『名もなき小鳥とハシバミの木』
その百と一回目の生において、ゼゾッラであった魂は薄い殻の中で目覚めました。
くちばしで黒い天蓋を突き破り、濡れた体を卵の殻から引きづり出しました。
それから、魂はようやく、予告もなく、自分を襲った災難と絶望に浸ることが出来ました。
あと一歩だったのに、あと一日待てば、千年の想いが報われる筈だったのに……。
いったい、私の身に何が起こったと言うのか!!
ハンナが茶にこぼした毒は強く、ゼゾッラは死の瞬間の出来事を憶えていませんでした。
ファラオの魂を宿した王子と、後に残した家族のことが死ぬほど気になりました。
もはや、いつものように、人間に生まれ変わるまで死に続けて、ゆりかごからやり直している余裕はありません。
すぐさま、王国に引き返し、何が起きたのかを確かめなければ!
ゼゾッラの生まれ変わりであるひな鳥は、他の兄弟を押しのけ、親鳥が持って来た芋虫やバッタや、人間のあまり好まない生き物を貪欲に丸のみしました。
そうして、たっぷり栄養をとり、ひな鳥が使える限りの魔法の力を羽根の隅々まで伸ばし、どんどん体を大きくしていきました。
卵の殻を破ってからわずか三日後、あっと言う間に成鳥になった白い鳩は、驚き戸惑っている親と兄弟たちを残して、巣を飛び立ちました。
それからの旅は、魂が今まで潜り抜けてきた転生の旅路に劣らず、辛く長いものでした。
小鳥に生まれ変わったせいで、魔法の呪文が使えなくなったゼゾッラは、羽根と知恵の力だけで、地球を半周することになったのです。
鷹の爪を避けるために、暗い森の枝の間を恐る恐る飛んだこともありました。
羽根を休めた農家の屋根裏で、残酷にひらめく猫の前足をかわしたことは一度や二度ではありません。
ときには旅人のように大陸を渡る気流の力を借り、ときには大海原を横切る船の舳先に運ばれて、ついに鳩はゼゾッラの家族がいる王国へ辿り着きました。
戻ってきた時には、すでに四年の時が過ぎていました。
恐ろしく長く、何世紀もの時間に匹敵する四年でした。
巣を旅立った時、真っ白だった鳩の体は汚れ、土と埃の色に染まっていました。
疲れた翼に鞭打って、鳩は懐かしい我が家を目指しました。
さて、城下町にいたる道の途中に、死者の眠る墓地がありました。
墓地の上を飛ぶ時に、鳩は一組の墓石を見つけ、雷に打たれたように舞い降りました。
墓石の一つは鳩の前世であったゼゾッラの、そしてもう一つは……絹商人のものでした。
墓銘によれば、ゼゾッラが亡くなったわずか二年後に、夫も妻の後を追ったようです。
墓石の上に止まり、その上に刻まれた商人の名を読むうちに、悲しみの矢が鳩の胸を貫きました。
商人の眠る土の上に、一滴の涙を残して、鳩は再び飛び立ちました。
涙は地に落ちて黒い染みとなり、その染みの中から、青い芽が顔を出しました。
記憶している道筋をたどりながら、鳩は飛び続けました。
街の様子は四年の間、ほとんど変わっておらず、ほどなく翼は鳩をゼゾッラの屋敷に運びました。
お屋敷の前に、絹商人の紋章をつけた大きな馬車が、止まっていました。
馬車の中から、現れた女を見た瞬間、鳩は甲高い叫びを上げました。
『ハンナ!!!』
高価な衣装を纏い、頭に白い筋が混じっていたもの、そこにいるのは確かに、使用人のハンナでした。
だけど、ハンナはなんと変わり果てていたことでしょう。
ふっくらとした頬はナイフで削られたようにこけ、艶やかだった皮膚は土気色に染まっていました。
ハンナが顔を上げたとき、鳩は彼女の目が、沼の水のようにどろりと濁っていることに気づきました。
母親の後に続いて二人の娘が下りてきましたが、素直で可愛いらしかったころの面影はありませんでした。
お金がもたらす堕落と傲慢が、ぶ厚い脂肪のように、ふたりの顔を覆っていたのです。
その時、屋敷の扉が開き、汚らしいぼろ布の塊が、転がり落ちるように階段から下りてきました。
老婆のように灰色の髪をしたその人は、ハンナの前で、深々と頭を下げながら言いました。
「おかえりなさいませ、お義母さま……」
「ただ今、娘や。私が頼んだ仕事はちゃんと終わったんだろうね」
ゼゾッラだった鳩は、驚きのあまり、もう少しで屋根から滑り落ちそうになりました。
灰と油汚れの隙間から見えたのは、紛れもなく、彼女の娘の顔でした。
ゼゾッラの娘は、猫を前にしたネズミのように震えながら、義母の問いに答えました。
「家のお掃除は終わりました。洗濯物も、でもお食事の用意だけはまだ終わらなくて……」
「はあ? あたしたちが帰ってくるまで、一時間もあったじゃないか。さては、お前、あたしたちを飢え死にさせて、財産を独り占めしようって魂胆かい?」
「そんな、とんでもない、本当に時間がなかったのです……」娘の青い目に涙が盛り上がりました。
「どうだかわかったもんじゃないよ。それに、もしわざとじゃなかったら、それはお前が愚図だって証拠さ」
灰にまみれた少女は何ひとつ言い返さず、ただ唇をかみ締め、うつむくばかりでした。
ハンナとその不器量な娘たちは、少女の前を通って、ゆうゆうと階段を上っていきました。
と、ハンナが屋敷の扉の前で、足を止めて少女に聞きました。
「そういえば、今日がなんの日か、覚えているかい?」
「王子さまのために、舞踏会が開かれる日です!」
「そうさ。今夜は、みんなに休みをやろうかと思っているんだよ。街を上げてのお祭りで、お店を開けてても、商売にならないからね」
汚れた顔の中でも、なお美しい少女の目が光りました。
その表情を見れば、彼女が何を望んでいるか、火を見るよりも明らかでした。
だが、ハンナは毒のたっぷり篭った笑いを浮かべると、
「だから、今夜はお前に、他の使用人の分まで働いてもらうよ」
まだ喜びの表情を浮かべたまま、少女は無惨にも凍りつきました。
それを見たハンナが、山羊の角のようにねじけた笑い声を上げました。
「お城の舞踏会に連れて行ってもらえると思ったのかい! 馬鹿な子だね。いつも言っているじゃない。お前みたいな、みっともない娘を人様の前に出せるものか。この醜い、醜い、灰被り(シンデレラ)め!」
言葉の鞭でじっくり少女を打ち据えた後に、ハンナは悠然と屋敷の扉をくぐりました。
ふたりの娘たちも、侮蔑に満ちた笑い声を少女の背中になすりつけながら、母の後に続きました。
少女は冷たい路地に立ったまま、石のように動きませんでした。
ぎゅっとぼろ布を抱き寄せたその背中が、さらに小さくなったように見えました。
鳩の中にいたゼゾッラは、この様子を見て、怒りのあまり羽から火が吹き出すかと思いました。
今や、彼女にも誰がゼゾッラを殺し、絹商人の妻の座を奪い取ったのか、はっきりとわかりました。
『おのれ、ハンナ!! 私を殺すだけでは飽き足らずに、娘まで!』
鳩はまるで猛禽になったような勢いで、屋根を蹴って飛び出しました。
たとえ小さくても、魔法を使えなくても、鳩には鳩の復讐の仕方があります。
目指すのは、かつてゼゾッラのものであった部屋の窓辺。
かすかに開いた窓の向こうに、ハンナが化粧台に向かっているのが見えました。
なんというチャンス! 復讐をものにするのは今しかありません。
『くちばしで、その汚らわしい目玉を抉り出してやる!』
鳩がまさに家の中に飛び込もうとしたその時、ハンナが顔を上げて言いました。
「ゼゾッラ!」
驚いた鳩は、空中で急停止して、窓さしの上に降りました。
一瞬、正体を見破られたかと思いました。
だが、ハンナは振り返ることなく、その目は鏡に映る自分の顔に見つめています。
「ゼゾッラ……」ハンナはもう一度言いました。「認めるわ。お前の勝ちよ、ゼゾッラ。あの人は、最後までお前を愛していたわ。そして、今はお前の側で眠っている。あの人を助けた私じゃなくて、あの人を殺そうとしたお前のっ!!」
喉から搾り出す言葉の一つ一つに、血が滲んでいました。
ハンナの目から涙がこぼれ落ちましたが、その唇は笑っているようにゆがんでいました。
「お前は死んでしまった。もうどうやっても復讐は出来ない。でも、あの子……お前にそっくりな娘がまだ残っているよ。あの人を亡くして、あたしの人生は台無しになってしまった。だからお返しに、お前の娘の人生を台無しにしてやるよ! 母親のお前がしたことを、娘が償うことになるのさ!」
ハンナは金属を擦りあうような甲高い声で笑ったかと思うと、わあっと泣き崩れました。
尖った両手の爪で、髪の毛と頭をめちゃくちゃに掻きむしりました。
生え際や首に残る傷跡から見る限り、ハンナは二年の間、毎日これを繰り返しているようでした。
太陽である夫と共に、ハンナは正気までも失ってしまったのです。
むせ返るほど濃厚な狂気の匂いに押され、鳩は逃げるように窓辺から飛び去りました。
怯え、取り乱した鳩は、唯一つの心のよりどころを求めて羽ばたき続けました。
色とりどりに花咲く屋根を越え、年経た傷だらけの城壁を越えて……。
探し求めていたその人はお城の中庭にいました。
柔らかだったリンゴの頬は日に焼けて引き締まり、たくましい体からしなやかな手足が伸びています。
幼かった王子は四年の間に、ますます古の王、アマシスに似てきました。
王子は石のベンチに座り、その形のいい指で薔薇の花をもてあそんでいました。
鳩はベンチの手すりに止まると、鳥族に伝わる愛の歌を王子に唄い聞かせました。
「おや、お前は鳩の癖に、雲雀のように美しく歌うのだね」
王子が微笑みかけると、西に傾きかけていた太陽が、明るさを取り戻したように感じられました。
鳩は石の上を跳ね回りながら、愛する人の掌に飛び乗りました。
近くから覗き見る王子は、年の割りに大人びた顔立ちをしており、その目元には深い悩みの影が刻み込まれていました。
「心から、僕を怖がらないのは、お前ぐらいのものだよ」王子は苦悩に満ちたため息をこぼしました。「お城にいる人間、皆が僕を恐れている。無理もないことだ。僕は狂っている。自分ではっきりそうと分かるほどに……四年前から、一人の女性の影が、僕の目蓋の裏を焼きついているんだ。以来、その人のことを除いて、何もまともに考えることができない。食べ物はぜんぶ灰の味がするし、春の日差しも僕には氷のようだ。あの人を愛している。だけど、いつまでこんな苦しみが続く? こんな思いをして生きていくぐらいなら、いっそのこと……」
王子は泣きませんでした。泣くには誇り高く、強すぎる人でした。
だが、小鳥にささやくその声には、塩辛く舌を刺す、悲しみの味がしました。
ロードピスだった魂は、王子の周りを跳ね回り、鳩の声で訴えかけました。
『王子さま、私はここにいます! 貴方に呪文をかけた女、貴方が探している女はここにいます!』
だが、魂の声も、人間の耳には小鳥のさえずりにしか聞こえません。
王子はただ悲しげに微笑みながら、鳩の翼をなでるばかりでした。
ついに、耐え切れなくなり、魂は王子を残して、その場から飛び去りました。
◆ ◆ ◆
冷たく冴えわたる月の下を、鳩は飛び続けました。
まだ魂に残っている魔法の力は、やがて来る未来の幻を、魂の目に映し出しました。
ゼゾッラの娘は灰と煤の中に埋もれたまま、若さも喜びも知らず、萎びていくでしょう。
少女を呪ったハンナは、自分の憎悪に心と内臓を食い荒らされ、苦悶と後悔の裡に死んでいきます。
残されたハンナの娘は、遺産を奪い合った挙句に、お互いの喉笛を食い破って亡くなります。
そして、王子は……。
ロードピスが愛し、ゼゾッラが全てと引き換えに手に入れようとした王子は、自分を縛る魔法から逃れようと、無謀な狩りや戦争に挑み、無残な最期を遂げることになるのです。
『これがわたしのやったこと……ミダス王は触れるもの全てを金に換えて餓死したが、私は手に触れたもの全てを苦い灰に変えて、愛した者たちを餓え死にさせようとしている!』
今このときになって初めて、魂は自分が歩いてきた旅路を振り返りました。
そして、背後に残してきた凍てついた足跡を見て、激しい罪の意識に苦しみました。
目に見える未来の映像の一つ一つが、鉄槌となって、魂の中にある花を打ち付けました。
花を覆っていた黒い氷の殻はひび割れ、砕け散りました。
だが、その中に入っていたのは、ロードピスの薔薇ではなく……一握りの塵だけでした。
ついに翼が限界にいたり、鳩は墜落するように地面に降り立ちました。
そこは、澄んだ水の流れる小川のほとりでした。
偉大なナイルとは比べ物にならない、慎ましいその流れの側で、鳩は舞い始めました。
腕の代わりに羽根を使い、つま先の変わりに爪で地面を踏みました。
千年前のロードピスの稲妻の舞とは比べ物になりませんでしたが、それでも鳩は自分の魂を込めて踊りました。
踊るうちに、月が天を横切って、小川の上にやってきました。
すると、水面に映っていた月が盛り上がって、白く輝く水の塔となり、塔はゆらいで小さな女神になりました。
鳩は踊るのをやめ、魂の声で語りかけました。
『お久しぶりです。イシス、私を覚えておりますか?』
『覚えておるとも』淡く光る女神は言いました。『あれから千年経ったが、未だにそなたを越える踊り手は現れておらぬ。またしても、あと一息というところで、しくじったようだな、薔薇よ』
『女神よ、お願いがあります。今一度、私にゼゾッラの姿と魔法をお与えください!』
鳩は息も絶え絶えに、女神に訴えかけました。
長旅と踊りの疲労、夜の空気が、鳩の体から熱と一緒に命を奪おうとしていました。
だが、女神は冷たく、突き放すような眼差しを鳩の中の魂に向けました。
『何を世迷言を言っておる。そなたには、私が与えた無限の時間があるではないか。なぜ、脱ぎ去った昔の衣を欲しがる。また、死んでやり直すのだな、ロードピス』
『ロードピスはもういません!』鳩は叫びました。『……ナイルで溺れ死んだあの娘はもういないのです。ロードピスの薔薇は、この魂の中で朽ちて塵になりました。ようやくそのことがわかりました。私はゼゾッラ、灰被り(シンデレラ)の母、ゼゾッラなのです!!』
砕け散った魂の花の欠片が、言葉の中で哀しく光っていました。
魂の叫びは闇の中を響き渡り、尾を引く木霊を残して消え去りました。
風に乗って再び静寂が、夜に満ちた時、鳩は地面に倒れ伏していました。
もう立つだけの力も、残されていなかったのです。
しかし心なしか、女神の鳩を見る目が、温かくなりました。
『そこまで言うのなら、その願い、聞き届けてやろう。だが、ここはエジプトの地から、遠く離れている。我が加護は本来の半分、真夜中までしかもたない。真夜中が過ぎた後、そなたは生まれ変わりの力を失い、人として記憶も失い、ただの小鳥となるのだ。それでも良いか?』
『覚悟の上です。真夜中までなら、十分間に合います』
『そして、魂よ。そなたは、私が与えた生まれ変わりの力を使って、ずいぶんと悪さをしてきたな。その罰も一緒に受けてもらおう。そなたはゼゾッラの顔と呪文を取り戻す。だが、娘に対して、母親と名乗ることを禁ずる。娘は母に救われても、そのことを知らず、ゼゾッラに感謝することもないであろう』
鳩は沈黙しました、生命の日が消えるその一秒前まで。
そして死の瀬戸際で、女神の言葉に答えました。
その答えとは……。
◆ ◆ ◆
灰被り(シンデレラ)と呼ばれたその娘は、たった一人で月を眺めていました。
周りにはやりかけた山のような仕事が、彼女を待っています。
しかし、シンデレラには指一本動かす気力もありませんでした。
このまま、何もせずに、継母が帰ってくれば、また酷く鞭打たれることになります。
そのことさえも、シンデレラにはどうでもよく感じられました。
感情や生きる力を奪う、青い悲しみが少女の胸の中にたまっていました。
「なぜ、こんなことになってしまったんだろう」幾度となく繰り返された疑問を、白い息と一緒に吐きだしました。
シンデレラの記憶にあるハンナは、あんな意地悪で残忍な女ではありませんでした。
滅多に手を触れてくれない母に変わって、髪を結ってくれたハンナ。
悪い夢を見て眠れない夜に、蜂蜜入りの甘い牛乳を温めてくれたハンナ。
悲しい時に歌を歌ってくれたハンナ、寂しい時に一緒に遊んでくれたハンナ。
血を分けたゼゾッラが死んだ時、少女は悲しんだが、ハンナが新しい母親になってくれるとわかって、その悲しみが癒された気がした。
事実、ハンナは理想的な母親でした。ほんの二年前までは……。
優しい父が死んだその日から、継母は豹変しました。
悪鬼のような顔で、少女を罵り、鞭打ち、奴隷のように酷使しました。
少女を本名ではなく、灰被り(シンデレラ)と呼ぶようになりました。
仲が良かった二人の姉まで、母親の毒にあてられたように変わってしまいました。
それでも、シンデレラは信じていました。
今の継母は悪い病気にかかっているだけなのだと。
何時か優しいハンナが戻ってくると思って、我慢してきました。
でも今日は、あの門前での仕打ちは、とても辛抱の出来るものではありませんでした。
開けた窓の向こうに、白く輝くお城が見えます。
今夜、あそこで王子さまの誕生日を祝う宴が開かれています。
盗み聞いた姉たちの話によれば、王子さまのお嫁を探すための舞踏会があるとか。
別に、自分が花嫁に選ばれるとは思うほど、自惚れていたわけではありません。
ですが、このまま、華やかな世界とは無縁の人生を送るのかと思うと……。
少女は胸の中にある深い海に溺れてしまいそうになるのでした。
その時、屋敷の呼び鈴を鳴らす音がしました。
「こんな時間に、誰だろう。いつもなら、もうお店は閉まってるのに……」
子供の頃、父親が戸締りをしつけるために、教えた恐ろしいことが頭を過りました。
泥棒や悪党を警戒しながら、シンデレラは覗き窓を使って、外を見ました。
そこには、優雅な夜を人の形に切り抜いたような、貴婦人が立っていました。
その人はにっこりと笑って、シンデレラに言いました。
『開けておくれ、可愛いお嬢さん。貴女に会いに来たのよ』
貴婦人は少女の名前を呼びました。
灰被りではなく、シンデレラ自身忘れかけている、彼女の本当の名前で。
気付けば、開けた記憶もないのに、扉は外に向かって開かれていました。
月明かりの中を、貴婦人は滑るように家の中に入ってきました。
その人の着ている黒いドレスは光に当たると、孔雀の羽根のように色を変え、帽子には黒玉のカラスの羽根が差してあり、宝石の形をした星が散らしてありました。
その立派な装いを見た、シンデレラは自分のみすぼらしい格好が急に恥ずかしくなり、汚れた手をもっと汚れたスカートで隠しました。
泣きそうな顔で俯く少女に、貴婦人が綿のように柔らかい声で話しかけました。
『さあ、お嬢さん、そろそろ時間よ。早く支度をしなくちゃ』
「あの、時間って、何のことですが、それから貴女はどなたですか……」
『もちろん、舞踏会の時間よ』自分の名前については答えずに言いました。
「舞踏会……い、いけません。とても、無理です! だって……」
「こんなに仕事が残っている」、そう言おうと顔を上げた少女は、途中で言葉を失いました。
城壁のように彼女を囲んでいた仕事が、ひとつ残らず片付いていたからです。
部屋は埃一つ無く磨き上げられ、商品は完璧に陳列され、非の打ちどころがありません。
正体不明の存在に出会った時に感じる恐怖が、ぴりぴりと体を痺れさせました。
シンデレラは震える声で言いました。
「で、でも服が、こんなみっともない格好じゃ、王子さまの前に出られない」
『あら?』と貴婦人が笑いました。『何を言っているのかしら、鏡を見てごらんなさい』
シンデレラの肩を掴み、店の中に置いてある姿見の方に向けさせました。
今度は恐怖の代わりに、喜ばしい驚きが、シンデレラの胸を貫きました。
鏡に映っているのは、あらゆる女の子の夢の結晶でした。
純白のドレスを身につけたその子は、まるで処女雪に反射した月の光のよう。
ドレスの裾から覗く手足は、店に置いてあるどの絹も及ばないほど白く滑らかで、皮膚の下からぼんやりと光を放っているようでした。
シンデレラが信じられない思いで、自分の手を見ると、それは確かに鏡に映っているあの少女の手でした。
指には洗濯や皿洗いで出来たあかぎれも、油汚れもなく、ほんのりと甘い薔薇の香水の匂いがしました。
長い間、一人で苦しんできた少女は、目の前の光景が信じられませんでした。
こんな幸せが、自分の人生に起こるわけがありません。
きっと何か落とし穴があるはずです。
「い、今から、行っても間に合わないわ。さっき、夜の十一時の鐘があったから、もうすぐ舞踏会が終わるもの」
『足の速い馬車があればいいのよね。さあ、外に行って見てごらんなさい』
不思議な貴婦人に促されるままに、シンデレラは外に出ました。
そして、そこにあるものに、三度驚かされることになりました。
家の前に止まっていたのは、小さな屋敷ほどもある黄金の馬車でした。
見た目はまるでかぼちゃのようで、大きな車輪にはルビーが散りばめられています。
この馬車を引くのは、竜と見紛うほど、大きく誇り高く美しい白馬たち。
御者席では、鼠のような顔をした召使いたちが、少女を待っています。
『ああ、一番大事なものを忘れるところだったわ。舞踏会へ行くに、靴がなくちゃ、踊れないわよね』
呆然と立ち尽くす少女に、貴婦人が胸に抱いていたものを渡しました。
処女雪のドレスや黄金の馬車ですら、色褪せるほどの美がそこにありました。
それはダイアモンドよりも美しい、ガラスの靴でした。
その靴は空気のように透明でしたが、中には生きた星屑を閉じ込めてありました。
魚のように泳ぐ光のしずくは、夜の闇を月よりも明るく優しく照らし出しました。
何千という感謝の言葉が、少女の頭の中に浮かんでは消えました。
それらが口から飛び出すよりも先に、胸の奥にたまっていた想いがあふれ出しました。
シンデレラは、ガラスの靴を抱いたまま、貴婦人の胸の中に飛び込みました。
その冷たい頬に、キスをあめあられと降らしました。
「ありがとう! ありがとう、魔法使いのおばさま、ほんとに……」
『いいのよ。いいのよ。でも、気をつけなさい。真夜中にはかならず、家に戻るのよ。そうしないと、私が上げた服も馬車もすべて消えてしまうから』
喜びで喉が詰まっていた少女は、ただうなずくことでしか出来ませんでした。
貴婦人はどこか強張った笑顔を、シンデレラに向けていました。
絹の手袋に包まれたその両手は、少女の体を触れることを、迷っているみたいに空中をさまっていました。
「……初めて、貴女を見た時、お母さまに似ていると思った」しみじみと貴婦人の顔を見ながら、少女が言いました。「でも、あらためて見ると、ぜんぜん似ていないわね。お母さまは美しいけど、冷たい人だった。貴女は綺麗だけど、とても優しいわ。お母さまの髪は冬の曇り空、でも貴女の髪は春の金の朝やけだわ」
魔法使いの婦人は黙って、シンデレラの体を強く抱きしめました。
その口元は笑っていましたが、目は涙のように光っていました。
◆ ◆ ◆
両手で白い宝石をそっと差し出すように、ゼゾッラは娘を送り出しました。
シンデレラを乗せた黄金の馬車が姿を消すと、力を使い果たした魔法使いは、再び目に見えない霊の姿に戻りました。
ゼゾッラは透明な流れ星のように、家々の壁を通り抜け、屋根の上の猫を驚かせながら、馬車のあとを追い掛けました。
黄金の馬車は早すぎた太陽の馬車のように、街中を照らしながら、お城を目指しました。
お城の門を守ってた衛兵たちは、見慣れぬ巨大な馬車の行く手を遮ろうとしました。
だが、御者台に座っていた魔物の視線を浴びると、自ら門を開き、シンデレラたちを招き入れました。
ゼゾッラの霊は馬車に続いて、お城の中に入りました。
大広間に続く階段に立つと、石やレンガを見通すその目で、中の様子を眺めました。
宴はとうに佳境を越え、料理はすべて胃袋に収まり、踊るペアはわずか、疲れた賓客たちは冷えた酒をすすって、体を休めていました。
国王と王妃は、並んで座りながら、愛する王子の様子を盗み見ていました。
今宵、集めた美女の中に、息子の病んだ心を癒す相手がいないかと期待していたのです。
だが、王子は着飾った乙女たちには目も向けずに、手の中の短剣をいじっていました。
何か大事なことを忘れているような気がしてなりませんでした。
あれは小さなもの、手袋に似て手袋ではなく、靴下にいちばん近く、そうです、靴です。
だが、なぜ靴のことがこんなにも気になるのか……。
国王と王妃は顔を見合わせ、ため息をつきました。
国王らの失望は伝染病のように、廷臣らと賓客の間にも広がりました。
火の消えかけた暖炉のように、物憂い熱気が、舞踏会の席を支配していました。
シンデレラは、その炉の中に放り込まれた新しい火種でした。
真っ白なドレスを着た少女が大広間の床を踏んだ瞬間、炎と燃え上がる視線が彼女一人に集中したのです。
膝の上にあった短剣が石のタイルに落ちる音を聞いて、初めて王子は自分が立ちあがったことに気が付きました。
まるで申し合わせたように、シンデレラと王子は歩み寄りました。
無言のまま、大広間の中央で、手に手をとり、そしてステップを踏んだ瞬間……。
世界が二人を中心に回り始めました。
その時、シンデレラと王子が踊ったダンスのことを言い表す言葉はありません。
千もの詩人たちが、無駄な努力の果てに、絶望して降参しました。
だから、あの時、二人の周りで起きていたことを説明しましょう。
大広間にいた全ての人間が沈黙しました。
国王も王妃も、大臣も将軍も、貴族も平民も、誰一人例外なく。
ハンナは気絶しそうなほど青ざめ、彼女の娘たちは惚けた顔で立ち尽くしていました。
音楽は鳴っていたかどうかは……わかりません。
演奏はあったかもしれません。なかったのかもしれません。
どっちにしろ、それは大した問題ではありませんでした。
目の前で踊る二人こそ、この上ない、最高の音楽だったのですから。
その場にいた人々は同じような幻を見た、と言います。
ガラスと銀で飾られた大広間は、いつの間にか棕櫚の葉がそよぐエジプトの大地になり、壁があるはずのところに巨大なピラミッドと若かったスフィンクスが見えました。
シンデレラと王子の姿はかすみ、代わりに、薔薇の顔と麦色の髪を持った乙女と黒豹のように精悍な青年王がそこにいました。
だが、空気に混ざっていたナイルの水は臭いは何時しか消え、人々は自分たちがお城の大広間に戻っていることに気付きました。
ガラスの靴が星屑を散らしてステップを踏むたびに、王子を縛っていた魔女の呪いが一本ずつ弾け飛びました。
そしてついに、最後にして最大の呪いが、その場にいた人々の目に金色の爆発の残像を刻み、耳に断末魔の幻聴を残して、消え去りました。
もはや、そこにアマシスはなく、ロードピスもなく、お互いの名も知らずに出会った、一人の少年と少女が残されました。
太陽が東から昇るように自然に、王子は少女を抱き寄せました。
目は目を見つめ、指は指に絡み、吐息は混ざりあい、そして唇は……。
しかし、その時、無情に広間の大時計が夢の終わりを知らせました。
運命の時、真夜中が近づいたのです。
シンデレラの頭の中に、親切な魔法使いが残してくれた注意が蘇りました。
『真夜中にはかならず、家に戻るのよ。そうしないと……』
シンデレラは、優しく王子の腕から、体をもぎ放しました。
「ごめんなさい。私、もういかないと……」
「待ってくれ! せめて、君の名前だけでも教えてくれ!」
「お許しください。お願いです。どうかお許しをください」
王子は逃げて行く少女の後を追いました。
大魔法使いのかけた呪いは、全て解かれました。
しかし、ゼゾッラの娘が、王子に新しい魔法をかけたのです。
呪文も、妙薬も必要とせず、しかもそのいずれよりも強い、この世界で最も古い魔法を。
王子は少女の手を掴みとろうとしました。
しかし、息が届くほど近くにいるはずなのに、王子の指はことごとく空を切りました。
「誰か、誰か、その子を止めてくれ」
王子は近くにいた兵士たちに命じました。
兵士らはシンデレラの行く手を塞ごうとしました。
しかし、まるで透明な手に押しのけられたみたいに、近づくことも出来ませんでした。
シンデレラは走りました。
恐怖に震え、体を真っ二つに引き裂かれたような痛みに泣き叫びながら。
そして、知らぬうちに、外の階段で待つ、ゼゾッラの霊のもとに向かっていたのです。
次の瞬間、娘の肉体が母の霊と重なりました。
少女は懐かしい母の香りを嗅ぎ、頬に優しい口づけを感じました。
顔を上げたシンデレラの目に、魂のごとく、月へ登っていく一羽の白い鳥が見えました。
動きを止めた拍子に、少女の足から、ガラスの靴が抜け落ちました。
◆ ◆ ◆
さあて、この後のお話は、大体貴方も知ってのとおりですよ。
夢のような少女は消えて、ガラスの靴だけが王子さまの手元に残りました。
王子さまは、ガラスの靴に会う小さな足を探して、国中にお触れを出しました。
ええ、あの時のお城の様子は見ものでしたよ。
何しろ、国中の女性が我も我もと、押しかけてきましたからね。
舞踏会に参加していた年頃の娘さんならともかく、子供が十人も生んだおっかさんから、曾孫までいそうなお婆さんまで。
ガラスの靴は、性格の悪い美食家みたいに、女の足を呑みこんじゃ吐き出しましたね。
こんな不味い足に履かれてたまるか! とでも言いたげにね。
ここだけの話、王子さまの花嫁を目指して、魔女も何人かやってきたそうですよ。
彼女らは魔法を使ってずるをしたんですが、ガラスの靴の魔法は絶対でした。
魔女たちの呪文は、要塞の壁に投げつけたパンくずみたいに跳ね返されたんですって。
それっきり、魔女たちは二度とやってきませんでした。
ゼゾッラはもうこの世にいませんでしたが、大魔法使いの名前はまだ生きていたのです。
ハンナは……。
シンデレラの狂った継母は、魔女も思いつかないような恐ろしいことしました。
彼女は靴のサイズに合わせて、二人の娘の足を(姉は爪先を、妹はかかとを)切り落としました。
当然、ガラスの靴にそんなずるは通じるはずもありません。
靴は姉妹の足を呑みこんだ瞬間、血が出るまで締め付けて、吐き出したんです。
ああ、自業自得とは言え、あの時のことを思い出すたびに腿の筋肉がひきつるわ。
おや、私の松葉つえが気になるのかしら?
それとも、靴に隠されたこの足が気になるのかしら?
お見せしましょうか、あまり食事時に見るようなものじゃないけど。
ふふふ、貴女、気丈な方ね。
顔いろはちょっと青いけど、悲鳴一つ上げなかったわね。
でも、これでわかったでしょう、私は姉の方だったのですよ。
でもひとつ、私たちの母親について弁明しておきましょうか。
ハンナは噂話に言われるように、欲にかられて、娘たちの足を切り落としたんじゃないですよ。
あの夜、母さんは舞踏会に現れたシンデレラを見て、ゼゾッラが生き返ったと思ったのよ。
そして、お父さまが死んだ時の記憶がよみがえって……。
王子さまを魔女から守ろうとしたんだって、母さんは言っていたわね。
私たちが、血と涙の滴を残してお城を立ち去ったあと、王子さまがあの子を見つけたわ。
もう街にいる女の人で、ガラスの靴を試していなかったのはあの子だけだったのよ。
あの子は嫌がったわ。
本当の自分を知られるぐらいなら、死んだ方がましだって思ってたぐらいよ。
でも、ことわざにもあるでしょ、王子の愛と運命を拒める人はいないって。
残った私たちは、お義父さまの眠っている墓場へ行ったわ。
恥ずかしさに耐えきれなくって、自分で命を断とうとしたの。
そこへ、あの鳥がやってきた、ゼゾッラの魂の名残を留めた鳩が。
鳩は私たちに、貴女が聞いた、この物語を唄ってくれたわ。
私たちはロードピスの苦しみとゼゾッラの罪を知った。
自分たちの罪とシンデレラと呼ばれた妹の苦しみを知った。
そして王子さまのように、自分で自分を縛る呪いから、解き放たれたの。
今では、私たちはみんな幸せよ。
王子さまじゃないけど、私と妹には、自分にぴったりの愛する旦那さまがいるわ。
私たちの子供たちは、あの子の王子さまやお姫さまたちと仲良くやっているわ。
母さんも……憎しみの悪い魔法から自由になって、義父さんを愛する心だけがのこった。
今じゃすっかり可愛いお婆ちゃんよ、意地悪な継母の面影なんてどこにもありゃしない。
うん、なぜ、貴女にこんな大事なお話をしたかって?
それは、貴女の目の中に、ゼゾッラや昔の母さんに似た光が見えたからかもしれない。
もし、そうなら、街外れにある墓地に行きなさい。
そこには、ゼゾッラとその夫の墓から生えた、一本のハシバミの木があるわ。
貴女の心に凍った棘だらけの花があれば、木の枝に宿った白い鳩の幻がお話しを歌ってくれるわ。
恋のために千年を生き、千年の間苦しみ、
ついに魂を縛る鎖をほどいて、大いなる愛を手に入れた、
シンデレラの魔法使いの恋の物語を……。
Fin