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4:おかえりを言う人がいない

うちのばあちゃんは、死ぬ直前まで口が悪かった。


「紗季。あんた、そのスカート短すぎない?」


「今これ普通だから」


「普通ならパンツ見えてもいいの?」


「見えてない!」


「ギリギリよ」


「見たの!?」


「見たくなくても見えるのよ!」


朝から高校二年生の西野紗季は、食卓で味噌汁を啜りながら祖母の千代子と戦っていた。


七十三歳。

身長百四十八センチ。


白髪交じりの髪を短く切り、趣味は家庭菜園と通販番組への悪口。

好きな俳優がテレビに出れば「あら今日も男前」と乙女の顔になり、紗季が推しのアイドルを見て騒げば「この子、前髪長くない? 目に刺さるわよ」と余計な心配をする。


「はい、お弁当」


「ありがと」


「卵焼き入れたから」


「昨日も入ってた」


「文句あるなら自分で作りなさい」


「毎日ありがとうございます」


「よろしい」


千代子は満足そうに頷いた。

紗季は両親が共働きだったこともあり、小さい頃から祖母と過ごす時間が長かった。

学校から帰れば千代子がいる。


「ただいま」


「おかえり」


それが十七年間、当たり前だった。


「行ってきます」


「はい。車に気をつけて」


「子どもじゃないって」


「十七なんて赤ちゃんよ」


「どんな巨大児だよ」


玄関を出る直前、千代子が呼び止めた。


「紗季」


「何?」


「今日、餃子作るから早く帰ってきなさい」


「え、マジ?」


「ニラ余ってるから」


「理由が現実的」


「人生そんなもんよ」


紗季は笑った。


「じゃ、六時くらい」


「はいはい」


 それが最後だった。



千代子は、その日の午後に倒れた。

買い物帰りだった。


病院に運ばれ、紗季が着いたときには、もう話すことができなかった。


それから葬式があって、親戚が来て、知らないお坊さんがお経を読んで、みんなが泣いた。

紗季は泣かなかった。


「紗季ちゃん、大丈夫?」


「大丈夫です」


「無理しちゃ駄目よ」


「してないです」


本当にしていないつもりだった。


現実感がなかった。


病院の白い廊下を歩いたときも、葬儀場の畳に正座したときも、足の裏だけが妙に冷たかった。

周りでは人の声や衣擦れの音がしているのに、紗季の耳には薄い膜がかかったように遠く聞こえた。


棺の中の千代子は、寝ているみたいだった。


「化粧濃くない?」


母に小声で言った。


「紗季」


「だってばあちゃん、こんな色の口紅つけないじゃん」


母が泣きながら笑った。


「本人いたら文句言ってるね」


「絶対言う。『誰この派手な婆さん』って」


二人で笑った。


笑ったはずなのに、喉の奥がひどく乾いていた。

声を出したあと、いつもなら千代子がどこかで咳払いをするはずなのに、返ってくる音はなかった。

だから大丈夫だと思った。


火葬が終わって、骨になって、家に帰って。


玄関のドアを閉めたとき、靴底が床を擦る音だけがやけに大きく響いた。


それでも、まだ。



一週間後。


「ただいまー」


玄関を開けた。

返事がなかった。

靴を脱ぎながら、紗季はもう一度言った。


「ただいま」


静かだった。

居間のテレビは消えている。

台所から包丁の音もしない。


いつもなら夕方のニュースに向かって、


『この政治家また同じこと言ってるわ』


 とか、


『明日雨じゃない。洗濯どうするのよ』


とか、テレビに返事を要求している千代子の声がする。


でも、何も聞こえない。


冷蔵庫の低い唸りだけが、台所の奥で途切れずに鳴っていた。

壁時計の秒針が、ひとつ、ひとつ、間を置いて進んでいる。


いつもなら千代子の声に隠れていた小さな音ばかりが、家中に残っていた。


「…………」


そこで初めて紗季は泣いた。


「ばあちゃん」


鞄が玄関へ落ちた。

どさり、と鈍い音がした。


「ただいまって言ったんだけど」


返事はない。

喉がひりついた。胸の奥が急に狭くなって、息を吸っても肺の底まで届かない。


「聞こえてない?」


声が震えた。


「ただいま」


もう一度。


「ただいま!」


声を張ったせいで、耳の奥が痛くなった。

誰もおかえりと言わなかった。

紗季は玄関にしゃがみ込んだ。


冷たい床が膝に伝わった。脱ぎかけの靴の縁が足首に食い込んでいるのに、立ち上がる気になれなかった。


十七年間、一度だってありがたいと思ったことのなかった言葉だった。


おかえり。


たった四文字。

それがなくなっただけで、家が別の場所になってしまった。



数日後。

冷凍庫を開けた紗季は、固まった。


「……何これ」


ジッパー袋がぎっしり入っていた。


餃子。

餃子。

餃子。

さらに餃子。


「多っ!」


母が飛んできた。


「どうしたの?」


「ばあちゃん、何人と戦争する予定だったの!?」


数える。

一袋二十個。

全部で八袋。


「百六十個!?」


「お母さんも知らないわよ」


「店じゃん!」


一袋を取り出す。

冷気が指先にまとわりつき、袋の表面が白く曇った。


油性ペンで千代子の字が書いてあった。


『紗季 ちゃんと食べなさい』


「…………」


その瞬間、さっきまで笑っていたのに胸が詰まった。


指先から力が抜け、袋がかすかに鳴った。冷たいはずなのに、手のひらだけが熱くなった。


「ずる」


袋を冷凍庫へ戻した。

食べられなかった。



それから餃子は、冷凍庫の一角を占領し続けた。


母が言う。


「今日、餃子食べる?」


「嫌」


「そろそろ食べないと」


「冷凍だから平気」


「永遠じゃないのよ」


「分かってる」


分かっている。

だから食べられない。


一個食べたら、百五十九個になる。

百五十九が百五十八になって。

百五十八が百五十七になって。


……いつかゼロになる。


千代子が最後に作ったものが、この世からなくなる。

それが怖かった。


冷凍庫の扉を閉めても、白い袋の列が目の裏に残った。

モーターの音が止まるたび、餃子まで消えてしまうような気がして、紗季は何度も扉を開けて確かめた。


「……保存用餃子」


ある日、冷凍庫を眺めながら呟いた。


「何それ」


「永久保存する」


「化石にする気?」


「三千年後くらいに発掘される」


「『古代日本人は餃子を信仰していた』って論文出るわよ」


「歴史を捏造しよう」


「やめなさい」


母が笑った。

紗季も笑った。


けれど笑い終わったあと、冷凍庫の小さな作動音だけが残った。

それでも袋には触れなかった。



夏になった。

高校から帰る。


「ただいま」


まだ言ってしまう。

返事はない。


玄関にこもった熱気が、制服の背中に張りつく。汗で湿った手が鞄の持ち手に滑った。以前なら、居間から「手洗ってから上がりなさい」と飛んできた声を聞きながら靴を脱いでいた。


今は、自分の靴を揃える音だけがする。

でも、以前ほど立ち止まらなくなった。

そのことに気づくたび、紗季は少し怖くなった。


慣れてしまう。

ばあちゃんがいない家に。

おかえりのない玄関に。

いつか声も忘れるのだろうか。


笑い方も。

手の皺も。

味噌汁の味も。


「……嫌だな」


居間には千代子の写真がある。

遺影の千代子は、珍しく上品に微笑んでいる。


「写真選んだ奴、誰」


絶対こんな顔しない。


「もっと『あんた宿題やったの』みたいな顔あったでしょ」


当然、返事はない。

紗季は写真の前に座った。


畳に触れた膝がじわりと痛んだ。

エアコンの風が頬を撫で、カーテンがかすかに揺れる。その風の音の向こうに千代子の咳払いを探してしまう。


「ねえ」


胸を押さえる。

指の下で心臓が速く打っていた。


「大きく胸に空いた穴は、どうすればいいの」


千代子なら何と言うだろう。


泣いていいのよ、なんてきっと言わない。


『知らないわよ。自分で考えなさい』


そう言う。


「……役に立たねえ婆さん」


少し笑った。

笑ったあと、胸の奥の痛みが前よりはっきりした。



夏休み最後の日に紗季は冷凍庫を開けた。


「食べる」


母が振り返った。


「え?」


「餃子」


一袋取り出す。

カチカチに凍っている。


『紗季 ちゃんと食べなさい』


その字を指でなぞった。


冷たさが指先から腕へ上ってくる。けれど、今度は袋を戻さなかった。


「食べるために作ったんだもんね」


フライパンを出す。

金属がコンロに当たって、かん、と鳴った。


油を入れる。

餃子を並べる。

凍った皮がフライパンに触れ、ぱちぱちと小さく音を立てた。


「水どれくらい!?」


紗季が叫ぶ。


「適当!」


リビングから母の声。


「その『適当』が分かんないんだって!」


「おばあちゃんも適当だったわよ!」


「ばあちゃんの適当は職人の適当なの!」


水を入れすぎた。


「うわっ!」


盛大に跳ねる。


「熱っ! ばあちゃんの罠!?」


「死者に濡れ衣着せない!」


蓋をする。

蓋の内側が白く曇り、蒸気が隙間から細く漏れた。じゅうじゅうという音が、台所いっぱいに広がる。


数分後に恐る恐る開ける。


「…………」


若干、焦げた。


「まあ」


母が覗く。


「個性的」


「失敗って言え」


皿へ移す。

形は悪い。

皮も少し破れている。


「いただきます」


一個、口に入れる。


「熱っ!」


「学習しなさいよ!」


母が笑う。

紗季は涙目になりながら噛んだ。


ニラ。

キャベツ。

豚肉。

少し多めの生姜。


噛むたびに、焼けた皮のぱりぱりした音が耳の近くで鳴った。

その音に混じって、昔の台所の音が戻ってくる。

包丁の音。

油の跳ねる音。

千代子が鼻歌まじりに食器を並べる音。


「……ばあちゃんの味だ」


涙が落ちた。

今度は止めなかった。


「おいしい」


母も一つ食べる。


「うん」


「でも焦げてる」


「うるさい」


二人で泣きながら笑った。



餃子は少しずつ減った。


百六十個。

百四十個。

百個。

六十個。


袋が減るたび、冷凍庫の中に空いた場所が増えた。扉を開けたときの冷気が、以前より広く感じられた。


そして冬。最後の一袋になった。


「……食べる?」


母が聞く。

紗季はしばらく袋を眺めた。


冷凍庫のモーターが低く唸り、窓の外では風が雨戸を細く叩いていた。


「食べる」


もう怖くなかった。

最後の餃子を食べたからって、千代子がいなくなるわけではない。


「ばあちゃんの餃子、私作れるかな」


「レシピないよ」


「知ってる」


「適当だったからね」


「だから覚えてる範囲でやる」


最後の一個を口に入れる。


味わって飲み込んだ。


「ごちそうさま」


袋が空になる。

胸が痛んだ。


けれど、痛みの中には、もう冷凍庫の底へ落ちていくような怖さはなかった。


千代子との十七年まで空っぽになったりはしなかった。



高校三年生になった紗季は、学校から帰って玄関を開ける。


「ただいま」


返事はない。

靴を脱いで、台所へ向かう。

ボウルには刻んだキャベツとニラ、ひき肉。


包丁を握る手に、千代子の手の動きを思い出そうとする。まな板を叩く音が、昔の台所の音と重なった。


「生姜これくらいかな」


母が覗く。


「多くない?」


「ばあちゃん多かったじゃん」


「そうだっけ?」


「多かった」


紗季は断言した。

餃子の皮に餡を載せる。

包む。

ひどい形になった。


「……何これ」


「餃子」


「深海生物かと思った」


「食わせねえぞ」


母が笑った。

紗季も笑った。


窓から春の夕陽が差し込んでいた。


胸の穴は、まだある。


おかえりと言ってくれる人は、もういない。


それでも餃子の包み方を覚えている。

味噌汁の味を覚えている。

車に気をつけなさいと言われたことも。

スカートが短いと怒られたことも。

通販番組に毎回文句を言っていたことも。


全部、自分の中に残っている。


胸に空いた穴は、埋めなくていいのかもしれない。


その穴の形を見れば、そこに誰がいたのか分かるから。

そして、その穴のそばには、千代子から受け取ったものが残っている。


誰かを待つこと。

帰ってきた人に、温かいものを食べさせること。

口が悪くても、心配していることを隠さないこと。


紗季はまだ、千代子のようにはできない。

餃子の形も、味噌汁の味も、少しずつしか近づけない。


それでも、今日も台所に立っている。

千代子がそうしていたように。


「紗季」


母が呼ぶ。


「何?」


「味見して」


「はーい」


紗季は台所へ向かう。


途中、居間にある千代子の写真の前を通った。

足を止める。


「ばあちゃん」


写真を見る。


「ただいま」


返事はない。


けれど、紗季はもう、返事がないことだけを聞いてはいなかった。


写真の向こうにある、少し上がった口角。

餃子を包む手の記憶。

味噌汁の湯気。

玄関で何度も聞いた、あの声。


それらは、なくなったのではなく、紗季の中へ渡ってきたのだと思う。


「……まあ、聞こえてるでしょ」


紗季は笑った。

そして台所へ向かう。


今日も、学校帰りにおかえりを言う人はいない。


でも、帰りたいと思える家は、ちゃんとここに残っている。

帰ってきた人を迎えるための台所も。

受け継いだ味を、次の誰かへ渡すための手も。


フライパンから餃子の焼ける音がした。


「紗季! 焦げてる!」


「うそ!?」


慌てて走る。


背中の向こうで、遺影の千代子が笑っているような気がした。


「ばあちゃん、笑ってる場合じゃないって!」


春の夕暮れ。

家の中に、久しぶりに賑やかな声が響いた。


おかえりを言う人はいない。

けれど紗季は、今日も帰ってきた。


そして、千代子から受け取ったものを胸に抱えて、誰かの帰りを待つ側へ、少しずつ歩き始めていた。

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