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朱里が何を目指しているのか具体的には依然わからなかったが、曲のクオリティを上げるために様々苦慮していることは手に取るように知れた。一人一人への詳細な注文はもちろんのこと、以前よりもメンバーに提示される原曲の音質が上がった。そのおかげで一音一音が明瞭になり、音を取りやすくなった。次に、今までは大河に任せきりであったスコアの作成にも積極的にかかわり、歌のブレスだのシンバルの大きさだの、ギター、ベースのエフェクターのセッティングの指示だのも、事細かに書き込んでいった。時には大河と夜遅くまで相談をして、より詳細なアレンジを決めることも少なくなかった。
さらには、練習の合間には一人一人の音をチェックし、自分で機材のつまみをあれこれいじってみて、音作りに関してもこうしろああしろと指示することも増えた。新しい機材を買い込んで試させたり、自分なりに色々と調べてたりもしているようである。
その執念とも言えるアレンジへの介入は意見の衝突を招くこともあったが、朱里は決して諦めなかった。そうして最終的には大抵、総意で朱里のアイディアが良いということになるのである。
朱里は真剣だった。バンドの将来に何を見出しているのだか、言葉として語ることは無論なかったが、その姿勢には大地も大河もルアンも、月の引力のように問答無用で引っ張られていくのであった。
しかし、そうこうしていくと曲の質がみるみる上がっていくので、大地もルアンも大喜びであって、なぜ朱里がそこまで力を入れ出したのかをあえて考えることはしなかったが、大河だけは一人密かに朱里の内面を分析し始めていた。
——どうしたって朱里がこんなにも自分の楽曲だ、音質だにこだわり始めたのは東京でのライブ以降のことで、それはあんちゃん含め、たくさんの東京で活躍する力のあるバンドのライブを実際に観たのだから、それが大きな刺激になったのは、わかる。でもおそらくはそれだけではない。朱里はあの日、あんちゃんに失恋したのだ。朱里は喋らないだけで、結構頭はまともだと思っていたけれど、実の兄に恋愛感情を抱いて、恋人がいたとわかった日には公共の場でも構わず大泣きするぐらいにはお変人だったのだ。まあ、多少頭がぶっ飛んでいないとあれだけの曲は作れまい。別にそれはいい。でも、このタイミングでのここまでの朱里の変化ということを踏まえると、おそらく、——朱里はあんちゃんを見返すためにバンドで勝負に出ようとしている。
そう結論付けたものの、はっきり言ってばかばかしいと大河は思った。くだらないとも思った。何を考えているのだとも思った。
でも秘められた真の目的はともかく、バンドとして次なるステージに登らんとすることには心躍った。次にどのような世界が展開されていくのか、どんな風景が広がっていくのか、考えるだけでわくわくした。だから大河はあえて知らないふりをして、朱里の真剣な眼差しを尊崇の(そして少々の侮蔑の)念でもって眺めながら、日々の練習に励んだ。
つくばのライブハウスHexedでは月に一、二度ライブを行い、コンスタントに新曲も演奏した。継続は大切であるが、そこに向上がなければライブをやる意味がないということも四人にはわかっていた。こなす、のではない。一回一回着実により高みを登っていくライブにしなければいけない。
四人の前には常に目標たる海里がいた。いずれは乗り越えなければならないその高い、高い壁を目指し、四人は日々鍛錬ともいえる努力を続けていた。
ーーレコーディングスタジオ押さえられたーー
海里から待ちに待った返答が来たのはそんな時であった。
かねがね頼んでいた、レコーディングスタジオの予約である。
やはり音源なくしては新たなライブハウスの開拓もあり得ないし、これから大河の高校卒業を待って東京に打って出ていくのだから、最低限そのタイミングでは必要となってくるというものである。準備は早いに越したことはない。でもメタルに特化した、こだわりを持ったスタジオでやりたい、というのが譲れぬ四人の願いであった。そこばかりは仕方なく朱里も海里に頭を下げ、どうにか海里たちが使っているスタジオを紹介してくれるよう頼んでいたのである。しかしプロも使うスタジオにはもう年単位で予約が入ってしまっていて、すぐにはレコーディングには入れなかった。
しかしどうにかキャンセル待ちも捩じ込んで、無理矢理一週間、押さえることができたのである。
ちょうどそれは大地、朱里、ルアンが高校二年となる直前の春休みのことであった。日程が決まってからは、より必死に幾度もアレンジを変えて、「これ」という必然性を得られるまで試行錯誤を続けた。しかしこれはいわば正解のない戦いである。ルアンのシンバルの音が気に入らないと言っては、朱里はどこからか何枚もシンバルを仕入れてきて試奏させる。エフェクターも山ほど買い込んではあれこれ試して、大地と大河にも試奏させた。
この細身の体によくこんなエネルギーと集中力と熱意とが宿っていたものである。大地らは執念、さえ感じた。
それもあんちゃんを見返すためなのかと思うと、大河は空恐ろしささえ感じた。(心だけだとしても)女は敵に回すべきではない、と。
そうしていよいよレコーディングが始まった。四人で何度も相談して決めた、精選された全十曲を入れることになり、ジャケットも海里が知人のイラストレーターに頼んでくれたと連絡が来た。後は完璧な演奏を採るのみである。
「よろしくね。」
レコーディングスタジオのエンジニアであるケンは、一見柔和そうな中年男性であるが、音への卓越したセンスから海里が誰よりも信頼している右腕と言っても過言ではなかった。
「元々の曲は聴かせてもらったよ。いいねえ。……今までプロの曲もだいぶ採って来たけれど、それと遜色ない出来だと思う。」
しかし朱里は安易には喜ばない。表情は固く、これからのレコーディングに向けて緊張が満ち満ちている。
「……リラックスも大事だよ。」ケンは柔和な笑みを浮かべ朱里の肩をぽんと軽く叩いた。「先は長いんだ。あんまり緊張していると夜眠れないし、そうすると疲れも取れない。特にドラムはそんな悪循環に陥っちゃうと、全然いい音が取れなくなるから。ね、リラックスリラックス。」
そう言われて朱里は少々頬の強張りを緩める。
「海里君からもよろしくって頼まれてるんだ。最後までしっかり面倒見てやってくれってね。」
朱里は眉根を寄せる。
「……あんちゃ、……海里さんは俺らの曲のことなんか言ってましたか?」と大河。
「うん、もちろん。いい曲だからって。彼はずいぶん弟君たちのことが大事みたいだから最初は贔屓目かなと思ってはいたけど、でも音源もらって納得したよ。海里君が褒めるのもよくわかった。」
朱里がそっとスマホに何やら打ち込んで、睨みつけるような眼差しでケンにずいと見せた。
——海里の曲とぼくらの曲はどっちがいいですか?
「ええ?」ケンは頓狂な声を上げた。しかし朱里の眼差しは真剣そのものである。
「おめなあ、あんちゃんだど? あんちゃんと比べられる土俵にはまだいねべよ。」大地が呆れたように言った。
「いや、どっちがいいとか悪いとか、音楽はそんな単純なものじゃあないからね。……言うなら、海里君たちの方がソリッドだね。それは経験によるところが大きいとは思うけど。でも逆を言うと君たちの方が柔軟で、これからどうにでもなっていく可能性に満ちている。」
「じゃあ、今はあんちゃんらの方が上だけど、それを負かしちまう可能性は俺らにもあるってこどが!」ルアンがそう言って胸を張った。
「上とか下とかじゃないよ。」ケンは苦笑いを浮かべていなした。「そうだ。海里君たちのバンドの新しい話聞いている?」
ケンが笑いを変えた。
「新しい話?」大地が首をかしげる。
「あ、……まだ聞いていないかな? たしかにオフィシャルにはなってないから……」ケンは口ごもった。
「あんちゃんだぢ、なんかあったんですか?」
「否、悪い話じゃないよ。すっごいすっごい、いい話なんだけど。……きっと後で本人から話があると思う。僕から言うことじゃない。聞かなかったことにして」
「ええ?」大地が不満の声を上げた。
ーー何だろう、いい話とは。朱里は唇を突き出した。
また海里は先へと行こうとしている。遠くへ行ってしまう。頑張って追いかけても、距離はなかなか縮まらない。これがいつか追い越せるようになるのだろうか。不安がよぎった。
でもともかく、今は海里の後を追うことしかできない。朱里はわかっている。でもいつかそれを乗り越えて、もっと広い世界を見てやる。胸の奥で何かが弾けた。
レコーディングは今までにない戦いであった。今まで大地、大河、ルアンの三人は朱里の要求が厳しくかつ細かいものと感じていたが、その比ではない。ケンに録り直しを命じられ再度演奏したところで、先ほどの音とどう違うのかもわからない。説明されてもわからないことの方が多い。途方もない繰り返しに次ぐ繰り返し。ルアンはもう今にも倒れそうな程に叩きに叩いた。すると休憩が命じられる。大河もクイックを聴きながら日頃練習を行っていたがここではそれ以上のコンマ何秒のブレを指摘される。四人は必死になって食らいついた。自分の限界、というものを厭というほどに突き付けられる。レコーディングが始まったその日のうちに、心身は限界に到達した。
夜。
「一曲しか出来ねがっだべ。……どうすべ」大地がホテルの床に四肢を投げ出して言った。
「だいじだ(注:大丈夫だ)。まだあと六日あっがら。明日こそは、ちゃんとやる。」大地の隣で同じように倒れながらルアンもそう決意を述べたものの、その目は半開きで、満身にも明らかな疲労がにじんでいた。
「……朱里」大河は朱里に向き直った。「おめ、あんちゃんのごど、負かしてやりてえって思ってだんが?」
朱里はまっすぐに大河を見つめた。そうだ、とはっきりとその目は語る。
「……凄ぇな」ため息交じりに言った。
「でもよお、なんで突然あんちゃんごど、負かしてやりてえってなっだの?」大地が意図せず本質的な質問を投げかけたので、大河はぎくりと身を震わせた。
朱里はその問の前に固くなった。
「あー、わがっだ。」ルアンがにやにやする。「おめ、あんちゃんのあまっこ(注:彼女)に返り咲きてえんだっぺ。そのためにいい曲作って褒めてもらおうとしてんだっぺ」
ソファに座っていた朱里は手元のクッションをルアンに思い切り投げつけた。
返り咲きとはなんだ。大河は唇を尖らす。返り咲きどころではない。朱里はもっと上を目指している、自分を捨てたことを後悔させたがっている。やはりこの人は女なのだ。
レコーディング二日目、四人はホテルで朝食を済ませると隣接するスタジオへと向かった。体力の回復は万全。やれるところまで、やる。そんな気迫が漲っていた。
ケンに挨拶をし、それぞれ機材の準備をしていると朱里のスマホが鳴った。画面には海里、の文字が映し出された。大地が満面の笑みで応答する。
「あんちゃん!」
「おお、大地か。どうでえ? 順調か?」
「……どうだっぺがなあ。ちっと心配だ。……昨日は一曲しかできながっだ」
朱里はその隣で顔を顰めた。海里に弱みを見せることに不満があるらしい。
「だいじ(注:大丈夫)だっぺ。ケンさんに任せどげば、間違いねえから。俺らも全幅の信頼を置いて毎回そごで作ってんだからよ」
「あんちゃん」ルアンが割って入った。「朱里がな、あんちゃんごど追い越すつもりでやってんだど。寝首かかれねえようにな! あっははは!」
「マジか!」嬉しそうな声が電話の向こうから響き渡る。朱里は眼を吊り上げる。
「あんちゃんしくったな! あんちゃんが東京であまっこ作ってっから朱里が嫉妬で怒り狂って、レコーディングに命かけ始めたんだど!」遠慮も何もないその言葉に、朱里はルアンの胸を両腕で打った。
「あまっこだあ?」
「ほっだよ。(注:そうだよ)」ルアンは笑いを堪えながら言う。
「あまっこっちゃあ誰だあ?」
「しらばっくれでー!」
「あの頭ピンクの女だべ。」大地も加わる。
「頭ピンク? ……ああ! モモかあ!」
「モモっつうんか」
朱里の目がにわかに曇る。
「モモはあまっこでねえよ。ドラムの嫁さんだべ」
朱里の口がぽかんと開いた。
「ルアンもわがっど思うが、ドラムっちゃ色々荷物も多くて大変だから、よぐライブのたんびに運ぶのだの手続きだのなんだの手伝ってくれでんだよ。そのついでに受付だとかチケット売るだとか、あとグッズ売るどがもやってくれてんだよ。俺のあまっこでねえよ」と言って海里は笑う。
朱里の唇がわなわなと震え出した。大河がそっと背を摩ってやる。
「えええ? 俺らはてっきりあんちゃんのあまっこどばかり……。」ルアンは目を白黒させながら言った。
「違ぇ違ぇ。ほっだらごと勝手に想像してねえで、レコーディングさしっかりやれよ? いいな? 下手な音源作ったら許さねど? せっがぐキャンセル待ちまでしてケンさんどご押さえてやっだんだからよ。下手こいたらおめらにかかった金全額回収すっかんな?」
そう言われて四人は顔を見合わせた。朱里は目を盛んにしばたたかせ、どうしたらよいのかどうすべきなのか、途方に暮れているように見えた。
二日目はそんな意外な形でレコーディングがスタートしていった。朱里はそれでも意欲的にギターを奏でた。
やはり技量の面では最も秀でている。華やかさも繊細さも併せ持つこの独特なプレイは、これから日本のメタルシーンを担っていくそういう存在になるのではないか。そんな思いを抱きつつケンは次々に弾かせてその都度OKを出していった。
朱里は自分の番が終わると、ケンの隣に座って何かを考え込むようなそぶりを時折見せつつ、いや駄目だ駄目だと再びメンバーの音に耳を傾けるのである。そしてそんな集中力に欠ける自分を反省するのか、一人一人レコーディングが終わるたびに労いのつもりで、近くのコンビニで買ってきたチョコレートだのグミだのをくれてやるのだった。
そうして二日目は順調に終わった。朱里の中から妙な緊張感もとい闘争心が消え、いつもの穏やかな様子に戻っていったのを三人は感じていた。しかしそんな姿を見ても、この人は、言葉を発さないだけでひときわ感情的であるし、もっと言えば恋愛体質なのだと大河なぞは思わざるを得なかった。
このレコーディングを通じて、大きく力を付けて行ったのはルアンであった。もともとケンはメタルバンドでドラムを叩いていたのだという。よってその指導は的確であったし、ルアンの弱点であった正確さ、細やかな手さばきにおいて大きく成長させる助言を与え得たのである。ルアンはもともと素直な性質であるので、吸収力には秀でていた。ケンのアドバイスのお陰でわずか数時間で見違えるようなプレイができるようになったこともあった。
それはメタルというジャンルにあるこのバンド全体の土台を底上げすることと同義であった。四人はどのような音源が完成するか、レコーディングの終わらぬ内から楽しみでならなかった。
翌朝、今度は海里からの差し入れが届いた。近くの定食屋に注文をした弁当である。焼肉弁当が四つと、鮭弁当が一つ。
「これはおめのだっぺ」大地が鮭弁当を朱里に渡す。
朱里は肉はあまり得意ではない。
「さすがあんちゃんだべな、おめの趣味ちゃんとわがっでんな。」
朱里は受け取りながら、なんだか目頭が熱くなるのを感じる。どうして今まで海里を憎んだろう、どうして海里を打ち負かしたいと思ったろう。今、朱里は海里に甘えたくてならなかった。海里に会いたかった。
「なんでえ? 泣いてんのがぁ? 飯ぐれえで涙もれえな!」ルアンに指摘されて、朱里は俯いた。
「あんちゃんはずっとずっとおめを大切に思ってんだべよ。間違ったっておめを蔑ろにすっごどなんで、ねえよ」大地はそう言って朱里の頭をぽんぽん撫でてやる。
なんだか恥ずかしくなって、朱里は自分の弁当一つを持ってスタジオの外へ出ると、すぐ目の前にあるベンチに腰掛けて箸を割った。
もう本格的な寒さは去り、陽光の温かさが心地よかった。車が行き交ってはいるが、うるさくはない。朱里は唐突に海里にごめんなさい、と伝えたかった。ありがとう、と言いたかった。声は出なくても海里はわかってくれるから。目を見れば全てわかってくれるから。
スマホが鳴った。海里からのメッセージである。
ーーがんばれよ。おめらなら最高の一枚ができっがら。
やはりあんちゃんが大好きだ、朱里はそう確信する。他の誰でもない、あんちゃんが一番なのだ、あんちゃんが最高なのだ。そしてそのあんちゃんと同じ血が自分の中にもしっかと流れている。ふと、朱里は箸を握った手首を見つめた。ここに、あんちゃんと同じ血が通っている。温かな、音楽を生み出す血。感情豊かにギターを奏でられる血。
元気を得て弁当を一気に食べ切ると、そそくさと朱里はスタジオへと戻った。三人は牛肉の厚さだの旨さだのを盛んに讃嘆しており、まだ食べ終えていない。朱里はやきもきした。早くレコーディングに入ろう、と目で訴える。
「ちっと待でよお、食い終わったらちゃんとやっからよおお」大地に言われて朱里は頬を膨らます。
早く最高の音源を作って、海里に届けるのだ。朱里はいてもたってもおられずに、その場でギターを弾き始めた。
一週間がたち、予定通りにレコーディングは終了した。
心身ともに疲労は拭えなかったが、達成感と満足感でいっぱいだった。さらに海里の知人のイラストレーターによるデザインも完成したとの連絡が入った。完成すれば間もなく市場に流通可能なCDとなる。これをもってすればもっと多くの人たちに自分たちの音を聴いてもらえるし、あんちゃんにも一歩近づくことができる。四人の胸は期待に膨らんでいった。




