第七話
百四十九センチの全力
体育祭というのは、普段とは別の顔を見せる行事だと思っている。
授業中は真面目に座っている生徒が全力で走り、委員長タイプの女子が本気で綱を引き、いつもおとなしい男子が応援でうちわを振り回す。日常の役割が一時的にリセットされる一日だ。
そしてそれは、美紀と美香にとっても同じだった。
午前中の最初の種目はクラス対抗リレーの予選だった。
二年A組の出走順は、野田、女子二名、美香、俺、の順だった。美香は第四走者、俺がアンカーだ。
スタートラインに並んでいる美香を、俺はバトンゾーンから眺めた。
青いはちまきを巻いて、短距離走用の前傾姿勢で構えている。普段の百四十九センチがさらに小さく見えた。
(……大丈夫か? と思ったのが間違いだった)
ピストルが鳴って、リレーが始まった。
野田が走った。悪くない。女子二名が走った。ほぼ横並いだ。
そして美香にバトンが渡った。
美香が、走った。
速かった。
百四十九センチの体が、グラウンドを蹴るたびに前に出る。腕の振りが大きくて、ストライドが意外なほど広い。隣のレーンの走者をあっという間に抜いた。
(……速い。本当に速い。卓球部で体幹が鍛えられているのか、それとも純粋に足が速いのか)
美香がバトンを渡してきた。俺の手にしっかり収まった。
「博之、行け!」
美香の声が聞こえた。俺は走り出した。
アンカー同士の一騎打ちになった。隣のレーンの走者は三組のやつで、足が速いことは知っていた。
俺は追った。追いかけた。ゴール手前で並んで、そのまま並んでゴールした。
タイム差なし。審判が二人で確認して、わずかに俺が前だったという判定になった。
「やったああ!!」
美香の声が飛んできた。クラスの女子たちも一緒に喜んでいた。
野田が「桐島ナイスラン!」と言って肩を叩いてきた。俺は息を整えながら「美香が速すぎた」と言った。
*
昼前の種目は綱引きだった。
クラス対抗の綱引きは、男女混合で八人ずつが引く。二年A組は美紀が綱引きメンバーの一人に入っていた。
美紀が綱の前から三番目の位置に立った。百四十九センチの体が、同じメンバーの中でいちばん小さかった。後ろの女子が「大丈夫?」と言った。美紀が「問題ない」と返した。
(……諦めが悪いのが長所、と昨夜言っていた)
笛が鳴った。
両チームが同時に引いた。最初は均衡していた。
一組が強かった。じりじりと中央のマークが一組側に動いていく。二年A組のメンバーが唸り声を上げた。
そのとき美紀が、一段階ギアを上げた。
低い姿勢で、膝を曲げて、体重を全部後ろに乗せた。足が地面を踏み込む。脚の筋肉がはっきり見えるくらい力が入っていた。百四十九センチの体で、想像以上の引力が綱に伝わった。
マークが止まった。
それから、少しずつ戻り始めた。
クラスの応援が上がった。
マークが中央を越えた。一組のメンバーが踏ん張るが、もう戻らない。
笛が鳴って、二年A組の勝ちが決まった。
「美紀ちゃん強すぎ!!」
美香の声が飛んだ。美紀が「うるさい」と言いながら、はあはあと息を整えていた。いつも冷静な顔が、珍しく上気していた。
(……本当に全力だったな)
「美紀」
「……なに」
「諦めが悪いの、今日は良かったな」
美紀が少しの間俺を見て、それからふいと顔を逸らした。
「……当然のことを言っただけ」
耳が少し赤かった。
*
昼休み。
テントの下で三人で弁当を食べた。今日は母さんが作ってくれた弁当で、三人分まとめて作ってあった。唐揚げ、卵焼き、プチトマト。いつもの弁当だ。
「唐揚げうまい! 母さんの唐揚げ好き!」
美香が元気よく言った。午前中の全力疾走の疲れなど微塵も感じさせない回復力だった。
「美香、リレーでかなり速かったな」
「でしょ! 私、短距離は自信あるんだよね。卓球で足腰鍛えてるから」
「最初は心配した」
「なんで!? 見た目で判断しないでよ!」
「百四十九センチだから」
「身長は関係ない! むしろ重心が低い分有利なの!」
美香がむくれた。俺は「そうだな、すまん」と言った。本当にそう思ったから。
「美紀は綱引きのとき、すごかった」
「……そう?」
「チームの中でいちばん粘ってた」
「……体重が軽い分、ほかの人より踏ん張らないと意味がないから」
「それができてたってことだ」
美紀がまた顔を逸らした。今度も耳が赤かった。
(……美紀は褒めると照れる。それを本人は気づいていないらしい)
「ねえねえ、午後の騎馬戦、誰が騎乗するか決まった?」
美香が聞いた。騎馬戦は四人一組で、三人が馬を作って一人が上に乗る種目だ。
「まだ決まってない」
「じゃあ私が乗る!」
「は? なんで」
「だって私が一番軽いじゃん! 博之が馬の前担当で!」
「俺が前か」
「一番力あるでしょ、博之が前の方が安定するじゃん!」
美紀が「……美香の言う通りかもしれない」と言った。
(……美紀まで同意するのか)
*
午後の騎馬戦。
美香が俺の肩に乗った。
(……軽い。百四十九センチ、体重は公表されていないが確かに軽い。走れなくはない)
騎馬戦は制限時間内に相手の騎手のはちまきを取れば勝ち、というルールだ。
美香は肩の上でびっくりするほど冷静だった。周囲の状況を見回しながら、俺の肩を膝で挟んで体を安定させた。
「博之、左に三組の騎馬。まず右に回り込んで」
「わかった」
「そのまま一組の騎馬が来たら止まって。私が上から取る」
「指示が細かいな」
「作戦がなきゃ勝てないでしょ!」
美香が肩の上で言った。
美紀は別の騎馬で参謀役をやっていた。隣の騎馬にこそこそと指示を出しながら、自分も牽制のために動いている。
(……二人とも、全力だな)
美香の指示通りに動いた。右に回り込んで、相手の騎馬が来たところで止まった。美香が上から伸ばした手が、相手の騎手のはちまきをするりと取った。
「やった!」
美香が喜んで、肩の上で体を揺らした。
(……揺らすな、落ちる)
「揺らすな、落ちるぞ」
「大丈夫大丈夫! 信頼してるから!」
信頼されているのはわかったが、それとこれとは話が別だった。
他のクラスが「あの三人強い」とぼやいているのが聞こえた。野田が「チートじゃない?」と言っていた。俺たちのことを言っているらしかった。
(……野田、お前もA組だろ)
*
最終種目が終わったとき、二年A組の点数が一位だった。
得点板に「一位 二年A組」と出た瞬間、クラス全体から歓声が上がった。
「やったあああ!!!」
美香が叫んで、俺に飛びついてきた。
飛びついてきた。
正面から、遠慮なく、全力で。
(……おい)
(……体育祭中に飛びつくな)
(……周りから見てどういう状況かわかってるか)
俺は反射的に受け止めた。百四十九センチが腕の中に収まった。やわらかかった。あたたかかった。
(……これは反射的に受け止めてしまったが、正解だったのか判断に迷う)
「博之! やったよ! 一位だよ!」
「ああ、わかった。離れろ」
「えー! もう少しー!」
「クラスの前で何してるんだ」
「喜んでるだけじゃん!」
美香がそう言って、ようやく離れた。
顔が赤くなっていたが、それは走り回った疲れのせいか、あるいは別の理由があるのか、俺には判断できなかった。
それから俺は、少し離れたところに美紀がいるのに気づいた。
美紀は、今のやり取りを見ていた。
目が笑っていなかった。
でも怒っているわけでもなかった。ただ、静かに、見ていた。
視線が合った。
美紀が、少し目を細めた。それから、ゆっくりと俺から視線を外した。
「……よかったね」
美紀が小さく言った。
俺に向けてか、自分に向けてか、わからない声で。
(……美紀)
*
体育祭が終わって、片付けをして、三人で帰り道を歩いた。
美香はずっと喋っていた。リレーのことや騎馬戦のことや、野田くんがはちまきを斜めに巻いていたことや、先生の本気の顔が面白かったことや。
俺はそれを半分聞きながら歩いた。
美紀は少し黙っていた。
疲れているのかと思ったが、顔色は悪くなかった。歩き方もいつも通りだった。ただ、静かだった。
「美紀、疲れたか」
俺が聞くと、美紀が少し遅れて俺の方を向いた。
「……疲れた。でも悪くない」
「綱引き、本当によくやった」
美紀がまた顔を逸らした。でも今度は、横顔が少し笑っていた。
こっそり笑っている、という感じの、小さな笑い方だった。
(……笑ってた。美紀が、ちゃんと笑ってた)
(……いつもの「口元が少し緩む」じゃなくて、もう少しだけ、はっきりした笑い方だった)
それを見て、俺の中で何かが動いた。
美紀の笑顔を、少し長く見ていた。
(……いつまでも見ていたいと思った。それに気づいて、慌てて前を向いた)
美香がそんな俺に気づいていなかったのが、今日ばかりは助かった。
*
家に帰って、風呂に入って、ベッドに倒れ込んだ。
今日は本当に疲れた。体が重かった。
それでも、悪くない一日だった。
美香が全力で走った。
美紀が全力で踏ん張った。
俺も全力で走った。
三人でクラスの勝利を喜んだ。
(……こういう日が好きだ)
(……三人で全力で、同じことを目指している、こういう日が)
美紀が笑っていた顔が、また浮かんだ。
横顔で、こっそり笑っていた顔。
(……かわいいと思った。それに気づいたとき、自分でも少し驚いた)
(……ずっと一緒にいたのに。十七年間ずっと知っていたのに)
(……なんで今更そんなことを思うんだ、俺は)
今更、という言葉がひっかかった。
今更じゃないのかもしれない。
ずっとそうだったのかもしれない。ただ俺が気づいていなかっただけで。
(……美香のことも、同じかもしれない)
(……ずっとそこにいて、ずっと知っていて、ずっと大切で)
(……それが「好き」というものだったとしたら)
答えが出そうで、出なかった。
疲れた頭では、そこまで考えられなかった。
目を閉じると、すぐに眠くなってきた。
今夜は誰も来なかった。体育祭の疲れで、二人とも早く寝たのだろう。
(……静かだ)
(……でも今日の疲れは、気持ちのいい疲れだった)
眠りに落ちる直前、美紀の笑顔と、美香が飛びついてきた感触が、交互に頭をよぎった。
(……どちらも、大切だ)
(……それだけは、はっきりしている)
体育祭の一日が、静かに終わった。
◇ ◇ ◇
― 第七話「百四十九センチの全力」 了 ―
次話:第八話「僕の部屋には秘密がある」へ続く
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