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5:夢の跡地

十七年間生きてきて、神崎奏には三つの確信があった。


一つ。

ピーマンは食べ物ではない。


二つ。

朝六時より前に活動している人間は、何らかの法規制を受けるべきである。


そして三つ。

自分は将来、ピアニストになる。


最後の一つだけは、冗談ではなかった。


五歳でピアノを始めた。

七歳で初めてコンクールに出た。

十歳で全国大会。


中学に入ってからは毎日最低四時間、高校生になってからは休日なら八時間弾くことも珍しくなかった。


友達が放課後にクレープを食べている時間も。

修学旅行の夜、恋愛話で盛り上がっている時間も。


奏はピアノを弾いていた。


「青春を犠牲にしてる自覚ある?」


高校二年の冬、幼なじみの真琴にそう聞かれたことがある。


「失礼な。私にも青春くらいある」


「どこに?」


「鍵盤上」


「白黒じゃん」


「モノクロ青春」


「昭和映画?」


そんなふうに笑っていられた。

全部、未来につながっていると思っていたから。


練習の一時間も、指先の痛みも、遊びに誘われて断った夜も、いつか舞台の上で報われる。

そう信じていた。信じていなければ、何もかもをピアノに差し出してきた自分を、きっと支えられなかった。


そして高校三年の秋。

十八歳以下を対象にした国内最大級のコンクール。


奏にとっては、音楽大学への進学、その先の演奏家としての道を占う大舞台だった。


結果は予選敗退。


「…………」


結果発表の掲示板を、奏は三回確認した。


一回目。

ない。


二回目。

ない。


三回目。

やっぱりない。


名前がない。


ただそれだけのことなのに、胸の奥から何かが抜き取られたようだった。

息はできる。立ってもいられる。なのに、自分の中身だけが、掲示板の前に置き去りにされたような感覚があった。


「名前が逃げた?」


横にいた真琴が眉をひそめる。


「奏」


「待って。今、探してる」


「……うん」


「たぶん恥ずかしがって隠れてる」


「名前に羞恥心ないと思う」


「じゃあ印刷ミス」


「奏」


「運営に電話する?」


「奏」


真琴の声が優しくなった。

その瞬間、奏はようやく掲示板から目を逸らした。


目を逸らしたら、認めなければならない気がした。


ここにないのは、名前だけではない。


これまでの練習時間も、犠牲にしたものも、信じていた未来も、全部まとめて『選ばれなかった』と突きつけられている。


「あ」


自分でも驚くほど普通の声が出た。


「落ちたんだ」


言葉にした途端、現実が輪郭を持った。


落ちた。

自分は、落ちた。


それは結果でしかないはずなのに、奏には「お前はここまでだ」と言われたように聞こえた。



泣かなかった。


帰りの電車でも。

駅から家までの道でも。

玄関を開けたときも。


泣けなかった、という方が近かった。


泣けば少しは楽になるのかもしれない。

でも涙を流したら、本当に終わってしまう気がした。

まだ何かの間違いかもしれない。明日になれば、名前が掲示板に現れるかもしれない。そんな馬鹿げた期待を、奏は手放せずにいた。


「ただいま」


「おかえり。どうだった?」


母が台所から顔を出した。


「落ちた」


「あら」


「予選」


「あらまあ」


「もう少し何かないの?」


「お腹空いた?」


「娘が人生の危機に瀕してる」


「カレーあるよ」


「カレーで人生を救おうとするな」


「チーズ乗せる?」


「……乗せる」


カレーは美味しかった。

腹立たしいくらい美味しかった。


人生最大級の挫折を味わった日くらい、ご飯の味がしないとか、世界が灰色に見えるとか、そういう文学的な現象が起きてもよさそうなのに。


舌は味を感じた。

胃は空腹を訴えた。

母の冗談には、いつも通り腹が立った。


世界は何も変わっていない。

変わってしまったのは、自分だけだった。


「おかわり」


「食べるじゃない」


「傷心はカロリー消費するの」


「初耳」


二杯食べた。

風呂にも入った。

歯も磨いた。


いつも通りピアノの前へ座った。


いつも通りの動作をすれば、いつも通りの自分に戻れる気がした。

椅子の高さを調整し、譜面を開き、指をほぐす。何千回も繰り返してきた手順だった。


譜面を開く。

鍵盤に指を置く。


「…………」


弾けなかった。

指が動かない。


弾くべき音は譜面に書かれているのに、その音へ向かう理由だけが、どこにも見つからなかった。


初めてだった。

音を出すのが怖いと思った。


鍵盤を押せば、音が鳴る。

その音を聴けば、今日の結果を思い出す。

自分が足りなかったこと。選ばれなかったこと。これまで信じてきたものが、未来を保証してくれなかったこと。


音が全部を暴いてしまう気がした。


蓋を閉じる。

その音が、やけに大きく部屋に響いた。

奏はしばらく、閉じた蓋の前に座っていた。


ピアノはそこにある。

なのに、もう自分の居場所ではないように見えた。

そのまま部屋へ戻った。



翌日、普通に学校へ行った。


「おはよ」


真琴がいつも通り手を上げる。


「おはよ」


「大丈夫?」


「何が?」


「昨日」


「ああ」


奏は鞄を机に置いた。


「平気」


「本当に?」


「予選で落ちただけだし」


そう。

一回落ちただけ。


次がある。

そう思えばよかった。


でも奏は知っていた。

昨日、自分よりずっと上手い演奏を何人も聴いた。


努力量なら負けていない。

先生にもそう言われた。


けれど、努力した人間が全員プロになれるわけではない。


そんな当たり前のことを、十八歳になって初めて、自分の話として理解した。


努力は、夢を追うための切符ではあっても、夢にたどり着く保証ではなかった。


奏はずっと、努力すれば届くと思っていた。

届かない可能性を考えないことで、練習を続けてこられた。


でも今、その考えは音もなく崩れている。


自分は特別ではなかった。

少なくとも、特別だから選ばれる人間ではなかった。


「私さ」


「うん」


「ピアノ以外に特技ないんだけど」


「変顔」


「履歴書に書けるやつ」


「早食い」


「社会で評価されるやつ!」


「人のポテトを自然に盗む」


「犯罪歴増やすな!」


真琴が笑った。

奏も笑った。


笑えたことに、少し驚いた。


まだ笑える。

まだお腹も空く。

まだ学校にも来られる。


それなのに、昨日まで自分を自分だと思わせていたものだけが、きれいに抜け落ちている。


そのあと少しだけ黙った。


「……何すればいいんだろ」


その声だけは、笑っていなかった。



それから奏は、ピアノを弾かなくなった。


最初のうちは、弾かないことを休息だと思おうとした。


今まで頑張った分、少し休めばいい。

気持ちが落ち着けば、また弾ける。


そう考えていた。


けれど、一週間経っても、ピアノの前に座る理由は戻ってこなかった。


毎日何時間も鳴っていたピアノが沈黙すると、家が妙に広くなった。


代わりに時間が余った。

余った時間は、何をしても埋まらなかった。


「暇」


日曜日の午前十一時。

ソファに寝転がりながら呟く。


母が洗濯物を畳んでいる。


「遊びに行けば?」


「どこへ」


「友達と」


「真琴はデート」


「じゃあ一人で」


「孤独を推奨する親」


「映画でも見れば?」


「何見ればいい?」


「知らないわよ」


「今まで日曜って私何してた?」


「ピアノ」


「…………」


母の返事は何気なかった。

でも、その一言で、奏は自分の休日を思い出した。


朝起きて、朝食を食べて、練習して、昼食を食べて、また練習して。

休憩の合間に譜面を眺め、夜になれば一日の練習時間を数える。


それが苦痛だったこともある。

それでも、何をすればいいか分からないことはなかった。


終わった。

人生のスケジュール帳から「ピアノ」を消したら、ほぼ白紙になった。


「私、薄い人間だったんだ」


「急に哲学始めないで」


「趣味欄、ピアノ。特技欄、ピアノ。将来の夢、ピアノ。休日、ピアノ」


「ピアノ四冠ね」


「嬉しくない」


冗談の形にしてみても、胸の奥の空洞は埋まらなかった。


ピアノを失ったのではない。

ピアノしかなかった自分を失ったんだ。


自室へ戻る。


棚には楽譜。

音楽関連の本。

コンクールのトロフィー。

賞状。

メトロノーム。


机の引き出しには、昔使っていた鍵盤柄の鉛筆まで残っていた。


人生のほとんどが、ピアノでできている。


それでもピアニストになれないなら、これ全部何だったんだろう。


努力した証。

思い出。

それとも、もう戻れない場所の残骸。


奏には、どれも同じものに見えた。



進路希望調査票が配られた。


第一志望。

第二志望。

将来希望する職業。


奏は最後の欄で止まった。


今までは迷わず書けた。

ピアニスト。

たった五文字。


それが書けない。

ペン先を紙に置いても、最初の一画が出てこなかった。


書いてしまえば、まだ夢を追うふりをすることになる。

書かなければ、夢を捨てたと認めることになる。


どちらを選んでも、自分が嘘をつくような気がした。


「……空欄でも人生って提出できる?」


隣の真琴を見る。


「先生に聞けば」


「人生の提出期限いつ?」


「哲学を私に投げるな」


「十八歳、迷子です」


「交番行く?」


「『将来が分かりません』って?」


「お巡りさん困るね」


二人で笑った。


でも結局、その欄は空白のまま提出した。

空欄が、紙の上でひどく目立っていた。


まるで、これまでの自分には書くべき答えがあったのに、今の自分には何もないと証明されているようだった。



母がリビングでお茶を飲んでいた。


「お母さん」


「ん?」


「私、ピアニストになれなかったらどうすればいい?」


「知らない」


「回答が雑」


「だって奏の人生だもの」


「もうちょい寄り添って」


母は湯呑みを置いた。


「じゃあ聞くけど」


「何」


「ピアニストになりたかったの?」


「……当たり前じゃん」


「それとも、ピアノが好きだったの?」


奏は黙った。

質問の意味が分からないわけではなかった。

分かりたくなかった。


「同じじゃないの?」


「同じだった?」


答えられなかった。


ピアニストになるために弾いていた。

褒められるために弾いていた。

勝つために弾いていた。

いつから、弾くことそのものより、弾いた先にある肩書きの方が大切になったのだろう。


母はそれ以上何も言わず、またお茶を飲んだ。


「大きく胸に空いた穴はどうすればいいの」


奏はぽつりと言った。


言葉にした途端、胸の奥に本当に穴があるのだと分かった。


痛いわけではない。


ただ、何を入れても落ちていくような、底の見えない空洞だった。


母は少し考えたあと聞いた。


「空いたなら、そこには今まで何があったの?」


「夢」


「本当に?」


母が視線を向ける。


「ピアニストになるっていう夢だけ?」


奏は、自分の手を見た。

小さい頃から鍵盤に触れてきた指。

何度も同じ小節を練習した。

弾けなくて泣いた。

弾けたら嬉しかった。

コンクールで褒められた。

負けて悔しかった。


その一つ一つを思い出すと、胸の穴の底から、かすかな音が返ってくるようだった。


五歳の自分は、プロになるためにピアノを始めたわけじゃない。


「……音が好きだった」


「うん」


「弾けるようになるの、楽しかった」


「うん」


その言葉を口にすると、忘れていた感覚が少しだけ戻ってきた。


初めて音がつながったときの驚き。

昨日まで弾けなかったフレーズが弾けたときの喜び。

誰かに聴かせるためではなく、自分の指から音が生まれることが嬉しかった時間。


それは、勝敗や評価よりもずっと前から、奏の中にあった。


「お母さん」


「何?」


「なんで今ちょっと賢そうなの?」


「ちょっと?」


「訂正。かなり賢そう」


「今日の皿洗いお願いね」


「取り消します」



その夜、奏は二週間ぶりにピアノの前へ座った。


座っただけで胸が少し苦しくなった。

蓋を開ければまた何かを期待してしまう気がした。


弾けば、以前の自分に戻れると思ってしまうかもしれない。


でも、戻りたいのかどうかも奏には分からなかった。


コンクール曲の譜面は開かなかった。


あの曲には、練習した時間も、舞台の照明も、審査員の視線も、落ちたという結果も、全部染みついている。


今の自分にはまだ触れられなかった。


何を弾こう。


考えて、昔好きだった曲を弾いた。

小学生の頃、発表会で演奏した簡単な曲。


一音、もう一音。


久しぶりのピアノは、少しだけ指に馴染まなかった。

鍵盤の重さが、以前よりはっきり伝わってくる。

指先が覚えているはずの場所で迷う。

間違える。


「あ」


止まる。

いつもならやり直す。


間違いは最初から弾き直すものだった。正しい音だけを残し、失敗した音はなかったことにする。


今日はそのまま続けた。

また間違えた。


「下手になってる」


笑った。

その笑いは、少し震えていた。


誰も採点しない。

審査員はいない。

先生もいない。

点数も順位も合否もない。


間違えても、誰も未来を奪わない。

ただ自分が弾いて、自分が聴いている。


こんなピアノは、いつ以来だろう。


曲が終わった。

静寂が落ちる。


「…………」


奏は鍵盤に両手を置いたまま、俯いた。

涙が落ちた。


悔しいのか、安心したのか、自分でも分からなかった。

ただ、音が消えたあとも、指先には確かな感触が残っていた。


「好きだったんじゃん」


ピアニストになる自分だけが好きだったわけじゃない。

選ばれる自分だけを夢見ていたわけでもない。


ピアノそのものが、ちゃんと好きだった。

好きだったからこそ、夢と一緒に失ったと思い込んでいた。


「なんだよ」


泣きながら笑った。


「先に言えよ、私」



奏は音楽大学へ進学した。


ピアニストになると決め直したわけではない。

演奏を続けるのか。

教える側になるのか。

音楽に関わる別の仕事をするのか。

それとも、いつか全然違う道へ行くのか。


まだ分からない。

以前なら、分からないことは不安でしかなかった。

答えを持っていない自分は、遅れていると思っていた。


今も不安はある。


けれど、分からないまま立っていることを、少しだけ許せるようになった。


入学式の前日、真琴から電話が来た。


『で、将来の夢は?』


「未定」


『おお』


「何その反応」


『奏が未定って言えるようになるとは』


「成長したでしょ」


『退化かもしれない』


「切るぞ」


『嘘嘘』


奏は笑った。


窓の外では桜が揺れている。

部屋には相変わらずピアノがある。


トロフィーも、楽譜も、夢の残骸だと思っていたものたちも。


今は少し違って見える。

あれは残骸ではない。


ここまで来た道だった。


道の先が思っていた場所ではなかったからといって、歩いた時間まで消えるわけではない。


胸の穴は、まだ残っている。


「絶対にピアニストになる」と信じていた自分がいなくなった場所。


でも、その穴から見える景色は、以前よりずっと広かった。


「ねえ真琴」


『何?』


「私、今日ピアノ弾くわ」


『毎日弾けよ音大生』


「正論やめて」


電話を切る。

ピアノの前へ座る。

譜面は置かない。


奏は少し考えてから、鍵盤へ指を落とした。


何の曲でもない。

その場で思いついた音を、ただ繋いでいく。


高い音。

低い音。


指先からこぼれる、まだ名前のない音。


窓の外で、風が桜の枝を揺らしている。

鍵盤の上を、音がひとつ、またひとつと渡っていく。


夢を失った。

それは本当だ。

十八歳まで信じていた未来は、もうどこにもない。


けれど、夢がなくなっても好きだったものまで嫌いになる必要はなかった。


胸に空いた穴を慌てて次の夢で埋める必要もない。

しばらく空けておけばいい。


そこから風が入る。

知らなかった景色も見える。

いつかまた、何かを置きたくなったら、そのとき考えればいい。


奏は鍵盤を叩く。

盛大に音を外した。


「…………」


リビングから母の声が飛んでくる。


「今の間違えた?」


「現代音楽!」


「便利な言葉ね!」


「芸術を理解して!」


奏は声を上げて笑った。

笑い声が消えたあとも、弦の震えだけがしばらく残った。


そして、もう一度弾き始める。


上手くなくてもいい。

誰かに選ばれなくてもいい。

未来につながっていなくてもいい。


今日、弾きたいから弾く。

それだけで十分な夜が、確かにある。


大きく胸に空いた穴は、今日もそこにある。

でも奏はもう、その穴を失敗の跡とは呼ばなかった。


それはきっと、一つの夢を本気で追いかけた跡だ。

そしてその向こうには、まだ名前のついていない未来がある。


「……さて」


奏は指を構えた。


「もう一曲」


今度は、少しだけ笑いながら。

誰にも聴かせる必要のない曲を弾いた。


夜の底で、音だけが、ゆっくり遠くへほどけていった。

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