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7:それでも、愛していると言いたかった

息子が犯罪を犯した。

被害者の中には、うちの娘もいた。息子の妹。


この二つの事実を同時に抱えて生きる方法を、三十九歳の佐伯美和は知らない。


市役所でも教えてくれないし、学校から配られる保護者向けプリントにも書いていない。

当然、スーパーのポイントカードの裏にもない。


だから美和はとりあえず洗濯をした。


「…………」


ベランダに、靴下を干す。


一足。

二足。

三足。


そこで気づいた。


「なんであいつのまで洗ってんのよ」


黒いスポーツソックス。


十六歳の息子、悠斗のものだった。

もう二か月、本人はいない。

事件のあと、悠斗は家を離れ拘置所に拘留されている。


それなのに洗濯籠の底から、いつ紛れ込んだのか分からない靴下が発掘された。


「遺跡か」


美和は一人で呟いた。


「佐伯家古代文明か。なんで二か月ものの靴下が今出土するのよ」


笑えなかった。

でも言わないと泣きそうだった。

だから言った。


「世界遺産には推薦しません」


洗濯ばさみで留める。

春の風に、悠斗の靴下が揺れた。


腹が立った。

こんなものまで愛しかった。



悠斗がしたことを、美和は許せなかった。

そこだけは、何度考えても変わらない。


家族に向けられた暴力と、その前後に重なった問題行動。

その中で、中学二年の娘・菜月も傷ついた。


詳しい事情を何度聞いても、美和の中にある結論は同じだった。


悠斗は、してはいけないことをした。

絶対に。何があっても。

そして菜月は、悪くない。


それなのに。


「お母さん」


ある夜、菜月が聞いた。


「お兄ちゃんのこと、嫌い?」


美和は食器を洗っていた。

蛇口から落ちる水が、やけに大きく聞こえた。


「……どうして?」


「だって」


菜月はダイニングテーブルに頬杖をついたまま、視線を落とした。


「お母さん、ずっと怒ってるから」


美和は水を止めた。

答えられなかった。


嫌いか。

そんな簡単な質問だったらよかった。


「嫌いになれたら楽なんだけどね」


「まだ好きなの?」


「……うん」


言った瞬間、胸が痛んだ。

娘の前で言っていい言葉なのか分からなかった。


菜月を傷つけた人間を、母親である自分が愛している。


「ごめん」


反射的に謝った。

すると菜月が眉を寄せた。


「なんでお母さんが謝るの」


「いや……」


「お兄ちゃんのこと好きだから?」


「……うん」


「意味分かんない」


「私も分かんない」


「親なのに?」


「親にも取扱説明書はありません」


「産んだのに?」


「出産時に説明書ついてこなかった」


「保証書は?」


「それもない」


「返品は?」


「できません」


「不便」


「本当にね」


菜月がほんの少し笑った。

美和も笑った。


笑ってから、泣きそうになった。



悠斗は、小さい頃から妙に要領の悪い子だった。


三歳のとき、母の日に花を摘んできてくれた。

全部、近所の佐藤さん宅の花壇から。


「悠斗! これどこから取ったの!?」


「おばちゃんち!」


「返してきなさい!」


「プレゼント!」


「犯罪で愛を表現するな!」


十年以上前の話だ。

当時は笑い話になった。


佐藤さんにも一緒に謝り、翌週には菓子折りを持っていった。


小学生になると、妹が泣けば真っ先に駆けつけた。


『誰にやられた!?』


『机』


『机!?』


机の角にぶつけただけの菜月を抱えて、本気で机を睨んでいた。


『こいつか!』


『家具に喧嘩売らないで』


中学に入って反抗期が始まった。


「うるせえ」


「分かった」


「……何が」


「母への愛情表現ね」


「違う!」


「照れなくていいのよ」


「マジうぜえ!」


「愛が強い」


「話通じねえ!」


そんな子だった。

だから余計に分からなかった。


どこで、何が、どうして。


けれど美和は、途中から「どうして」を免罪符にしてはいけないと思うようになった。


理由があっても、傷つけていいことにはならない。


悠斗が苦しんでいたとしても。

悠斗にも事情があったとしても。

菜月が受けた傷は消えない。


母親だからといって、そこを曖昧にしたくなかった。


それでも夜になると考える。


ちゃんと食べているだろうか。

眠れているだろうか。

寒くないだろうか。

怖くないだろうか。

反省しているだろうか。

泣いていないだろうか。


そして最後に必ず、会いたい。


「……最低だな、私」


そう呟くと、菜月がリビングから答えた。


「何が?」


「聞こえてた?」


「普通に」


「独り言にもプライバシーをください」


「声量を下げてください」


もっともだった。



審判の日。


家庭裁判所の廊下は、妙に明るかった。


窓から春の日差しが差し込んでいる。

こんな日に世界が晴れているのは反則だと美和は思った。


いっそ嵐ならよかった。

雷でも鳴っていれば、


『本日は人生の重大局面です』


という演出になるのに。


ところが現実は快晴。

近くの公園では、たぶん犬が散歩している。

世間は、美和たち一家の事情など知らずに通常営業だった。


悠斗は少し離れたところにいた。


二か月ぶりに見る息子は、少し痩せていた。

髪も短くなっている。


「…………」


声をかけたかった。


ちゃんと食べてる?

眠れてる?

痩せた?

髪似合わないね。


最初の三つは母親らしいのに、四つ目で台無し。

でも、それくらい普通に話したかった。


悠斗が一瞬、美和を見た。


目が合った。

すぐ逸らされた。

胸が潰れそうになった。


審判が始まった。

聞かれたことに答えた。


菜月のこと。

家でのこと。

悠斗のこと。

これからのこと。


そして。


「今回のことについて、保護者としてどう考えていますか」


美和は膝の上で手を握った。

何度も考えてきた。

言うべきことも決めていた。


罪は罪。

悠斗には、自分がしたことと向き合ってほしい。

でも、家族として見捨てるつもりはない。


そう言うつもりだった。


菜月の泣いた顔が浮かんだ。

眠れなくなった夜。

物音に怯えた姿。

震える手。


それを思い出した瞬間。


「……許せません」


口から出た。


静かな部屋だった。

だから、その一言がひどく大きく響いた。


悠斗が顔を上げた。

目が合った。


違う。

美和は思った。


違わない。

許せない。

それは本当だ。


でも、それだけじゃない。


「私は……」


続けようとした。


あなたのしたことは許せない。

でも、あなたまで嫌いになったわけじゃない。

あなたは私の息子だ。

愛してる。

だから、ちゃんと戻ってきて。

全部、言いたかった。


けれど、言葉は続かなかった。


審判は進んだ。

時間は、美和の都合では止まってくれなかった。


判決、少年院送致。


その言葉が告げられた。

結審した。


「待って」


声にする前に、悠斗は立った。


「悠斗」


呼んだ。

振り返った。


ほんの一瞬、美和は口を開いた。


愛してる。

たった五文字。

それが出なかった。


さっきの「許せません」は、あんなに簡単に出たのに。


悠斗は連れていかれた。

言葉を交わせないまま。


扉が閉まった。

その音だけが、いつまでも耳に残った。



帰宅した美和は、冷蔵庫を開けた。


「…………」


プリンが三つ。


美和。

菜月。

そして。


「馬鹿じゃないの」


買い物の数を間違えることはもうなくなっていた。

それなのに今日は、無意識に悠斗の好きなプリンを買っていた。


「食べる?」


後ろから菜月が覗く。


「どれ?」


「お兄ちゃんの」


美和は固まった。

菜月は冷蔵庫の中を見る。


「賞味期限あるよ」


「……そうね」


「帰ってくるまで置いとけないし」


「そうね」


「腐るよ」


「知ってる」


「プリンは待ってくれない」


「人生みたいに言わないで」


「プリンは人生」


「十四歳で何悟ってんの」


菜月は一つ取った。


「半分こする?」


美和は娘を見た。


「……いいの?」


「プリンに罪はないし」


「名言みたいに言うね」


「今日の私、哲学者だから」


「明日テストだけど」


「哲学者やめます」


「早い」


二人で笑った。

プリンを半分にした。


美和は一口食べた。

甘かった。

そして、泣いた。


「……言えなかった」


菜月のスプーンが止まった。


「何を?」


「愛してるって」


涙が落ちた。


「許せないって言った」


「うん」


「それしか、言えなかった」


菜月は黙っていた。


「違うの。違わないけど、違うの」


自分でも支離滅裂だった。


「悠斗のしたことは許せない。あなたを傷つけたことも絶対に許せない。なかったことにもしたくない」


「うん」


「でも」


息が震えた。


「それでも、愛してるって伝えたかった」


菜月はしばらく何も言わなかった。


「じゃあ、次に言えば」


「……次?」


「一生会えないわけじゃないんでしょ」


美和は顔を上げた。


「しばらく会えないだけでしょ」


「……うん」


「なら、次」


「簡単に言うね」


「難しく言っても会える日早くならないし」


「十四歳が強すぎる」


「誰の娘だと思ってんの」


「私」


「そこは即答なんだ」


菜月が呆れた。

美和は泣きながら笑った。



その夜、悠斗の部屋を開けた。


ベッド。

机。

漫画。

放置されたゲーム機。

壁に貼ったサッカー選手のポスター。

脱ぎっぱなしのパーカー。


「……二か月前からあるんだけど」


美和は袖を摘まんだ。


「洗濯物出せって何回言わせるのよ」


返事はない。


「帰ってきたら説教だからね」


返事はない。


「あと、菜月にちゃんと謝りなさい」


返事はない。


「許してもらえると思わないで」


声が震えた。


「許してもらうために謝るんじゃないからね」


ベッドに腰を下ろした。


胸に、大きな穴が空いていた。

娘を傷つけられた穴。

息子が罪を犯した穴。

家族が壊れた穴。

今日、息子を遠くへ送り出した穴。


そして。


愛していると言えなかった穴。


「……どうすればいいのよ」


誰も答えない。


「大きく胸に空いた穴は、どうすればいいの」


悠斗の枕を殴った。


「馬鹿」


もう一度。


「馬鹿」


それから抱きしめた。


「……大馬鹿」


許せない。

愛している。


その二つは、どちらかを選ばなければならない感情ではないのかもしれない。


罪を許さないことと。

人を見捨てないこと。

傷つけられた娘のそばにいることと。

罪を犯した息子の帰る場所を残しておくこと。


その全部を抱えるのが、自分の役目なのかもしれない。


胸の穴は埋まらない。

今は、埋めてはいけない気さえした。


そこには菜月の痛みもある。

悠斗が背負うべきものもある。

家族が失った時間もある。


だから、美和はその穴を抱えたまま待つことにした。


いつかもう一度、悠斗の顔を見られる日に、今度こそ。


「悠斗」


誰もいない部屋で、練習する。


「あなたのしたことは、許せない」


一度、息を吸った。


「でも」


胸が痛い。

それでも言う。


「愛してるよ」


静かな部屋に、今度は最後まで言葉が残った。

美和は鼻を啜った。


「……よし」


そして立ち上がり、パーカーを拾う。


「とりあえず洗うか」


階下から菜月の声が飛んできた。


「お母さーん!」


「何ー!」


「プリン残り半分食べていい!?」


「駄目!」


「なんで!?」


「それ私の!」


「お兄ちゃんのじゃなかったの!?」


「半分にした時点で相続しました!」


「強欲!」


「うるさい!」


美和は笑った。


穴はまだ、そこにある。

明日もある。

悠斗が帰ってくる日にも、きっとある。


それでも、次に会えたとき伝える言葉を、美和はもう知っていた。


許せない。

それでも、愛している。


どちらも嘘にしないまま。

今度は、最後まで、ちゃんと息子に届くところで。

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