良い日も悪い日も幕が下りることはなく
キアランは朝からとにかく憂鬱だった。何が悲しくて“氷の姫と黒の騎士”の舞台を、しかもステラと一緒に観にいかなければならないのだろう。
そんな調子だったので、朝の鍛錬も午前の仕事中もずっと暗い顔をしていた。しかし、支度を終えたステラの姿を見てそんな気分は一気に吹き飛んだ。目立たないよう控えめな色の服を着ていても、胸元の宝石に負けないほど彼女は輝いていた。
原作のモデルにされた二人が劇場に来ていると知られれば騒ぎになるかもしれないため、護衛は付けず出掛けた。二人きりで外出するのは久しぶりで、結婚式の為に教会へ行ったとき以来だった。
キアランが領主になったばかりの頃と比べて、街は活気に溢れていた。街並みは綺麗に整えられ、道行く人の数もかつての比ではない。老朽化していた上下水道や道路といったインフラの再整備も街を含めた各地で進んでおり、領民たちからも感謝の声が寄せられていた。全てステラが領主代理となったおかげだった。
ステラは領主代理になった後、領地の発展に寄与する政策をいくつも打ち出した。役人たちも最初は戸惑っていたものの、法律家や様々な専門家を集めて役人や部下の教育に勤しんだり、かつてステラを教えていた元家庭教師を招聘して都市計画を立てたりするステラに感化され、熱心に働くようになった。
ストーンフェルトの地代は振るわず、さらに元領主代行による着服が発覚し、予算は乏しいかに思われたが、キアランに贈られた報奨金をステラが投資で数倍に増やしたのですぐに元手には困らなくなった。
今回招待された劇場の改修もステラが支援し、目覚ましい速度で工事が完了した。改修前は客足が遠のいていたが、ステラが演目を現代劇に変更するように提案し、さらに演目を盛り上げるために若手芸術家を何人も集めて宣伝用のポスターや舞台で使う大道具制作に当たらせた。
そんなステラの力添えもあって劇場は連日盛況であることはキアランも知っていたが、実際に見ると予想をはるかに上回る盛況ぶりだった。
「緊張しているんですか?」
隣の席に座ったステラに耳打ちされ、キアランはどきりとした。
「まさかこんなに人が詰めかけてるとは思わなかったんです……」
二階の招待客用個室の席からは、劇場内の客席の様子もよく見えた。一階にずらりと並んだ席という席が埋まっており、後方には立ち見客までいた。他の二階の個室席にはわざわざ首都から劇を見に来たと貴族と思しき客もいた。
恐縮しているキアランをステラはくすくす笑った。
やがて場内は暗くなり、オーケストラピットの音楽隊が演奏を始め、ゆっくりと舞台の幕が上がった。
劇が始まると、キアランはますます居心地の悪さを覚えた。自分たちをモデルにした役者たちが愛を語らい、時に涙を流し、邪悪な父親を討ち――と話が進めば進むほど具合が悪くなった。
終盤で限界を感じ、外に出ようとすると、ステラに手を掴まれた。ステラは相変わらず食い入るように舞台を見つめていて、キアランの方へは一秒たりとも視線を寄越さなかった。
仕方なくキアランは浮かせた腰を下ろし、あらゆる感情を噛み殺して観劇を続けた。劇が終わるまでステラは手を離してくれなかった。
「行きましょう、愛しい我が姫。新たなる地へ、私たちだけの場所へ」
「ええ、どこまでもお供いたしますわ、我が愛しき騎士。互いを想い合う以外何もいらない場所へ……」
舞台上の二人が熱いキスをして、手に手を取って舞台からはけていった。誰もいなくなった舞台にいかにも感動を誘う音楽が響き、やがて幕が閉じた。
観客たちは割れんばかりの拍手を送り、ステラもまた拍手を送っていた。キアランはぐったりしていて、それどころではなかった。
キアランはすぐにでも帰ろうとしたが、ステラに止められた。
「キアラン。私たちは招待されたのですから、支配人や役者たちにも挨拶をしないといけません」
もう耐えられませんと叫びそうになったが、ステラに手を引かれて舞台裏へと連れて行かれた。
支配人や役者たちが二人を温かく迎え、来てくれたことに対して感謝の言葉を述べた。キアランはそれらしいお礼の言葉を返しただけだったが、ステラは劇がいたく気に入ったらしく熱っぽく感想を伝えていた。得意になった役者たちは別の舞台も見に来て欲しいと誘う始末だった。
「本当に楽しい時間を過ごすことができました、また必ず伺いますね。それから、脚本を書かれた方にもお会いしたいので、よければお手紙を下さいとお伝えください」
途端に支配人は笑顔を凍り付かせ、キアランの方へ視線を向けてきた。
「ところでその、サー・キアランはかねてより当作品をあまりお気に召していないと伺っていましたが……」
お気に召さないどころか、キアランは原作の小説が世に出回り始めたころに作者を突き止めてあわよくば息の根を止めようと考えていた。今でこそ小説がキアランに対する世間のイメージを裏切りの騎士から国で最も理想的な騎士の地位にまで押し上げるのに一役買ったが、それでも納得いかないものがあった。
「劇を拝見して気が変わったようなので、安心してくださいとお伝えください」
ステラが穏やかに言って、キアランも内心とは裏腹な完璧に取り繕った笑顔を浮かべた。
ステラは劇場を出た後でもまだ楽しそうにしていた。“氷の姫と黒の騎士”を世に送り出した黒幕を探ることなどほとんど忘れているのではと思うほどだった。
「お嬢様が劇がお好きだとは知りませんでした」
「殿下と一緒に行ったことはありますが、格式高い古典劇であまり面白くなくて、その時は全く興味がなかったんです。でも、現代劇は本当に面白かったです。また行きましょう、キアラン」
「もう同じ劇を観るのは嫌ですからね?」
念のため釘を刺すと、ステラは悪戯っぽく目を細めた。
「無理です、観てる間も頭がおかしくなるかと思いましたよ」
「本当ですか? キアランはあまり舞台に視線を向けてなかったようでしたけど」
「お嬢様は舞台に釘付けで私のことなんて一度も見なかったと思いますが」
キアランはすぐに自らの失言に気付いた。顔がかっと熱くなる。
「そんなに恥ずかしかったですか?」
冷たい指が頬に触れて、キアランは足を止めた。
「自分やお嬢様をモデルにして作られた物語を見せつけられたんです。恥ずかしくもなるでしょう。しかも現実とはまるで違う筋書きで、幸福に暮らしたという結末で……」
「では、今からその結末に沿ってみますか?」
キアランはぐっと言葉に詰まった。ステラがどんな顔をしているのか確認することもできなかった。些細なことで勇気が出せない自分が情けなくて仕方なかった。
近頃のステラはやけに距離が近くなった気がしていた。こちらの気も知らないでと恨めしく思うが、ステラ・ウィンターミュートに限って忠誠心の下に隠した気持ちに気づくはずがなかった。
母を物心つく前に亡くし、父に辛く当たられていた彼女にとって、愛よりも主君に対する忠誠の方がずっと身近だったはずだ。ウィンターミュートの熱狂的な家臣の例は枚挙にいとまがなかったし、先の反乱で何百人もの騎士や家臣がブラッドリーのために命を落としたのだ。キアランの行いの全てが言葉通り忠誠心によるものでないと、どうして疑うことがあろうか。
「本当に私を愛しているのなら、あの非道な父から私を救い出してくださいますか?」
脈絡のない言葉にぎょっとしてようやくステラの顔を見た。悪戯を成功させた子供のように笑っていた。
「劇の台詞です。せっかく面白い舞台だったのに、本当に観ていなかったんですね」
キアランはもう一人で帰りたい気分だったが、ステラを置いてどこにも行けなかった。
「ええ、俺はお嬢様と違って劇を好まないようです。次は侍女を誘われるといいでしょう」
「ごめんなさい。つい意地悪し過ぎてしまいました」
するりとステラに手を握られた。ステラに触れられる度、惨めで死にそうなのに、歯を食いしばって耐えてしまう。護衛騎士だった時より、結婚したばかりの時より、欲深くなっていることを自覚せざるを得ない。
あなたは気づいているんだろうか。誰より俺を疎みながらも、同じくらいの強さで熱を帯びた視線を向けていることを。
それを自惚れや勘違いだと気づかないふりをするのが難しくなってきていたが、その思いを受け止められなかった。裏切り者で卑怯者で役立たずの自分よりも相応しい相手がいるはずだと考えてしまうからだ。だが、いまだにそんな男は見つかっていない。家柄が良く、裕福で、腕が立ち、ステラを守れる男でなければこの立場を譲り渡せない。
だから、優しく心配されることさえ苦痛でも、せめてステラに相応しい男が見つかるまではこのままでいたかった。苦しみがステラの存在を証明し続けてくれるなら、それを感じ続けたかった。
「キアラン。今日は楽しかったです、付き合ってくれてありがとうございました」
「……礼には及びません。何かあればまた御用命ください」
はい、とステラが口元を綻ばせた。




