるんだ。城の中で過ごすのもいいが、君は、連れて行ってほしいところはあるか?」
「え!? まさか、わたしも出かけられるんですか?」
思わぬ提案に驚くコレットだが、行きたいところと訊かれてすぐに思い浮かぶのは牧場だ。ニック夫妻に元気な顔を見せたいし、牛の声も鶏の声も聞きたい。それに、牧場の風を感じたい。
コレットの青い瞳がキラキラと輝いた。
「あのっ、陛下それなら、わたし……」
「ああちょっと待った。念のために言うが、牧場は駄目だぞ」
「あ……そう、ですよね」
言葉にする前にくぎを刺されてしまって残念に思う。だが、うーんと考えれば思うことはひとつだけ。
コレットは、行きたい場所とお願いをひとつ、陛下に告げた。




