夢はいつか覚める
夜通し馬を走らせ、危険な近道を繰り返し、魔物を斬り伏せながら領地へと戻ったのは翌日の夕暮れ時のことだった。今回はエリオットからの刺客の襲撃に遭うこともなく帰ることができた。
使用人たちに出迎えられたが、ステラの姿はなかった。不安に駆られて問い質すと、使用人の一人がステラは入浴中だと教えてくれた。
「今日は一日お外で視察をされていて、先に入浴をご希望だったのです。もちろん人が付いていますからご安心ください」
ステラは常に周囲に侍女がいる生活を送っていたが、着替えや入浴など他人に肌を見せるのを嫌う。だが、今はキアランが彼女から目を離すなと屋敷の全員に言いつけているので、彼女は仕方なく人をそばに置いている。
ステラが人に肌を見せるのを嫌うのは、背中に大火傷の痕があるからだ。キアランは偶然見てしまったが、それを知ったステラの落ち込み様は尋常のものではなかった。
事件や事故によるものではなく、おそらくステラの父ブラッドリー・ウィンターミュートの手によって焼かれたのだ。貴族ならあるはずの宿星紋が見当たらなかったのもそのせいだろう。
宿星紋は神の臨在を示すものの一つで、教会で洗礼を受けることで背中に刻まれる天啓の表象である。洗礼を受ける権利があるのは貴族だけで、一代限りの爵位しか持たないキアランにはその権利までは与えられなかった。
宿星紋の形状や大きさは人それぞれであり、特権の代償として課された義務の大きさを表すと同時に、為すべき未来の暗示でもあった。だが、実際は貴族の特権の象徴として捉えられている側面が大きく、成り上がりの平民なぞがやすやすと刻めるものではない。
ステラはウィンターミュート家の子女であったので、当然洗礼を受けた身である。だが、彼女も自分の宿星紋がどのような形だったかを知らない。記憶にないほど幼い頃に紋を消されたのだ、実の父の手によって。
エリオットはしきりにステラを欲しがるが、あの火傷跡を知っているのだろうか。もしかして、見たことがあるのだろうか。そうだとするならば、あの赤い目をくりぬいてやりたかった。
食事の時間になってステラと食堂で会うと、アイスブルーの瞳はかすかに曇った。キアランが予定よりも早く屋敷に帰ってきてもステラが喜ぶことはない。自分のせいだとわかっていても胸が痛んだ。
「殿下への報告はいかがでしたか?」
「簡潔にまとめていただいたのに申し訳ないですが、今回もあまりご興味がなさそうでした」
「キアランが謝ることではありません。殿下はいつもそうですから」
その物言いが十二年に渡る二人の婚約期間の長さを物語るようで、胸がざわついた。
ステラの護衛騎士として仕えた二年の間に様々な公務に随行したが、完璧な振る舞いをするステラとは対照的に、エリオットは失態を犯し、そのたびにステラが手助けしてやっていた。
エリオットはステラの足元にも及ばないボンクラだが、それを自覚してあえてステラに自らを助けさせて周囲に見せつける小賢しさを備えていた。美しく有能で控えめなこの女は、その功績も含めて自分のものなのだと喧伝するように。
「他に何か言われませんでしたか?」
不安げに揺れる瞳に、キアランの心は激しく揺さぶられた。
離婚制度の成立もあいつの差し金です、他の女と婚約が避けられないから離婚しようと考えているだけです、お嬢様のことをいまだに諦めていません、あの恥知らずの首を取って来いと命じてください。
今すぐ慰めの言葉を乞いたい気持ちを飲み込んで、首を振った。
「いいえ、お話するようなことは何もございませんでしたよ」
ステラはじっと見つめてきたが、すぐに諦めた。端から話すことを期待されていなかった。
「そうでしたか。他にいくつかご相談をお願いしましたが、そちらはどうでしたか?」
「仕事熱心なのは結構ですが、また明日にしましょう。お嬢様にお土産を買って参りましたので、後ほどお部屋にお持ちしますね」
ステラはこくりと頷いただけだったが、かすかな表情の変化で彼女が喜んでいることが読み取れた。表情が乏しいとステラの陰口を叩く輩もいるが、キアランからすれば注意力が足りないだけだった。
キアランは湯浴みをしてからステラの寝室へ向かった。普段何気なくノックをして入るが、今夜はそこはかとなく後ろめたい気分になった。
入室を許可され、侍女と入れ替わりに部屋に入った。鏡台の前に座るステラの姿も普段と変わらなかったが、キアランはその顔をまともに見られなかった。
「今度は何を買ってきたのですか?」
呆れ混じりにステラは言った。もう買ってこなくていいと何度言われてもキアランが聞き入れなかった結果、ステラはしぶしぶ、でも嬉しそうにプレゼントを受け取ってくれるようになったのだった。
「気に入ってくださると嬉しいのですが……」
今さら怖気づいて恐る恐る宝石の入った箱を差し出した。だが、宝石を見たステラの瞳がぱっと輝いたので何もかもどうでもよくなった。
「ネックレス、付けてもらってもいいですか?」
言って、ステラは髪を片方にまとめた。キアランはどきどきしながらネックレスを手に取った。生白い首にネックレスを付けてやると、ステラが鏡越しに微笑んだ。
青い石に白い光条が輝くペンダントは、初めからステラの胸元を飾るために作られたかのようにぴったりだった。
「やっぱりキアランが選んだ物は素敵ですね」
「……お嬢様はどんな宝石でもお似合いですから」
スターサファイアを矯めつ眇めつしているステラの横顔に、キアランは罪悪感を覚える。たしかに見事なスターサファイアだが、王室をも凌ぐ財産を所有していたウィンターミュートの宝石に比べれば劣るに違いなかった。
宝石だけでなく、この屋敷も、領地経営という仕事も、ステラが本来手にするはずだった栄光と比べれば取るに足らないものばかりだった。いつかステラの手にそれらを戻したいと思っていたが、夢のまた夢だった。
「お嬢様、謝罪の機会を頂けますか?」
キアランが跪くと、ステラも居住まいを正した。
「離婚の話をされたとき、お嬢様に対しあるまじき言葉をぶつけました。ひとえに私の不徳の致すところです。心よりお詫び申し上げます」
「……この素敵な贈り物は、お詫びの品ですか?」
「いいえ、何事もなくとも私は同じ品をお嬢様へお渡ししていたことでしょう。信じていただけなくても構いません。不愉快であれば二度とお嬢様の目に入らないようにいたします」
じっとステラの返事を待っていると、急に目の前にステラの左手が現れた。薬指にはかつて二人きりの結婚式の際に贈った指輪が嵌められていた。急遽用意した宝石の一つもついていない指輪だ。ステラはなぜかこの安物を気に入っていて、外したところを見たことがなかった。その事実は、折に触れてキアランの心臓をおかしくさせる。
「指輪も付けてみてください」
キアランは真珠の指輪を左手の中指に嵌め、顔を上げた。ばちっとステラと目が合った。
「似合いますか?」
「ええ、お似合いです」
「キアランのセンスを疑ってはいませんが、誉め言葉しか言ってくれないのは困りものですね」
眉尻を下げて困ったように微笑む顔さえも、キアランの心を貫いた。
「どちらも大事にします。あなたの謝罪も受け入れます。私も急な話で困らせてごめんなさい」
ステラはごく自然に謝った。彼女はウィンターミュートの令嬢だった時から相手の貴賤に関係なく道理に基づいて謝罪も感謝もした。身分の貴賤も、老いも若きも、彼女にとっては大きな意味を持たない。それは諦観から来るものだ。
だって、誰も私を助けてくれなかったから。
護衛騎士時代に聞いたその言葉は、何度思い返してもキアランの胸を締め付けた。
ウィンターミュートの城で、何百人と人が出入りする環境の中で、ブラッドリーに虐げられていたステラに手を差し伸べる者は一人もいなかったのだ。この国で王子よりも高貴な血を受け継ぐステラ・ウィンターミュートを、父ブラッドリーは異常なほど憎んでいたからだ。
「お嬢様に謝っていただく必要はございません。全て私のせいであることは、ただの事実です」
キアランはステラの付けていたネックレスと指輪を外して箱に戻した。
「頂いたものは観劇の時に着けて行きますね」
「……本当にあの劇を観に行くんですね」
「ええ、行きます。せっかく予算を回して支援した建物ですし、一度くらい観に行きませんと」
「私を虐めるのが目的ではないですよね?」
「キアランが恥ずかしそうにしている姿を見るのは好きですが、今回はそれが目的ではありません」
さらっとすごいことを言われて、キアランは思考が止まった。近頃やけに変な発言が増えたと思っていたが、その理由がまさか。
「“氷の姫と黒の騎士”の作者やその支援者と繋がりを得たいと言ったではありませんか。味方の正体を知っておくのは、キアランにとっても悪い話ではないはずです。いつまでも殿下に虐められていては良い気分ではないでしょう?」
はい、そろそろ殺してやりたいです、という言葉をどうにか押しとどめた。
「さあ、そろそろお休みになるお時間です」
手を差し伸べようとして、出て行けと言われた晩のことを思い出した。心臓が鷲掴みにされたような痛みを覚えた。ステラが寝るのを見届けずに部屋を出て行かなければ、結局彼女を信じ切れないと言ったも同然になってしまう。
だが、痛みを不安が凌駕する。屋敷を離れていたせいでステラから三日も目を離しているのだ。このまま彼女を一人することに慣れて、あの時と同じことが起こったとしたら、今度こそ死んでしまったら、きっと耐えられない。
空を彷徨う手を急に掴まれて、キアランはばっと顔を上げた。ステラが気遣うように優しく微笑んでいた。
「そんなに深刻な顔をしないでください、キアラン。私、あなたが部屋を出て行くまでに寝てしまいそうなほど眠いんです。だからここに居ていいですよ」
その笑顔を目の当たりにして、エリオットの品格を目の当たりにした時とは別種の黒い感情が顔を出す。こんな卑しく薄汚れた人間をその美しい目に映さないでほしいと懇願したくなる。あなたが思うほど俺は善良ではなく、むしろ恨みや憎しみばかりがこの身を生かしているのだと、大声でわめきたくなる。
エリオットが課した条件がなかったとしても、キアランはステラと関係を持とうとは考えなかった。本来は目を合わせることさえ許されない神にも近しい人を地に引きずり下ろした自分など、愛を乞うどころか、受け取る全てが分不相当だった。
護衛騎士だった頃でさえ、こうして手を握ることを夢見たこともなかった。ステラは出会ったときから王太子の婚約者だったのだ。彼女の横顔を盗み見てひっそりと想うだけで、それ以上を望んだこともなかった。
ステラ・ブラックウェルの存在そのものが、都合の良い夢だ。キアランは、自分がいつか覚めるべき夢の中にいることを、世界中の誰より知っていた。




