星の瞳が、綻ぶ顔が
キアランが業務に慣れてくると、城内でステラの護衛は日替わりで一人ずつ付くようになった。先輩騎士と組むことがなくなって気楽になった反面、ステラと二人になることが気詰まりだった。
「お嬢様、エイドン先生は急病のため午後の授業は取りやめとなりました。先生から課題図書のリストを頂戴しました、こちらを来週までにお読みくださいとのことです」
ステラは使用人からリストをもらうと、城の図書館で課題図書を探し出した。経済史の本を二冊抱えたステラは、急にキアランに向き直って言った。
「あとは部屋で本を読むだけですから、あなたも休んでいてください。城内で私に危険が及ぶことはありませんから」
ステラから目を離すなというブラッドリーの命令と、ステラ本人からの休めという命令の狭間で、キアランは硬直してしまった。どちらを優先しても、どちらかの不興を買うしかない。
キアランが悩んでいる間にもステラはさっさと歩いていってしまった。まっすぐに伸びた背中は、午前中にブラッドリーから一時間に渡って人格を否定された人のものとは思えなかった。
一人残されたキアランは、悩んだ末に台所へと向かった。台所に顔を出すと料理人は明るい笑顔で迎えてくれた。グラキエース城の人々はブラッドリーの機嫌を窺って暗い顔ばかりしていたが、キアランの前であれば大抵の人は笑顔を見せてくれた。
小腹が空いたと言えば、料理人は牛肉と野菜を挟んだサンドイッチを作ってくれた。キアランは礼を言ってから台所を後にして、サンドイッチを入れた包みを外衣の下に隠して素知らぬ顔で歩いた。
ステラの部屋へ向かったが、中にステラの姿はなかった。キアランは冷や汗をかいた。
すぐに城内をくまなく探し回り、それから塔に上って敷地内を隅々まで見渡した。ステラの姿は目に見える範囲にはなかったが、居そうな場所には何か所かあたりを付けることはできた。
城の外に出て広すぎる庭園を駆け回り、ようやくステラを見つけた頃には台所を出てから一時間も経過していた。
「ステラ様!」
木陰で本を読んでいたステラが驚いて顔を上げた。キアランは見つけられた嬉しさでつい微笑みかけてしまったが、何を言えばいいのかすぐに思いつかなかった。
「あの、ええと……。お勉強の邪魔をしてすみません、それから命令も無視してしまいすみません」
「謝る必要はありません、仕事熱心で結構です」
いつも通りの平たんな口調で言って、ステラはそのまま読書に戻ってしまった。キアランはしばらく弱い風が揺らすステラの前髪を見つめていた。銀の髪は揺れる度にきらきらと輝き、時折り隙間から澄んだ瞳が覗いた。やがてステラが再び顔を上げて、キアランをその青い瞳で真っすぐに射貫いた。
「どうかしましたか?」
キアランは、立っていられなくなったのを誤魔化すように跪いた。
「お昼を召し上がらなかったので、よろしければ……」
料理人からもらったサンドイッチの包みを差し出すと、ステラはきょとんとした。キアランは猛烈な恥ずかしさに襲われた。
「差し出がましい真似をして申し訳ありません。ですが、何度も食事を抜かれたり、出されても食べられるものでなかったりするでしょう。私が食べると言って作ってもらったので変なものは入ってないはずです、ステラ様の口に合うかはわかりませんが……」
みっともないくらい言い訳をして、今度は激しい後悔に襲われた。すぐにでも騎士を辞して逃げ出したいほどに。
沈黙に耐えかねて手を引っ込めようとすると、ステラに手首を軽く掴まれた。そのままステラはサンドイッチを一口かじった。どっと心臓が跳ねた音が、キアランの鼓膜を内側から震わせた。目が合うと、ステラは首をすくめた。
「だって、キアランが手放そうとしないから」
キアランはサンドイッチを潰しそうなほど手に力が入っていることに気づかされた。申し訳ありません、とステラに包みを手渡した。
「美味しいです、ありがとうございます」
ステラは案外躊躇いなく頬張って、みるみるうちに食べきってしまった。お腹が空いていたのかと思ったが、他の誰かに見られないように急いで食べたようだった。
「キアラン、気遣いには感謝しますが、もう同じことはしないでください。あなたは当家の騎士でしょう。父にばれた時にあなたの身が危うくなります」
キアランは、心の中から温かい何かが溢れ出て全身を満たしたのを感じた。そして、いつの間にか微笑んでいた。内心と表情を切り分ける訓練を受けたはずで、失敗したことはなかったのに、彼女の前ではうまくできなかった。
「ご心配には及びません。私は運の良い人間なのです。たとえば何人かで一緒に悪戯をしたとしても、不思議と私だけは怒られないんです。ですからこの程度のことは朝飯前です」
ステラは納得していないようだったが、少なくともキアランを説得するのは諦めたらしかった。
「ところで、どうやって私を見つけたのですか?」
「見晴らしの良い塔から居心地が悪くなさそうな場所を探して、来てみたら当たりだったのです」
「そうですか」
ステラはすげなく言って本に視線を戻してしまったが、引き結んだ唇がいつもよりも緩んで見えた。
「ステラ様、次はお飲み物も忘れずに持って参りますね」
とうとうステラはくすっと笑った。
苦痛にも歪まないその顔が綻びたのが止めだった。
ぼんやりとしていたキアランは、いつの間にか宿舎へ戻る道を歩いていたことに気が付いた。茜差す空を見上げると、なぜだか涙が出そうだった。
「ステラ・ウィンターミュート……」
秘密を囁くようにその名を呟いた。美しい名前だと思った。なおも涙がこみ上げ、胸がいっぱいで、助けを乞うように彼女の顔を思い浮かべた。
その日、キアランは寝付けなかった。見当違いも甚だしくステラを憎んでいた愚かな自分の恥ずかしさ、ステラを虐げる者や見て見ぬふりをする者たちへの怒り、ウィンターミュートを裏切る自らの醜さ、ステラと結ばれることなど永劫有り得ないという絶望。あらゆる感情が熱となり、自らを焦がした。
疲れ果てたキアランが眠りについたのは明け方のことだった。暁の空は血を零したような色をしていた。




