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  翌朝まだ早いうちに、海里の家のチャイムが鳴った。朱里は寝ぼけ眼で、玄関に向かって歩いていく海里の後ろ姿を見守った。

 インターフォンに向かって何やら話している声が聞こえてくる。

 「……ああ、そう。うん、……うん。わざわざありがとう。今開ける。」

 標準語を使う海里に朱里は無意味にいら立ちを感じた。不機嫌な眼のままむっくりと起き出すと、既に三人は起きていて、リビングで物珍しそうに海里の機材を眺めたり触ったりしていた。

 「おお、起ぎだか。あんちゃん凄ぇな、面白ぇもんいっぱいあんぞ。」大地がおもちゃを目の間にした子供のごときキラキラとした眼差しで言う。

 朱里はどうでもよさそうに軽く一つ頷くと兄の姿を求め、玄関に向かった。

 玄関先には見たことのある女がいた。ピンク髪の女。——あんちゃんが茨城にやって来た時に、受付をやっていた女だ。たしかライブ後に楽屋に行った時にもいたっけ。

 女は「あら、弟さん? おはよう。昨日はお疲れ様。よく眠れた?」とこちらに目線をくれつつ、海里に何やら封筒と書類の束を手渡す。

 自分が弟であるということを、一目でわかっているのがなぜだか朱里には腹立たしい。

 「昨日の音源データは後でメールに送るね。マーチの売上一覧も添付しておくから、今度こそはちゃんと見てよね。いっつも知らんぷりなんだから。……弟さんたち、今日帰るの?」宿泊していることも知っている素振りに、朱里はさらに腹が立って来た。

 「そう。じゃあ、また後で。」

 バイバイ、小さく手を振って去っていく。

 「あんちゃんのあまっこ(注:彼女)だっぺか。」大河の声は小さいが、残酷な程はっきりと朱里の耳に響いた。

 「こんな朝早くに家まで来んだからそうだっぺな。」ルアンが続く。「俺らいたらお邪魔虫だったかもしんね。」

 朱里は呆然と立ち尽くした。

 海里は女を見送ると何も知らぬ顔で「さて、おめらに朝飯作ってやんべな。」と振り返り、立ち尽くす朱里の背中を押しながらリビングへと戻って来た。

 あっという間にトーストにハムエッグ、ホットミルクにリンゴ、コーンスープまでがテーブルに並んだ。予想以上の豪勢な朝食に、朱里を除いた三人は驚き、そして勢いよく食べ始めた。

 「あんちゃん飯も旨いな! なんでもできて凄ぇな!」大地がお世辞でもなく言う。

 「フロントマンっちゃ、何でもできねえどだいだど?」

 大地が目を丸くする。「本当が?」

 「大地は料理も勉強もなんもできねど。」大河が冷静にそう言い放つ。

 「でも朱里の一番の理解者だっぺよ」と海里。

 朱里は喉の奥に、何かごつごつしたものを感じ始める。泣きたい、喚きたい。それのできない自分が悔しい。せめてなぜ、一番の理解者としての立場を笑顔で大地に譲るのか、それだけは問い糺したいけれどそれもできない。無力感。

 「それにおめ、詞書いてっぺな。」

 「ありゃ大河が手入れで完成させてんだ。」まだ自分の作詞の大意が生かされていると思っているのだろうか、大河はホットミルクを飲みながら横目に大地を見た。

 「英語ぐれえやっどげよ。いづ海外さ呼ばれて出てくかわかんねえんだからよ。」

 「海外!」ルアンが色めき立つ。

 「おめ、海外さ行きでえんが?」大地が尋ねる。

 「俺はベトナム産まれだど? 国でライブやっだらかっこいがっぺよ。」今更か、とでも言いたげにルアンは睨んだ。

 「ほん(注:それ)でもいいし、海外のフェスっつうのに出てよお、何万人って観客相手に曲ぶちかませたら気持ちいがっぺ。」海里が言い、三人はうっとりとその様を思い浮かべた。

 朱里だけが半ば義務的にちまちまと朝食を口に運んでいる。食が細い朱里のことだから特に誰も不思議には思わなかったが、朱里は一口、一口と、噛み下すたびに苦難と悲嘆を抱えていた。それが暴発するのは、さすがに海里と別れた後のことである。


 マンションのすぐ傍にある最寄駅までは海里が送ってくれ、四人は名残惜しくも再びライブで再会することを約束して別れた。

 電車に乗った直後のことである。

 この上ない充足感に満ちた三人の真ん中で、突然朱里が涙を零し始めた。と言っても、顔を顰めるでもない眉根を寄せるでもない、ただただいつもの無表情に涙だけが滂沱の如く零れ落ちて来たのである。

 三人は驚きとも不可思議ともつかぬ朱里の様子に息を呑んだ。

 「どうしたんで?」大地が頬を手の甲で拭ってやる。「おめ、泣いでんのが?」

 「花粉症か? それども、ライブが終わって寂しいのが?」とルアン。

 しかし朱里は答えない。頷きもしなければ首を横に振りもしない。ただただ、それが表現として相応しいのか三人には不明であったが、とりあえず無表情のまま涙を溢し続けた。

 「あんちゃんか……?」大河がただ一人正確無比な判断を下す。

 「あんちゃんにあまっこ(注:彼女)いだんで、悲しくなっちまっだんが?」

 朱里の喉の奥からごく、というような妙な音が漏れ出した。大地とルアンはそれか、とため息をついた。

 朱里は海里を慕っていた。それはわかってはいた。

 幼い頃から海里の後をついて、釣りもやったしバイクも乗ったし、ギターも弾いてきた。でもそれは単純に兄を慕っている、という次元のことと理解していたが、どうも違ったらしい。

 朱里はどうやら兄を異性としても慕っていたということが判明し、三人は今更ながら朱里の新たな一面を突き付けられ困惑した。朱里が泣くときには無表情で泣くのか、という妙な発見もあった。幼馴染とはいえ、何もかも知っているわけではなかったのかという冷徹な学びもあった。

 ライブ直前にリボンの位置を直していた朱里。日頃からワンピースばかり着ている朱里。あんちゃんを見るとすぐにぴったり寄り添っていく朱里。それはもしかしたら海里を振り向かせたい一心であったかもしれない、と思えばさすがに三人は呆れる他なかったが、でもそれを口にするにはあまりにも朱里の様子は悲嘆に満ちていた。絶望に満ちていた。

 しかしどうして兄の恋人になれると思ったのか、頭がおかしいのではないか、と喉元まで出かかっているが、それにはあまりにも朱里の様子は悲恋のヒロインさながらで、三人は誰が言い出すか顔を見合わせたものの、ついに誰も口に出せる猛者はいないまま無言裡に常総線に乗り換えた。見慣れた田んぼの風景を眺めていると下妻駅が近づいてくる。それでも朱里は泣き止まなかった。海里から貰ったNeedled24/7のTシャツの前面は濡れそぼって、ぴったりと胸に張り付いてしまっている。逆十字のペンダントを時折震える手で握りしめるのが、さらに悲壮感を誘った。乗客があまりいなかったのは幸運だった。時折大地がタオルで涙をを拭いてやろうにも、朱里は相変わらず真面目な表情で涙を零すばかり。本当に珍しいもとい、変な泣き方だと大地は妙に感心さえ覚えていた。

 三人は特に言葉は交わさなかったが、自然な流れで朱里を一人にできなかったので家まで送った。

 がらり、と玄関を開けて「朱里のおっかさん、ただいまー!」と大地が怒鳴った。

 「おかえりー」すぐに朱里の母親が出てくる。泣いている朱里を見るなり、にわかに顔をこわばらせ「シェリーちゃんどうしたんだ? おめ、まさか、また朱里に口吸い……!」そう言いかけた瞬間、

 「してね! してね!」慌てて大地は叫んだ。

 さすがにそれは濡れ衣であるので、慌てて大河も「ほんとだ! 信じてくろ! 大地はなんもしてね!」と応戦した。

 「じゃあ何で泣いてんで? シェリーちゃん何があったんで? 痛いのが? 苦しいのが? なんなんだ?」

 母親と言えども朱里の泣き顔にはほとんど接したことはなかったらしい。明らかに母親は動揺していた。

 三人は顔を見合わせる。誰が真実を告げるのか、目くばせし合って——ルアンが腹を決めた。

 「あんちゃんにあまっごいだがら、悲しくなっちまったんだ。」

 再び朱里の目から大粒の涙が零れ落ちる。

 それによって母親はにわかには信じがたい事態を信じざるを得なくなった。朱里が小さい頃から海里のことを慕っていたのはわかっていたが、それがなんと恋愛感情だったとは驚きである。否、驚きではないはずだ。朱里は自ら好んで女の子の恰好をしているのだから、女の子の心を持っていてもなんら不思議ではない。そして一番朱里の面倒をみてやり、世話をしてやっていたのは海里である。母親は頭がぐらぐらと揺らぐのを感じたが、「馬鹿でねえべか」と喉元まで出かかった至極当然のことを告げるには朱里の様子はあまりにも悲しみに満ちていた。

 しばらく経って、「……そりゃ、あんちゃんが悪い。」母親のようやく絞り出した一言に、三人はさすがに呆気にとられた。

 「あとで、あんちゃんにはきづーく、きづーく、言っておくがんな。よしよし。可哀そうだった可哀そうだった。」肉親含め全員が朱里の泣き顔に敗北したことを三人は確信する。「でもな、おめには大地がいっかんな。」

 予想外の射撃に大地は目を見開く。

 「海里もいがっぺけんど(注:いいかもしれないけれど)、大地がめおど(注:夫婦)になるっちゅうんだから大地でいがっぺよ。大地もほれ、なかなか可愛い顔してっど? 優しいし、ほれ、こうしておめのごど、家までちゃあんと送ってくれんだ、いいむごさん(注:婿さん)になんべ。な、ほれ、まあ、いづまでもそんなどご突っ立ってねえで上がって休め休め。」

 促され、朱里は泣きながら自分の部屋へと向かっていく。三人はその後姿を見送り朱里の家を出た。

 「おめ、マジで朱里とめおどになんのが?」ルアンがこっそり尋ねた。

 「そういうごどになってんだ。」大地は何でもなさそうに答える。

 「だって、朱里は男だべな。おめ、朱里相手におっ立つんか?」

「おそらぐ」

ルアンの口の端が痙攣した。

 「その男にチッスしておっ母に見られたんだからしゃあねべ(注:仕方がないだろう)。」大河が冷ややかな眼差しを大地に向けながらそう説明する。

 ルアンはすぐさま同情の余地はないとばかりにため息をついて、その話題は立ち消えになった。

 朱里の傷心の程度はともかくとして、三人の願いはこの事件によって、海里がきっかけで始まったバンド活動を辞めるだとか、(おそらく)海里に褒めてほしい一心で始めた作曲を辞めるだとか、はたまた海里に教わったギターを辞めるだとかを言い出さないようにと願うばかりとなった。もしそんなことを言い出されれば、自分たちのバンドは、終わる。完全に、終わる。その一点のみの理由で、三人は今更ながら海里に憤りとも呆れとも、はたまた励ましとも慰めともつかぬ複雑な心情で胸を騒がせていたのである。

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