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6:穴の向こう側

相原真尋には、昔から妙な癖がある。


「肉まん二つください」


「お二つですね」


「はい」


コンビニを出て三分後。


「…………」


右手を見る。肉まん。

左手を見る。肉まん。


「なんで?」


高校二年、十七歳。

健康。

成績中の上。

友達そこそこ。

彼女なし。

食欲旺盛。


ただし肉まんを二個食べるほどではない。


「またやった」


隣を歩いていた幼なじみの小野寺杏奈が呆れた。


「何が」


「二個買い」


「成長期だから」


「先週アイス二本買って一本溶かした人が?」


「あれは未来の俺への投資」


「未来のお前、液体になってたじゃん」


「投資にはリスクがある」


「高校生が覚えたての経済用語使うな」


真尋は肉まんを一つ差し出した。


「食う?」


「いいの?」


「百六十円」


「金取るの!?」


「世の中そんな甘くない」


「肉まんは甘くないしね」


「うまいこと言った顔すんな」


杏奈が笑いながら受け取る。

真尋も笑った。


二人並んで肉まんを食べる。

すると、不思議と落ち着いた。


「……これだわ」


「何?」


「俺、杏奈に肉まん奢るために二個買ったんだ」


「百六十円請求したよね?」


「記憶にございません」


「政治家?」


そう、昔からこうだった。


プリンを買えば二個。

ジュースを買えば二本。

コンビニで箸を聞かれると、


『二膳ください』


と答えてしまう。


 一人で食べるのに。


しかも、二つ目を買ったこと自体を、あとから思い出せないことが多かった。

手にした瞬間だけは、それが当たり前のように感じるのに、店を出ると理由が消えている。


母には、


「食い意地が二人前なのよ」


と言われていた。


その言い方には、冗談にしては妙な間があった。

真尋は深く考えなかった。


だから真尋はただの癖だと思っていた。


理由なんてない。

十七年間、ずっと、きっと。



「なあ」


ある日の夕食。


「俺って本当に一人っ子?」


母の箸が止まった。

いつもならすぐ返ってくるはずの言葉が、その日は一拍遅れた。


「何よ急に」


「いや」


真尋は唐揚げを咀嚼しながら首を傾げた。


「杏奈に『お前の一人っ子感のなさ異常』って言われた」


「どういう意味?」


「知らん。俺も一人っ子感って何だと思った」


父が新聞から顔を上げる。


「兄弟がいそうってことか?」


「たぶん」


「いたらどうする?」


「兄ならゲーム買わせる」


「最低」


「姉なら友達紹介してもらう」


「最低」


「妹なら?」


母が聞く。


「お小遣いあげる」


「急に優しい」


「兄という生物は妹に甘いと漫画で学んだ」


「漫画を人生の教科書にしないで」


いつもの食卓。

いつもの会話。

いつもの母。


それなのに真尋は、さっき母の箸が止まったことだけが妙に気になった。


「で?」


「何?」


「俺、一人っ子だよね」


母は味噌汁を一口飲んだ。


「そうよ」


笑った。


「真尋は一人っ子」


「だよな」


母はそう答えながら、真尋の皿に唐揚げを一つ足した。

まるで、それ以上聞かせないために食べ物で口を塞ぐような仕草だった。


それで話は終わった……はずだった。



その夜、真尋は夢を見た。


小さな男の子がいる。

顔は見えない。

けれど、手を伸ばせば届きそうな距離にいた。


二人で公園を走っている。


『待てって!』


『やーだよ!』


『それ俺の!』


『早い者勝ち!』


二つの笑い声。

片方は自分の声だと分かった。


もう片方は知らないはずなのに、なぜか懐かしかった。


目が覚めた。


「…………」


天井を見つめる。


「誰だよ」


胸が痛かった。


怖い夢ではなかった。

むしろ楽しかった。


なのにどうしようもなく寂しい。


胸の真ん中に、大きな穴が空いている。


昔からときどきあった。


誕生日。

運動会。

クリスマス。


楽しい日の夜ほど、なぜか寂しくなる。


何かが足りない。

でも、何が足りないのか分からない。


夢の中で聞いた、もう一人の笑い声だけが耳に残っていた。


「……腹減った」


冷蔵庫を開ける。

プリンが二個あった。


一つ取る。

少し迷う。

もう一つも取った。


冷蔵庫の明かりの中で、二つのプリンが並んでいる。


その光景に、理由のない安心を覚えた。


「だから何で二個なんだよ」



数日後、事件は起きた。


「真尋ー!」


母の声が二階まで響いた。


「何ー!」


「物置片づけるから手伝って!」


「嫌ー!」


「お小遣い!」


「今行く!」


資本主義は偉大だ。


相原家の物置は、過去という名のゴミで満ちていた。


「何これ」


「お父さんのゴルフクラブ」


「使ってんの?」


「十五年見てない」


「捨てろよ」


「本人は『いつか使う』って」


「その『いつか』もう成人してるぞ」


段ボール。

古い家電。

アルバム。

子どもの頃のおもちゃ。


真尋は箱を一つ動かすたび、見覚えのない玩具や服が出てくることに気づいた。

自分の記憶にないものばかりなのに、なぜか胸の奥がざわついた。


「あ」


奥から、小さな箱が出てきた。

青い箱。

角は擦れていて、何度も開け閉めされた跡がある。


蓋には、幼い字で書いてある。


『まひろ はると』


「…………」


真尋の手が止まった。

自分の名前の隣に、知らない名前がある。


「母さん」


返事がない。


「何これ」


振り返る。

母が立っていた。

顔色が変わっていた。


「母さん?」


「それ……」


「はるとって誰?」


母の唇が動く。

声が出ない。


その沈黙だけで真尋は分かってしまった。


これは聞いてはいけない質問だった。



箱を開けた。


ミニカー二台。

色違いのコップ二つ。

子ども用の箸二膳。


折り紙。

落書き。

どれも一つではなく、必ず二つずつ残されていた。


そして写真。


「…………」


男の子が二人いた。


同じ顔。

同じ背丈。

同じ笑顔。


一人は自分だ。

幼い自分。

そして、その隣にもう一人。


「誰」


声が掠れた。

母が座り込んだ。


「……陽翔」


「はると」


「あなたの、お兄ちゃん」


「兄?」


「双子の」


意味が分からなかった。


「俺、一人っ子じゃん」


母が泣いた。

初めて見る顔だった。


「一人っ子って言ったじゃん」


「……ごめん」


「何それ」


真尋は写真を見る。


二人。

確かに二人いる。


「いつ?」


「五歳」


「何が」


「陽翔が亡くなったの」


事故だった。

家族で出かけた先。


ほんの一瞬だった。


幼い真尋はすべてを理解できなかった。

何度も陽翔を探した。


『はるとは?』


『いつ帰ってくる?』


『なんでいないの?』


夜になるたび泣いた。

父も母も壊れかけた。


いつしか家族は、陽翔の話をしなくなった。


写真をしまった。

持ち物を隠した。

真尋も少しずつ口にしなくなった。


幼児期の記憶は薄れていき、やがて。


「……忘れた?」


真尋が聞く。

母は泣きながら頷いた。


「あなたが忘れたなら、そのほうが幸せだと思った」


「…………」


「でも、体は覚えていたのかもしれない」


母は、箱の中の二つずつの品を見つめた。


「プリンも、肉まんも……あなたが二つ買うたびに、陽翔の分を探してるみたいで」


真尋は息を止めた。


「だから、何も言えなかった。言ったら、全部戻ってきてしまいそうで」


「また思い出させるのが、怖かった?」


「ええ」


母の顔を見たら、責める言葉が出てこなかった。


十年以上、一人でこの箱を隠していた顔だった。



真尋は写真を自室へ持ってきた。


ベッドの上に座る。


「陽翔」


名前を呼ぶ。

知らない名前。


でも、胸が痛んだ。


「お前、俺の兄貴なの?」


返事はない。


「双子なら数分差だろ」


写真の中の陽翔は笑っている。


「兄貴面すんなよ」


涙が落ちた。

自分でも意味が分からなかった。

覚えていない。

顔も、声も、何をして遊んだかも。

好きだった食べ物も、喧嘩したことも。何も。


それなのに。


「……お前だったんだ」


二個買う。

二つ並べる。

一人でいると、何か足りない。


楽しい日の夜ほど寂しい。

理由のない空白。


「全部、お前がいた場所だったんだ」


真尋は胸を押さえた。

昔からそこにあった穴。

名前のなかった穴。


「大きく胸に空いた穴は、どうすればいいんだよ」


写真に聞いた。


「十年以上忘れてた奴に、今さら何すればいいんだよ」


当然、答えはない。


「……不親切だな、兄貴」


少し笑った。

涙は止まらなかった。



「おはよ」


翌朝、杏奈が真尋を見るなり眉をひそめた。


「顔やば」


「失礼だな」


「泣いた?」


「泣いてない」


「目、金魚みたい」


「泣きました」


「素直」


放課後に真尋は杏奈に話した。


肉まんを二つ買ってしまうことも、プリンを二つ選んでしまうことも、夢の中の笑い声も、箱の中にあった二つずつの品も、全部。


杏奈は途中で一度も口を挟まなかった。


「そっか」


話し終えるとそれだけ言った。


「何かもっとない?」


「例えば?」


「感動的な名言」


「急に求められても」


「友達だろ。俺の人生を救え」


「荷が重い」


杏奈はしばらく考える。


「じゃあさ」


「うん」


「覚えてないなら、これから知れば?」


「……は?」


「陽翔くんのこと」


真尋は黙った。


「お母さんとか、お父さんに聞いて。写真見て。何が好きだったとか」


「でも死んでる」


「うん」


「もう本人には聞けない」


「だから、残ってる人に聞く」


杏奈は自販機でジュースを買った。


「忘れたままよりいいんじゃない?」


缶を真尋へ差し出す。


「はい」


「何これ」


「奢り」


「一本?」


「普通一本だろ」


「…………」


「何その顔」


「いや」


真尋は笑った。


「一本でいいんだなって」



「陽翔って何が好きだった?」


夕食中に真尋が聞いた。

父と母が止まった。


「教えて」


母の目が潤んだ。


「……ハンバーグ」


「俺もじゃん」


「あなたより食べた」


「マジ?」


「五歳で二個」


「化け物じゃん」


父が笑った。


「足も速かったぞ」


「俺より?」


「陽翔のほうが速かった」


「腹立ってきた」


母が泣きながら笑った。


「あとね、虫が大好きだった」


「それは無理」


「カブトムシを布団に持ってきて」


「無理無理無理」


「あなた大泣き」


「兄として最低じゃん!」


初めてだった。

三人で陽翔の話をした。


亡くなった日の話ではなく、生きていた頃の話を。


ハンバーグ。

カブトムシ。

運動会。

兄弟喧嘩。

お風呂で水鉄砲。

プリン。


「プリン?」


「いつも二個買ってたのよ」


母が言う。


「あなたと陽翔に」


真尋は黙った。


肉まんも、アイスも、ジュースも。


自分が二つ買っていたものの多くは、かつて陽翔と分けていたものだった。忘れた記憶の代わりに、体だけが「二人分」を覚えていたのだ。


「……そっか」


胸が痛い。

でも、昨日までとは違った。


穴の向こう側に、少しずつ景色が見えてくる。



十七歳の誕生日、真尋はコンビニへ寄った。


「プリン二つください」


店員が袋へ入れる。

家に帰る。


一つは自分。もう一つは、写真の前。


「陽翔」


スプーンを持つ。


「お前の分」


写真の中の五歳児は笑っている。


「でも食わないなら俺が食うから」


母が台所から叫ぶ。


「供えて三分は待ちなさい!」


「長い!」


「三分くらい待てるでしょ!」


「プリン目の前にして!?」


父が笑っている。

母も笑っている。

真尋も笑った。


その笑い声の中に、もう一つくらい混じっていてもおかしくないような気がして、真尋は写真へ目を向けた。


当然、陽翔は笑ったままだ。


胸の穴は消えなかった。


むしろ、前よりはっきりした。

形が分かったから。

それは、陽翔の形をしていた。

忘れてしまった双子の兄。


五年間しか一緒にいられなかった人。


十二年ものあいだ、名前すら呼ばなかった人。

それでも身体のどこかでは、ずっと隣にいるはずの一人を探していた。


穴の正体を知ったら、不思議と少しだけ怖くなくなった。


穴は、何もない場所ではなかった。

そこには確かに、誰かがいた。


大きく胸に空いた穴は、どうすればいいのか。


まだ分からない。

たぶん、これからも完全には分からない。

埋めなくてもいいのかもしれない。


忘れていた十二年を取り戻すことはできない。

五歳の自分に戻って、もう一度陽翔の手を握ることもできない。


記憶の中から消えてしまった声を、思い出そうとして思い出せない夜だって、きっと来る。


それでも、これから知ることはできる。


覚えている人たちから。

残っている写真から。

箱の奥に眠っている落書きから。

自分の中に残った、理由の分からなかった癖から。


「よし」


三分経った。

真尋は写真の前のプリンへ手を伸ばす。


母が叫んだ。


「早い!」


「三分経った!」


「五分!」


「ルール変えんな!」


「陽翔に怒られるよ!」


真尋は写真を見る。


「お前、怒る?」


五歳の陽翔は笑っている。


「怒ってないな」


「都合よく解釈しない!」


「本人の意思を尊重してます!」


「写真でしょうが!」


父が吹き出した。

真尋も笑いながら蓋を開け、プリンを一口食べた。


「うま」


甘かった。

胸が少し痛かった。

たぶん、これから陽翔のことを知れば知るほど、痛むことも増える。


好きだったものを知るたび。

笑った話を聞くたび。

自分と似ていたところを見つけるたび。


どうしてここにいないのだろうと思う。

知らなかったころより、寂しくなる日だってあるのかもしれない。


それでもいい、と真尋は思った。


知らないまま空いている穴より、誰のために空いているのか知っている穴のほうが、ずっといい。


「なあ、陽翔」


写真へ向かって言う。


「次はハンバーグな」


返事はない。

真尋は少し考えてから付け足した。


「二個は食うなよ。俺のなくなるから」


母が笑った。


「陽翔のほうが食べるの早かったわよ」


「マジで?」


「あなた、よく取られて泣いてた」


「最悪じゃん、兄貴」


知らない陽翔が、また一人増えた。


プリンが好きな陽翔。

虫が好きな陽翔。

足が速い陽翔。

ハンバーグを二個食べる陽翔。

弟のものまで奪う陽翔。


そのたび、写真の中にしかいなかった少年が、少しずつ兄になっていく。


真尋はそれがたまらなく嬉しくて、同じくらい寂しかった。



登校途中、真尋はコンビニへ寄った。


杏奈は店の外でスマートフォンを眺めながら待っている。


飲み物を一本取る。

レジへ向かおうとして真尋は止まった。


棚を見る。

いつもなら、気づけばもう一本手に取っている。


どうして二本あるのか分からないまま買って、店を出てから首を傾げる。


けれど今日は真尋は自分の意思でもう一本を手に取った。


レジへ持っていく。


「二本ですね」


「はい」


店員が袋へ入れる。

外へ出る。


「遅い」


杏奈が顔を上げた。


「朝から買い物長すぎ」


「ほら」


真尋は一本を投げる。


「うわっ」


杏奈が慌てて受け取った。


「何?」


「奢り」


「珍し。明日雪?」


「百六十円」


「金取るの!?」


「世の中そんな甘くない」


「昨日の感動返して」


真尋は笑った。


歩き出す。

右手には、自分の一本。

もう一本は、杏奈の手の中。


胸には相変わらず穴がある。

十二年前からずっと、そこにある。


たぶん、一生なくならない。

けれど真尋は、初めてその穴を嫌いではないと思った。


そこが空いているから陽翔がいたことを知っていられる。


忘れてしまっても、思い出せなくても。

その人が自分の人生にいなかったことにはならない。


失ったものの形は、ときどき穴になって残る。

それは、何もない証拠ではなく、確かにそこに大切なものがあった証拠なのかもしれない。


「真尋、早く!」


「今行く!」


少し先で杏奈が振り返る。


真尋は走り出した。

その途中で、ふとあの夢の中の声を思い出した。


『待てって!』


『やーだよ!』


どちらが自分だったのかもう、分からない。

それでも真尋は笑った。


「……待てって」


小さく呟く。

返事はなかった。


春の朝の風だけが、制服の裾を揺らして通り過ぎていく。


真尋はそのまま、杏奈の背中を追いかけた。

胸の中に、一人分の空席を残したまま。


けれど今度はその席にいた人の名前を、ちゃんと知っている。


陽翔。


もう、理由も分からず二つ買うことはない。

それでもきっと、真尋はこれからも、ときどき二つ買う。


一つは、今ここにいる誰かのために。


そして時々は、もう隣を歩けない兄を思い出すために。

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