駒の一つ、犬の一匹、騎士の一人
ウィンターミュートの領地はアストラム王国の北部にあり、シンカム王家が大陸の覇権を握るよりも昔から北の地を治めてきた。大陸の広大な土地だけでなく、海に面した大陸の北端のさらに向こうの群島までもが領地だった。群島の一つでは身寄りのない子供たちを集め、将来ウィンターミュート家に仕える騎士とするために訓練を施していた。だが、その島には名前はなく、地図からも消されていた。
名もなき島で行われていたのは単なる騎士見習の訓練ではなく、本土では表立ってできない違法なことばかりだった。運良く過酷な訓練を生き延びられれば栄えあるウィンターミュートの騎士になれるが、そうでなければ海に捨てられる。それが島に足を踏み入れた子供たちを待ち受ける運命だった。
キアラン・ブラックウェルは、ウィンターミュートの悪行の生き証人となるべく王家の手先として名もなき島に送り込まれた。当時十歳だったが、自分は王室がウィンターミュートに潜り込ませた駒の一つに過ぎず、生きて帰ることをほとんど期待されていないと理解していた。
名もなき島での教育は、騎士に当然必要な剣術、弓術や馬術に始まり、礼儀作法から読み書きといった世間一般常識、軍事学や魔獣生態学、衛生学や諜報技術など多岐にわたった。
実戦訓練は過酷だった。訓練生が気絶するのは日常茶飯事で、命を落とすこともあった。教育者たちそれを当然のこととしていたのは、ウィンターミュートの狂信者だったせいだ。王国のほとんど最北端に位置する極寒の島で、鋼を打つように繰り返し子供たちを追い込み這い上がらせることで、ウィンターミュートに捧げるに相応しい騎士を作り上げられると信じていたのだ。
中でも際立って特異な訓練は、命を躊躇いなく捨てるためのものだった。言葉や体罰によって徹底的に自尊心を削られ、自分の体を自分の手で傷つけさせられた。貴族の中でも特に偉大な運命を背負う、ウィンターミュート家当主ブラッドリーのために命を擲つこと、それは何の価値もない人間が得られる最高の栄誉なのだと、繰り返し刷り込まれた。
キアランが名もなき島から出られたのは十八歳になった時だった。島に入った時には十五人もいた同期の訓練生たちは、訓練の途中で全員死んだ。
キアランはウィンターミュートの象徴とされるグラキエース城へと呼ばれ、初めてブラッドリーと会った。
極寒の冬の空気よりなお鋭い眼光に、至上の大公の名に恥じない圧倒的な威容で、一目見ただけで人々が彼に熱狂する理由を理解させられた。凄絶な訓練を経てどんな敵も魔獣も恐れなくなったはずなのに、気を張っていなければ手が震えてしまいそうだった。
キアランはステラの護衛騎士に任じられた。公爵の一人娘ステラ・ウィンターミュートのことは当然知っていた。将来王妃となるらしいということも島で聞いたことがあった。
自分の父親も王家もブラッドリーも憎くて堪らなかったが、出会ったことも見たこともないステラを特に憎んでいた。大陸一歴史ある名家の生まれと約束された輝かしい未来を持っていることが、渇望しても手に入らないものを持っていることが、妬ましかったからだ。
そうして全てを憎むことで同じ訓練生だった友人たちを失ったことや過酷な訓練に耐えてきた。そうしなければ生きてこられなかった。
だが、護衛騎士となって数日も経たないうちにステラへの憎しみは打ち砕かれた。
ステラがブラッドリーの執務室へ呼ばれ、部屋の外で待機していた時、部屋の中から怒鳴り声が聞こえた。それから何かが叩きつけられる激しい音がした。思い出したのは幼い日に見た酒瓶を床に叩きつけて叫んでいた父の姿だった。すぐに部屋の中へ入ろうとすると、同じ護衛騎士のクレイグに止められた。
「行かなくていい。今は躾の最中だ。邪魔をするなら首を刎ねられるぞ。今日はまだマシな方だ。閣下の機嫌によっては地下牢に入れておけと命令されることもあるんだ」
「ですが……」
「俺たちの主君はブラッドリー様だ。大丈夫、お嬢様を王家に差し出すまで殺しはしないさ」
キアランがクレイグの言葉を理解しようとしている間にも、部屋からは罵声が聞こえてきていた。ブラッドリーはステラの行い一つ一つをあげつらい、今日まで生かしてきたことが間違いだったと罵っていた。耳を塞ぎたくなるような言葉は降りやまない雨のように続いた。
何が気に入らないのか、部外者のキアランにはさっぱり理解できなかった。むしろ手放しで賞賛されない方がおかしいくらいステラは優秀で、至上の大公の娘としてこれ以上ないと言っても過言ではなかった。ステラとはまだ出会って数日だったが、彼女が他人の心情以外で理解できないものを見たことがなかった。
しばらくしてステラだけが部屋から出てきた。酷く疲れた顔をしているだけで、泣いてもいないし怪我もしていなかった。
扉の隙間から一瞬だけブラッドリーの顔が見えた。いつかステラを殺すのではないかと思うほど激しい目で、ステラの背中を睨みつけていた。それは確かに憎しみの情で、およそ血を分けた娘に向けるものではなかった。
ステラが自分の部屋に戻ったころには昼食の時間だったが、侍女が食事の提供はできないと言った。誰の指示かは問うまでもない、ブラッドリーだ。
「そうですか、わかりました」
淡々とした口調でステラは言った。まるでいつものことのように。
その様を見て、キアランは鳩尾のあたりがずしりと重くなるのを感じた。これまで気にも留めなかったことが気になり始める。
仕える主人が酷い仕打ちを受けたのに慰めの言葉一つない侍女、いくらでも使用人がいるのに掃除の行き届いていない部屋、古びてサイズが合っていないステラの服。
猛烈に嫌な予感がしたが、キアランはどうにかそれを忘れようと努めた。しかし、数日後には再び現実を突き付けられることになった。ステラが王太子宮へ呼ばれ、キアランもそれに同行することになったからだ。
王太子宮の庭園でお茶を飲みながら語らう二人を、王太子付きの騎士たちとともに遠目に見守った。一見すると彼らの雰囲気は優雅で甘やかに見えたが、エリオットの眼差しに違和感を覚えた。下劣な考えを秘めた人間の目だったからだ。
待機している最中に、キアランは王太子付きの騎士から秘密裏に指示を受けた。王室側から指示を受けたのはウィンターミュートの島へ潜入した十歳の時以来だったので、自分が間者だったことをその時ようやく思い出した始末だった。
だが、裏切ることに何ら躊躇いはなかった。この世界には滅びるべきものは確かに存在するし、それがブラッドリー・ウィンターミュートなら尚の事だった。
王太子との語らいの時間が終わり、ステラと共に王太子宮を後にした。馬車に乗ろうとするステラに手を差し伸べた時、ステラのお腹から空腹を知らせる音がした。ステラは一瞬だけ動揺を見せたが、すぐに平静を取り戻して馬車に乗った。
キアランが訝しんでいると、同じ護衛騎士のレックスが小声で教えてくれた。
「お嬢様はここで何かを召し上がることはほとんどない。何が入ってるかわかったもんじゃないからな。お労しいことだよ」
キアランは馬車の中のステラを盗み見た。先ほどまで婚約者という名の獣の悪意に晒されていたようには見えなかった。相変わらず澄ました顔をしていて、美しく気高いまま在った。
帰り道の間中、キアランはずっとステラのことを考えていた。出会ったときからステラのことばかり考えていたが、今日は特に頭から離れなかった。
グラキエース城にも居場所はなく、結婚して王宮へ行っても彼女の居場所はおそらくない。それどころか彼女の味方は誰一人いない。だというのに、どうして彼女はあんなにも気高くいられるのか不思議でならなかった。




