独りの夜
ステラが部屋に戻って寝支度を終えた頃、キアランが寝室へ来た。今日は幾ばくかましな顔色をしていた。客人が来ていることでステラが妙な真似をしないと確信しているためだろう。
「あの、キアラン。街の劇場の改修工事が終わって最初に“氷の姫と黒の騎士”を上演するそうで、招待を受けました。せっかくなので一緒に行きませんか?」
ステラは横になってから話を切り出した。キアランの顔が赤くなっているのが頼りない月明かりでもよく見えた。
「よりにもよってその舞台を私たちで見に行くなんて、招待する方も受ける方もどうかしていますよ」
「嫌なら別にいいです、一人で行ってきます」
ステラはついと顔を背けて布団をかぶった。
「嫌とも行かないとも申し上げていません、恥ずかしいんです……!」
ちらと後ろを見ると、キアランが困り顔でこちらを覗き込んでいた。ステラはふっと笑ってしまった。
「一緒に行ってくれますか?」
「……お嬢様がお望みなら」
「では約束してください」
ステラは布団から手を出し、小指を立てた。キアランはしぶしぶ小指を絡めてきた。
「本当にどうなさったんですか、お嬢様。今夜はお酒が進んでいたようでしたが、この話を切り出すためだったんですか?」
まるで逃がさないようにするかのようにキアランは手を握ってきた。ステラはごくりと唾を飲み込む。その音がキアランにも聞こえそうなほど部屋は静かだった。
「近頃、あの小説の流行もあってか、恋愛結婚も流行しているのをご存じですか?」
「ええ、存じ上げています」
「家と家同士の利害の一致による契約でないせいか、一時の情熱が冷めて結婚の解消を求める人も同時に増えているそうなのです。教会は無効化できない結婚契約だからと耳を貸さないそうですが、貴族たちが離婚という制度を導入しようと動いているそうです。両者の合意によって関係を清算できる制度のようで、貴族たちも生涯に渡る結婚という契約形態に悩まされてきましたから、遠からず離婚の法律が成立すると思われます」
思われると言ったものの、近頃噂で耳にしたことや区長たちが休憩時間にこそこそ話していた内容を統合するに、遠からず離婚制度ができることを確信していた。
教会は教義に基づき制度成立に強固に反対しているものの、ウィンターミュートの反逆に高位聖職者も加担していた事実が明らかになったことで発言力は大きく削がれており、貴族側の意見が通されるに違いなかった。
「もしその制度が成立した時には、私と離婚してもらえませんか?」
ステラは固唾を飲んでキアランの返事を待った。彼は置物のようにぴくりとも動かず、息もしていなかった。
「観劇に誘った舌の根も乾かないうちに離婚の申し出とは、本当に酷い人ですね。真っ先にその制度に飛びつきたいほど私と一緒に居るのは苦痛ですか?」
ようやく口を開いたキアランの声は、今にも消えてしまいそうなほど弱々しいものだった。
「違います、そうではありません」
「ではなぜそんなことを仰るのですか、他に男でもできましたか?」
ステラは顔がかっと熱くなるのを感じ、次に指先が冷たくなっていくのを感じた。よりにもよってキアランにそんなことを言われるとは思ってもみなかった。
キアランは、ステラが死ぬ暇もないほど日々忙しく過ごしていることも、誰といつ話してどの程度親密なのかも全て知っている。使用人たちにステラを監視するように命令するだけに飽き足らず、諜報活動を主とする影の騎士を使ってステラに関する情報を全て報告させているからだ。
「そんなに私が信用できないなら、あなたにとっても悪い話ではないでしょう」
「いいえ、絶対に離婚などしません」
キアランは怒りを帯びた断固たる口調で言って、離れかけたステラの手を握りなおした。
「私から離れて生きていけるとお思いですか? いまだにお嬢様を狙っている貴族がどれほどいるかご存じないからそんなことが言えるんです。奴らはあなたを奪う隙を常に窺っています、一体外がどれほど危険か……」
「では、ずっとこのまま生きていけと?」
手を握られているのに、ステラはこの暗闇の中で独りきりであるように感じていた。
「殿下や貴族たちを恐れ、死なないように監視され続けるこの生活をずっと続けろと?」
「そうは言っていません」
「同じことでしょう」
ステラは冷たく言い捨てた。
「劇団が私たちを招待したのは原作者が私たちに接触を試みようとしているためだと思われます。作者はどこかの貴族か有力者の保護を受けているに違いありません、でなければこんなにも長期に渡って正体を隠せるはずがありませんから。作者は王室ではなく私やキアラン側の立場を取っています。繋がりを持てれば、あなたの代わりに私を保護してくれるかもしれません。キアランのそばに居なくても、私は生きていけるかもしれません」
「なぜ俺を遠ざけようとなさるんですか?」
「私の身の安全のために身を挺して結婚という形で守ってくれていることには感謝しています。でも、私と一緒にいるあなたがどれほど苦しそうな顔をしているか知っていますか?」
ステラはキアランの手を振りほどいた。かすかに見える琥珀色の瞳に夜より暗い悲しみが映る。
「出て行ってください。離婚もしてくれないなら、せめて少しは信用してくれている姿勢を見せてください。それも嫌ならせめて今からでも夫婦の義務を果たしますか?」
再び部屋を沈黙が満たした。ぎし、とキアランがベッドに手を突いて音が鳴った。見上げたその顔は完全に闇に沈んでいた。体温を肌で感じるほどの距離に、ステラは我知らず息を止めた。
「軽々しくそんなことを仰ってはいけませんよ、お嬢様」
キアランはステラの頬を指の背で撫でて、部屋を出て行った。
せっかく一人になれたのにまるで嬉しくなかった。胸の痛みが眠気を追いやり、しばらく経っても寝付けなかった。
この関係に終止符を打ちたいという思いに偽りはなかったが、同時に変化への期待を捨てきれない自分がいる。いっそ普通の夫婦になれれば、この胸の痛みも抱かずに済んだだろう。だが、彼はステラの騎士であり、臣下であって、向けられるものは忠誠心だけだった。




