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3:君を嫌いになれたらよかった

五年間付き合った恋人に振られた。


「ごめん。もう、恋人として好きじゃない」


浮気ではない。

他に好きな人ができたわけでもない。

借金もない。

宗教も壺も出てこない。

暴力もモラハラもなく、国家機密を背負った工作員だったわけでもない。


ただ、好きじゃなくなった。

それだけだった。


「……いや」


向かいで俯く恋人……いや、数秒前に元恋人へジョブチェンジした男を見て、宮下春香は眉間を押さえた。


「もっとないの?」


「もっと?」


「理由。私が風呂上がりに全裸で冷蔵庫を開けるのが嫌だったとか」


「それは嫌だった」


「あったんかい」


五年間付き合った高瀬悠真は、困ったように笑った。

その笑い方まで春香は知っている。

言いづらいことがあると、悠真は右の眉だけ少し下がる。


「じゃあ、それでいいじゃん」


「原因ではない」


「私がプリンを勝手に食べるから?」


「それは普通に腹立ってた」


「じゃあそれ」


「違うって」


「夜中にポテトを買いに行かせるから?」


「俺が行きたいって言った日もあっただろ」


「じゃあ何」


悠真が黙った。

春香も黙った。


駅前のファミレスは、最悪なほど平和だった。

隣では高校生がポテトを分け合い、少し離れた席では子どもがクリームソーダをこぼしている。


世界のどこにも、五年間の恋愛が終わろうとしている緊迫感がない。


やがて悠真が静かに言った。


「春香のことは、大事だよ。一緒にいると楽しいし、嫌いになったわけでもない」


「……うん」


「でも、恋人としては、もう違うと思う」


胸の奥で、何かが抜け落ちた。


五年間が終わるのだから、ガシャーンとかドカーンとか、それなりの効果音くらい鳴ってもいいと思う。


「そっか」


でも実際はそれだけだった。



別れて三日後。


春香は部屋の中央にゴミ袋を置いた。


「失恋断捨離を開始します」


まず、悠真の歯ブラシ。


「はい、死刑」


ゴミ袋へ。


シャンプー。


「死刑」


部屋着。


「死刑」


ペアマグカップ。


「…………保留」


世の中には執行猶予という制度がある。


写真は、スマホに五年間分、二千三百八十七枚。


「多っ」


最初の旅行、花火大会、ディズニー。

悠真が寝癖のままコンビニへ行った写真。

春香が泥酔して道路脇のタヌキの置物に抱きついている写真。


「……なんで撮ったんだよ」


写真の中の自分は、信じられないほど楽しそうだった。


削除ボタンに指を置く。

押せない。

消してしまったら、本当に何もなかったことになる気がした。


五年間が、ただの過去として片づいてしまう気がして怖かった。


でも残しておけば、いつまでもそこから動けない気もする。


どちらを選んでも痛い。

結局、春香はスマホを伏せた。


「今日は無理」


捨てれば終わると思った。

なのに一番厄介なものは、ゴミ袋に入らなかった。



一週間後。


「お前さ」


会社の昼休み。同期の美咲が、春香の弁当を覗き込んだ。


「何」


「卵焼き二人分じゃない?」


春香は弁当箱を見た。

卵焼きが六個。いつも自分が二個、悠真が四個。


「癖」


「あー」


「朝、無意識に作った」


「重症だね」


「うるさい」


美咲は一つ摘んだ。


「あっ」


「何」


「それ悠真の」


二人とも止まった。

美咲がそっと卵焼きを戻す。


「戻すなよ! 余計つらいわ!」


「どうすれば正解なの!?」


「食え!」


「いただきます!」


美咲が慌てて口へ放り込む。


「うまい」


「悠真、甘いの好きだったから」


「…………」


「…………」


「ごめん」


「なんでお前が謝るんだよ」


笑った。

笑ったあと、胸が痛んだ。


別れた瞬間より、一人で泣いている夜より、普通の日常の中で習慣だけがふいに悠真を連れてくる瞬間が、一番困る。


スーパーのビール。

ドラッグストアの整髪料。

日曜日のテレビ。

駅前のラーメン屋。


春香の人生には、悠真と過ごした時間が多すぎた。


五年も一緒にいたのだから、身体まで急に一人用には戻ってくれない。


卵焼きを二人分作った朝も、悠真の好きなビールを手に取った夜も、メッセージを送ろうとしてスマホを閉じたときも、春香は小さく息を吐いた。


「まだ慣れてないだけ」


そう言い聞かせた。

慣れるという言葉が、少しだけ怖かった。

悠真を忘れてしまうことと同じに思えたから。



一か月後。


悠真から連絡が来た。


『まだ部屋に俺の本ある?』


「あるわ!」


スマホに怒鳴った。

漫画だけで三十冊ある。


『ある。取り来る?』


『いい?』


『いいよ』


送信してから、春香は十五分間ベッドの上を転がった。


「よくねええええ!」


しかし来る。約束したから。

翌日、玄関のチャイムが鳴った。


「久しぶり」


「一か月で久しぶりって言う?」


「言うだろ」


悠真は何も変わっていなかった。


当たり前だ。一か月で突然、身長が二十センチ伸びたり髪が銀色になったりするわけがない。いや銀色はありうるか……? いや、ない。


「本、そこ」


「ありがと」


段ボールを持ち上げる悠真を見て、春香は思った。


嫌いになりたい。

浮気していてほしい。

実は二股でした、と今からでも告白してほしい。

そうしたら、もっと簡単に手放せる。


怒りなら、悲しみよりずっと扱いやすい。

でも、悠真は最後まで悠真だった。


「悠真」


「ん?」


「私の嫌いなところ言って」


「何その地獄みたいな質問」


「いいから」


悠真は困った顔をした。


「朝弱い。酔うとめんどくさい。俺のプリン食う。話してる途中で寝る」


「それはお前の話が長い」


「ほらそういうとこ」


「他は?」


「……料理うまい」


「長所!」


「笑うとうるさい」


「悪口?」


「でも、好きだった」


春香は黙った。

ずるい。

過去形にするな。


「春香」


「何」


「ごめん」


「謝んな」


声が震えた。


「悪いことしてないなら、謝んなよ」


春香は笑おうとして、失敗した。


「私さ」


涙が落ちる。


「浮気されたほうが楽だった。最低な奴だったらよかった。嫌いになれたらよかった」


涙が次々に落ちた。


「なのに何で普通にいい奴なの」


「それは買いかぶりすぎ」


「今は黙れ」


「はい」


「大きく胸に空いた穴はどうすればいいの」


初めて口にした。


「五年もいたんだよ。そこに。いきなりいなくなったら、何入れればいいの」


悠真は答えなかった。

しばらくして、小さく言った。


「俺が埋めちゃ駄目なんだと思う」


春香は顔を上げた。


「……何それ」


「俺が寂しいからって戻ったら、たぶんまた春香を傷つける」


「知ってる」


「うん」


「そんなの分かってる」


分かっているから、苦しいのだ。


「じゃあどうすんの」


「分かんない」


「役立たず」


「ごめん」


「謝んなって言っただろ!」


「難しいな!」


二人とも笑った。

泣きながら笑った。

これが最後だと思った。


悠真が帰ったあと、玄関のドアが閉まる音を聞きながら、春香はしばらく動けなかった。


追いかけようと思えば、まだ追いかけられる距離だった。

名前を呼べば、戻ってきてくれるかもしれない。


でも、追いかけた先にあるのは、同じ別れを先延ばしにすることだけだ。


春香はゆっくり息を吐いた。


「……帰ろう」


誰もいない部屋で、自分に言った。

悠真のいない部屋へ。


その日から少しずつ「自分の部屋」に戻っていった。



それから三か月。


春香は一人で、駅前のラーメン屋へ行った。

悠真とよく来た店。


「お一人様ですか?」


一瞬だけ詰まる。


「……はい」


カウンターへ座る。


「味玉ラーメン一つ。あと餃子」


言ってから気づいた。

餃子はいつも二人で一皿だった。


「餃子、六個ですけど大丈夫ですか?」


「…………」


店員が心配そうに聞く。


「舐めないでください」


「え?」


「いけます」


「は、はい」


何と戦っているのだろう。


ラーメンが来る。

一口食べる。


「……うま」


美味しい。

ちゃんと美味しかった。

そのことが少し悲しくて、同じくらい嬉しかった。


以前なら、ここに来れば過去を思い出すのが嫌だった。

でも今日は、ただ食べたかった。


悠真と来た店だからではなく、自分がここのラーメンを好きだったことを思い出した。


スマホを取り出す。

写真を撮る。

以前なら悠真へ送っていた。

でも今日は送らない。


代わりに美咲へ送った。


『ラーメンと餃子六個一人で食う』


すぐ返信が来た。


『失恋より胃もたれ心配』


「うるせえ」


笑った。

胸の穴はまだある。


五年分だから、かなりでかい。


でも最近、その穴の端に、新しいものが少しずつ置かれるようになった。


美咲とのくだらないLINE。

一人で観た映画。

新しく買ったマグカップ。

自分だけの休日。


朝、卵焼きを二個だけ作れたこと。

悠真の好きだったビールを見ても、自分の好きなものを選べたこと。


そういう小さなことが、思っていたよりずっと大事だった。


穴を誰かで埋める必要なんてなかったのかもしれない。

空いた場所の周りに、新しい毎日を置いていけばいい。

いつか、その穴が小さく見えるくらい。


餃子を頬張る。


「熱っ!」


盛大に舌を火傷した。

涙目になりながら水を飲む。


こんなとき悠真なら絶対笑った。

そう思って春香も笑った。


思い出すことと、戻りたいと思うことは、もう同じではなかった。


悠真を思い出して胸が痛む日も、まだある。

たぶん、これからもある。

それでも、その痛みを消すために急いで何かを探さなくてもいいのだと思えるようになった。


痛いままでも、朝は来る。

仕事にも行ける。

友達と笑える。

ラーメンだって食べられる。


そうやって一日を重ねていけばいい。


君を嫌いになれたらよかった。

そうしたら、きっともっと簡単だった。


でも、好きだった人を好きだったまま終わらせる人生があってもいい。


胸に空いた穴は、今日も塞がっていない。

だから春香は、その隣に新しい思い出を置いていく。


ひとつ、またひとつ。


いつの日か振り返ったとき、大きな穴ではなく、五年間確かに誰かを好きだった跡だと思えるようになるまで。


「お客さん、餃子追加します?」


「しません」


即答した。


失恋は乗り越えられても餃子十二個は、まだ無理だった。


店を出ると、夜の風が少し冷たかった。

胸の穴は、相変わらずそこにある。


けれど、もう塞がなくても歩ける気がした。

痛みを抱えたままでも、私は私の明日へ行ける。


春香は振り返らなかった。

胸の穴を抱えたまま、夜の街を歩いていく。


明日もきっと痛い。

それでも、春香は前へ進んだ。

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