第六話
体育祭前夜、どちらかが言った
五月の半ば。
体育祭の前日は、毎年なんとなく落ち着かない空気が学校に漂う。
放課後は各クラスの出し物や応援の最終練習で、グラウンドも体育館も騒がしかった。俺たちのクラスは二年A組で、クラス対抗リレーと綱引きと騎馬戦に出る。
美香は「絶対優勝する!」と朝から言っていて、美紀は「騒がしいのはやめなさい」と言いながら自分もしっかり作戦を考えていた。
(……美紀、騒がしくないだけで同じくらい本気だな)
帰り際に野田が「桐島、明日頼むな」と言ってきた。
「何を頼むんだ」
「リレーのアンカー、お前だろ。クラスの命運を握ってる」
「大げさだ」
「体育祭の命運は大げさじゃない」
野田が真剣な顔で言った。こういうときの野田は本当に体育祭が好きなんだなとわかる。
帰り道、三人で並んで歩いた。
五月の夕方はもう暑くて、制服のシャツが少し蒸れる感じがした。
「明日、楽しみだね」
美香が言った。
「緊張はしてないか」
「してない! 私、体育祭好きだし」
「お前は何でも好きだな」
「嫌いなことが少ないのは美徳だと思う」
美紀が「……一理ある」と言った。珍しく美香の意見に同意した。
「美紀は? 緊張するか」
「……しない。したとしても、体に出さなければ同じことだから」
「それは緊張してるってことじゃないか」
「……うるさい」
美紀がそっぽを向いた。俺は少し笑った。
*
夜、九時を過ぎた頃。
俺が明日の体育祭に向けて、一応荷物を確認していると、合鍵の音がした。
今日来るとしたら、順番からすると美紀だ。
ドアがノックされた。二回。
「入っていい?」
「ああ」
美紀が入ってきた。
部屋着のままで、髪をおろしている。手に文庫本を一冊持っていた。
「読んでてもいい?」
「部屋で読めばいいだろ」
「……自分の部屋だと集中できない」
「なんでだ」
「……美香がうるさいから」
(……美香、前日の夜まで騒いでいるのか)
美紀がベッドの端に腰を下ろして、文庫本を開いた。俺は荷物の確認を続けた。
二人して黙って、それぞれのことをした。
静かだった。不思議と、居心地が悪くなかった。
しばらくして、美紀が本から目を上げた。
「博之」
「なに」
「……緊張してる?」
さっき俺が美紀に聞いたのと、同じことを聞いてきた。
「少しな」
「アンカーだから?」
「まあ。外したくはない」
「……走るの速いじゃない、博之は」
「そうでもない」
「ほかのクラスのアンカーより速い。見てたから分かる」
(……見てたのか。そういうことをさらっと言う)
「美紀こそ、綱引きで力出せるか。細いのに」
「……体重の話をしてる?」
「してない。体幹の話をしてる」
「……問題ない。諦めが悪いのが私の長所だから」
俺は少し笑った。
美紀が「笑うな」と言ったが、口元が緩んでいた。
*
準備が終わって、俺はベッドに横になった。
美紀はまだ本を読んでいた。
しばらくして、美紀がぱたんと本を閉じた。
「……眠い」
「そうか」
「横になっていい?」
「いつもそうしてるだろ」
美紀が「……そうね」と言って、俺の隣に横になった。
天井を見て、しばらく二人で黙っていた。
部屋の電気を消して、電気スタンドだけにした。
薄明かりの中で、美紀の横顔が見えた。天井を見ている。目が開いている。
「眠れないか」
「……少し、考えてることがある」
「体育祭のか?」
「……それだけじゃない」
美紀がそれだけ言って、また黙った。
俺も何も言わなかった。
(……美紀が「まだ言えない」と言っていたことを、今も考えているのかもしれない)
しばらく経って。
美紀が、ゆっくりと俺の方に向いた。
天井ではなく、俺を見ていた。
(……美紀?)
「博之」
「なに」
「……聞いてもいい?」
「なにを」
美紀が少し息を吸った。
俺は美紀を見た。
薄明かりの中で、美紀の目が真剣だった。
「……博之は、私のことどう思ってる?」
俺の心臓が、一拍だけ遅れた。
美紀が続けた。
「家族みたいなもの、ってだけじゃないよね? 最近。
俺は何も言えなかった。
言えなかったのではなく、正確には、何と言えばいいかがわからなかった。
(……どう思ってる)
(……大切だ。それは間違いない。でも「家族みたいなもの」かと言われると、今はもうそれだけじゃない気がしている)
(……でもそれを言葉にするには、もう少し時間が必要で)
俺が答えを探しているうちに。
美紀の呼吸が、ゆっくりになった。
目が、閉じた。
規則正しい寝息が、聞こえてきた。
(……眠った?)
(……眠った)
(……今、聞いたよな。絶対に聞いたよな、美紀)
俺は天井を見た。
美紀の問いが、部屋の中に残っていた。
答えのないまま、宙に浮いていた。
「……博之は、私のことどう思ってる?」
「家族みたいなもの、ってだけじゃないよね? 最近。」
(……ちゃんと答えたかった)
(……でも美紀が眠ってしまった)
(……それは、美紀が俺の答えを「怖かった」からかもしれないし、本当にただ眠かっただけかもしれない)
どちらかは、わからなかった。
わからないまま、夜が深くなった。
*
結局、俺はほとんど眠れなかった。
美紀はよく眠っていた。隣で規則正しく寝息を立てながら、いつの間にか俺の方に向いて、少し丸くなっていた。
例の手は、今朝はそこまでではなかった。腰のあたりをぼんやりと掴んでいる程度だった。
(……今夜はそこじゃなくて、別のところが落ち着かない)
美紀の問いが、ずっと頭を離れなかった。
「どう思ってる?」
(……どう思ってるんだろう、俺は)
(……大切だ。ずっと一緒にいたい。困ったときに隣にいてほしい。笑ってほしい。眠れないなら来い、と言いたい)
(……それが「家族みたいなもの」かというと、たぶん、違う)
でもそれを声に出せるかというと。
美紀に向かって言えるかというと。
美香のこともある。
どちらかに言えば、どちらかを傷つける。
(……それがわかっているから、言えないでいる)
(……でも、いつまでも言えないままでいることも、違う気がする)
窓の外が、少しずつ明るくなってきた。
体育祭の朝が来た。
*
六時前に美紀が目を覚ました。
目を開けて、少し周囲を確認して、俺がまだ起きているのを見た。
「……おはよう」
「ああ、おはよう」
「眠れた?」
「少し」
美紀が起き上がった。髪を整えて、少し考えるような顔をした。
俺は美紀を見た。
昨夜の問いのことを、美紀が言い出すかと思った。
美紀は何も言わなかった。
ただ「……おなかすいた」とだけ言って、部屋を出ていった。
(……なかったことにした?)
(……違う。美紀は「まだいい」と思ったんだろう)
(……聞いたこと自体は本当で、でも眠ってしまったことで、タイミングを失った)
(……美紀らしい、といえばそうかもしれない)
俺も起き上がった。
今日は体育祭だ。
美紀の問いへの答えは、まだ出ていない。
でも今日は、それより先にやることがある。
(……答えは、ちゃんと出す。いつかではなく、ちゃんと)
(……ただし今日は、体育祭で勝つことを考える)
俺は顔を洗いに洗面所へ向かった。
廊下から、美紀が台所で朝ごはんの準備をしている音が聞こえた。
それから、下から美香の「おはよー!」という元気な声が聞こえてきた。
今日も、三人の朝が始まった。
*
学校に着くと、グラウンドにはすでにテントが張られていて、各クラスのカラーのはちまきをした生徒たちが動き回っていた。
二年A組のカラーは青だった。俺も美紀も美香も、青いはちまきを頭に巻いた。
「はちまきってなんか気合入るよね!」
美香が言った。確かに少しそういう気分になる。
「美紀、巻き方きれい」
「当然。こういうのはきちんとやる」
「私も手伝おうか?」
「……自分でできる」
「はちまきのことじゃなくて、今日の体育祭全体のこと」
「……美香に仕切られると騒がしくなるから、自分でやる」
「ひどい!」
美香が口を尖らせた。俺は「美香が仕切ると確かに騒がしい」と思ったが、口には出さなかった。
開会式が始まった。全校生徒が整列して、校長の話を聞いた。
俺は整列しながら、隣の美紀をちらりと見た。
美紀は真っ直ぐ前を向いていた。昨夜のことは、顔に出ていなかった。
(……美紀はこういうとき強い。内側で何を考えていても、外には出さない)
開会式が終わった。
美香が「よっし! やるぞ!」と言って、拳を握った。
美紀が「……騒がしい」と言いながら、口元が少し上がっていた。
俺も、少しだけ気持ちが高ぶってきた。
*
その日の夜。
体育祭が終わって、家に帰ってきた。
疲れた体でベッドに倒れ込んだ。
今日のことを思い返した。
今俺の頭にあるのは、昨夜のことだった。
「博之は、私のことどう思ってる?」
美紀の声が、また浮かんだ。
(……答えを出さなければならない日が、来る)
(……それはわかっている)
(……美紀も、美香も、「今は」と言いながら待っている)
俺はため息をついた。
天井を見た。
今日は誰も来ていない。体育祭の疲れで、二人とも早く寝たのだろう。
(……静かだ)
(……静かだと、考えてしまう)
美紀の問いに、俺はまだ答えていない。
美香の「ちょっとだけ答えてほしかった」にも、まだ答えていない。
(……いつかではなく、ちゃんと向き合う)
(……それだけは、決めた)
目を閉じると、すぐに眠くなってきた。
今日は体育祭があった。疲れた。
でも、悪くない疲れ方だった。
眠りに落ちる直前、美紀の声がもう一度、頭をよぎった。
「家族みたいなもの、ってだけじゃないよね? 最近。」
(……違う。お前のことは、もうそれだけじゃない)
(……でもそれを言えるのは、もう少し先だ)
春が終わって、夏が来ようとしていた。
◇ ◇ ◇
― 第六話「体育祭前夜、どちらかが言った」 了 ―
次話:第七話「百四十九センチの全力」へ続く
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