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決してこの手を離さないように

 翌日、キアランは食堂でステラが来るのを待つ間、不安でどうにかなりそうだった。彼女が眠ったのを見届けなかったせいで昨晩はなかなか寝付けなかったこともあり、体調が悪くなりそうなほどだった。本当は起きてすぐステラの寝室を訪ねて安否を確認したかったが、起き抜けの彼女の機嫌を損ねたくはなかった。


 ほどなくしてステラが姿を現し、キアランは安堵のため息をこぼした。ステラの大きな瞳は三分の一しか開いておらず、あまり機嫌も良くなさそうだったが、おはようございます、と挨拶を欠かすことはなかった。


 区長たちが帰っていくのを見届けて、キアランは慌ただしく屋敷を発った。ステラと腰を据えて話す時間は取れなかった。


 馬でひたすら街道を走り、一日半かけて首都に辿り着いた。かなり体力を消耗していたが、休息も取らずに王太子宮へと向かった。


 王太子宮は何度見ても辟易するほど豪華絢爛な宮殿だった。内装の装飾は目が疲れるほど煌びやかで、鬱陶しいほどの優雅さを演出していた。


 領地の状況を聞きたいとキアランを呼びつけたエリオット王子は、自分は約束の時間にたっぷり一時間遅れて現れた。贅を尽くした服にも一切の乱れはなく、表情もまた穏やかそのものだった。


「よく来たな。忙しいと聞いていたが、私が呼べばいつだって駆け付けるのだから、お前の忠誠心にはいつもながら感心させられる」


 エリオット・シンカム。この国の王太子にして、ステラの元婚約者であり、未来のキアランの主君でもあった。黄金の髪と赤い瞳が印象的だが、薄い唇はどこか酷薄さを感じさせた。


 エリオットはキアランの努めて熱心な領地経営状況の話をどうでも良さそうに聞き流してから言った。


「そういえば、お前のところには子供はまだか?」


 キアランが領土を与えられて以後、エリオットは何かとキアランを呼びつけてきた。だが、それは領地の事情だとか忠誠心だとかに興味があるわけではなかった。彼の関心はった一人、ステラに向けられている。


「残念ながら特にそのような予定はございません。ご期待に沿えず申し訳ないことでございます」

「いいや、構わないさ。お前はいつでも王家の意に沿う忠実な家臣なのだから」


 黙れ、下衆野郎。その言葉を飲み込んだ。剣を預けていなければすぐにでもめった刺しにしていた。魔物殺しも獣のような男の血であれば喜んで啜るはずだった。


 エリオットは、キアランがステラを妻に迎えたいと懇願した時、初夜権の復活を唱えたクズだった。ステラの存在が後の権力争いの火種になることを危惧して処刑を主張していた貴族でさえ古の悪しき風習の復活に反対し、王や貴族たちの協議の結果、婚姻を無効化できる状態であれというエリオットの要求は通されることになった。


 体を重ねたことのない婚姻はいつでも無効化できてしまう。しかし、本当の意味でこの婚姻が成立すれば、王ないし王子は何らかの口実でキアランを死地に追いやって始末するだろう。特にエリオットはその時を今か今かと待っていて、呼び出すたびにわざわざ尋ねてくるのだ。


 屋敷で領地経営を一手に引き受けるステラは、キアランと違って首都の事情には明るくない。そのため、自らの処遇について耳を塞ぎたくなる話し合いがなされたことも知らないし、離婚制度の成立を目論んでいるのが王太子であることもまた知らないのだ。


 ウィンターミュート家が滅び、ステラとの婚約が破談になってから二年が経とうとしているが、エリオットの次の婚約者は決まっていなかった。エリオットはそろそろ二十五歳になることもあり、様々な家門が候補者を立てているが、当人はさして興味を示さない。その一方で青い瞳の女を夜な夜な連れ込んでいるという噂ばかりが目立った。王太子が今でも妃にステラを望んでいることは公然の秘密だった。


 青い瞳そのものは珍しくないが、深く澄んだアイスブルーの瞳はウィンターミュート家に特有のものだった。特にステラの瞳は、雪のように白い肌と氷のようにきらめく銀の髪が際立たせ、一度見たら忘れられないものだった。


「私であればお前の妻のように美しい女を娶ったら忠誠心など忘れてしまうだろうな」


 白々しい言葉を吐きながらも、エリオットがお茶を飲む仕草は洗練されていた。つま先から頭の天辺まで気品に満ち溢れた男を前にして、キアランは腹の底から黒々とした感情が湧き上がるのを感じた。


 卑しい平民と生まれながらの王子という絶対的な身分の違いを、たとえ国家が転覆しようとも高貴であることまでは剥奪できないということを見せつけられる度に、キアランは殺意に駆られた。


 父に捨てられ、王家に拾われ、送り込まれたウィンターミュート家を裏切り、勲功を認められ爵位を得て、ステラを妻に望んだときでさえ、常に誰かの手の上で転がされる人生を生きてきた。だが、エリオットはそうではない。その事実が、そしてエリオットの手によって自分やステラの行動が縛られ続けていることが、耐えがたかった。


「私は王に忠誠を誓った騎士であり、それは今も、そしてこれからも変わることなどございません」


 キアランは一切表情を変えずに言った。


 父に売られただけの身であるので、王家への忠誠心など持ったことはなかった。しかし、キアランの行動はいずれも王家への忠誠を示すものだったので、取り繕う程度は造作もなかった。


「今後もお前の活躍には期待している、サー・キアラン。ああ、それから、もし子供ができたら教えてくれ。私が名付け親になってやろう」


 俺がこの手でいつか必ず殺す、そんなことを考えながら、エリオットの提案を固辞して王太子宮を後にした。


 その頃には日が傾いていたが、首都では昼間とほとんど変わらない活気があった。


 キアランは怒りに取り憑かれた頭で首都を歩いた。今すぐ王太子宮へ戻ってあの首を刎ねたいという思いが頭痛となって頭を締め付ける。奴さえいなければ、奴を殺しておけば、ステラが手首を切るほど追い詰められることはなかったのだ。


 ステラの婚約者時代からいけ好かない男だと思っていた。将来有望だった第一、第二王子が事故と病で相次いで亡くなり、唯一生き残ったという理由で王太子となった消去法の第三王子。死んだ兄たちと比較され続けたせいで異常な劣等感を抱き、二人の息子を失った王妃に過保護に育てられた肥大した自尊心を持つ、ステラには相応しくない男。


 彼はステラから奪うことに病的な執着を見せていた。功績、金、時間、優しさ、そして愛と、奪ったそれらを仲間内で戦利品よろしく自慢までしていた。そのくせステラが父から虐待を受けているのを知りながら見て見ぬふりをする臆病者だった。


 冷めない怒りの熱でぼんやりした状態で領地へ帰ろうとしていたが、ステラに土産の一つも買っていないことを思い出し、慌てて繁華街へと向かった。


 首都に呼びつけられる度にステラへ土産を買うので、首都に住んでいないのに行きつけの宝飾店ができていた。馴染みの店員は待ってましたとばかりにキアランに商品を見せてくれた。


 サー・キアランが宝石を贈る相手は一人しかおらず、しかもステラを知らぬ者などいない超有名人であるので、店員が揃えてくる商品はステラにぴったりのものだけだった。


 キアランは、水に濡れたように艶やかな真珠の指輪と、およそ完璧な六条の線を宿したスターサファイアのネックレスを買った。自分の見る目に自信はなかったが、目利きの店員が選んだ物であるし、自らもステラに似合いそうなものならよく知っていた。


 店を出たところで、不意にステラが離婚してほしいと言った事を思い出し、崖から突き落とされたかの如き深い絶望がこの身を襲った。ステラのせいで何度似たような思いをしたか、今となっては数えきれないほどだ。


 離婚の話はなるべく考えないように頭から追い出していたが、領地へ帰るとなれば否が応でも向き合わなければならない。


 しかし、何度絶望に叩き落とされようともキアランは一度もステラを見捨てようと思ったことがなかったし、今回も離婚に応じるつもりなどなかった。ウィンターミュート家が滅んだ日、たとえ何があろうと彼女の手を離すまいと誓ったのだ。


 キアランは空を見上げた。空にはすでに星々がきらめいてた。


「帰るか……」


 恋しく、愛おしく、恨めしく、憎らしい、我が主君。彼女の元へ。

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