第五話
制服と桜と、三人の距離
四月も終わりに差し掛かった頃、桜が散り始めた。
通学路の桜並木は、満開の頃より今の方が好きだと俺は思っている。
花びらが風に舞って、地面に薄く積もる。歩くたびに足元が白とピンクに染まって、空気ごとやわらかい色をしている。満開のときは「綺麗だ」と思う。でも散り始めると、なぜか少し胸が締まる。
もうすぐ終わる、という感覚が、綺麗なものをもっと綺麗に見せる気がした。
今朝もいつも通りに三人で登校した。
美香が俺の右隣を歩いて、美紀が左隣を歩いた。美香は空を見上げながら、花びらが舞うたびに「わあ」とか「きれい」とか言っていた。美紀は黙って前を向いて歩いていた。
「桜って散るの早いね」
美香が言った。
「毎年そう思う」
「だから綺麗なんでしょ」
美紀がさらりと返した。
俺は二人の横顔を交互に見た。
散るから綺麗、か。
(……満開のとき俺が言ったことと同じだな。美紀はあのとき「そっか」と言っていた。覚えていたのかもしれない)
「博之はどう思う? 桜が散るの」
美香が聞いてきた。
「惜しい、とは思う」
「惜しい?」
「綺麗なものが終わっていくのは、惜しい」
美香が「ふうん」と言った。
美紀は何も言わなかった。でも少し、歩く速度が落ちた気がした。
*
その日の授業はとくに何事もなかった。
英語、数学、現代文、それから体育。ひととおりこなして、昼休みになった。
昼ごはんは、三人でいつもの場所——教室の窓際の席に集まって食べた。美香が「今日のお弁当はハンバーグ!」と言いながら蓋を開けて、美紀が「……また肉ばっかり」と言い、美香が「いいじゃん肉で」と言った。
(……このやり取り、先週も聞いた気がする)
「ねえ、今度の日曜って暇?」
美香が俺に聞いた。
「とくに予定はないが」
「じゃあ三人でどっか行こう。天気よさそうだし」
「どこに」
「川沿いの公園とか。桜もまだ少し残ってるかもしれないし」
美紀が「行く」と即答した。
美香が「え、お姉ちゃん珍しく即答じゃん」と言うと、美紀が「何か問題でも」と返した。
(……美紀が即答したのが少し意外だったが、顔には出さないでおく)
「博之は?」
「行く」
「決まり!」
美香がぱんと手を合わせた。こういうときの美香は、本当に嬉しそうだ。
俺は窓の外を見た。桜が風に揺れていた。
*
放課後、美香が「屋上行こう」と言い出した。
向桜高校の屋上は、普段は施錠されているが、放課後だけ開放されている日がある。今日はその日だった。
三人で屋上に上がると、夕方前の風が気持ちよかった。西の空が少しだけオレンジに染まり始めていた。
フェンスの近くに並んで立って、街を眺めた。
遠くに山が見える。手前に住宅街が広がっていて、その中に桐島家と水瀬家があるはずだった。
「ここ来るの好きなんだよね。なんか全部小さく見えて、すっきりする」
美香が言った。
「そうか」
「博之は好き? こういう場所」
「嫌いじゃない」
「お姉ちゃんは?」
「……悪くない」
三者三様の答えが出揃った。
美香がくすくす笑った。「三人ともバラバラだ」と言った。
しばらく黙って、風に当たった。
遠くで部活の声がしていた。グラウンドで野球部が走っているのが小さく見えた。
「ねえ博之、将来どうするの?」
美香が唐突に聞いてきた。
「将来って」
「大学とか、仕事とか。なんとなくでいいんだけど」
俺は少し考えた。
「まだわからない。理系に進むとは思うけど、その先は」
「理系なんだ」
「数学と物理が好きだから」
「へえ。美紀ちゃんは?」
美紀が少し間を置いてから答えた。
「……文学部に行きたい。国語の先生になるかもしれない」
「国語の先生! 似合う!」
「そう?」
「めちゃくちゃ似合う。厳しくて丁寧な先生になりそう」
美紀が「……厳しいは余計」と言ったが、口元が少し緩んでいた。
「美香は?」
「私はまだぜんぜん決まってないんだよね。やりたいことがありすぎて絞れない」
「ありすぎるのか」
「うん。スポーツ関係もいいし、お菓子作りも好きだし、なんか人と関わる仕事もいいなと思って」
「全部方向が違うな」
「だから困ってんの!」
美香が頭を抱えた。美紀が「まだ二年生だから焦らなくていい」と言った。珍しく姉らしいことを言った。
*
風がひと際強く吹いて、三人の髪を揺らした。
美香が「うわ」と声を上げて、乱れた前髪を直した。美紀も同じように髪を直した。二人がほぼ同じ動作をするのを見て、俺は思わず少し笑った。
「なに笑ってんの」
「二人とも同じ動きをしてた」
「双子だから当然じゃん」
「美香はそう思ってるのか」
「当然でしょ。同じ遺伝子なんだから」
美紀が「遺伝子は関係ない」と言った。「習慣よ」と続けた。
「習慣?」
「ずっと一緒に育ったから、同じ癖がついた。それだけ」
「でもそれって、遺伝子より濃い気がするけど」
美紀が少し黙った。
「……そうかもしれない」
また風が吹いた。今度はやわらかい風だった。
遠くの山が、夕陽を受けてうっすら橙に染まっていた。
美紀がフェンスに両手を置いて、遠くを見ながらぽつりと言った。
「……一緒にいれば、なんとかなる気がする」
美香が「え? 何が?」と聞いた。
美紀が「将来のこととか、いろいろ」と答えた。
美香が「確かに!」と元気よく同意した。
俺は何も言わなかった。
(……一緒にいれば、なんとかなる)
(……誰に向けて言ったんだろう。美香に向けてか、俺に向けてか。あるいは自分に言い聞かせていたのか)
どれかはわからなかった。
でもその言葉が、なぜか胸の中にじんと残った。
*
屋上から降りて、三人で帰り始めた。
夕暮れの通学路は、朝とは違う色をしている。桜の花びらが地面に積もって、夕陽を受けてほんのり輝いていた。
しばらく歩いていると、美香が俺の手を取った。
当然のように、自然に、さりげなく。
(……あ)
美香がそのまま歩き続けた。何も言わない。手を繋いだことを意識しているのかどうかも、よくわからない顔をしている。
(……美香にとっては、これくらいは普通なのかもしれない。子供の頃から手を繋いで歩いてきたんだから)
少し遅れて、美紀が俺の左側から、距離を詰めてきた。
腕を取るわけではない。ただ、ほんの少し近づくだけだ。肩が当たるか当たらないかの距離。
でも美紀にしては、近かった。
(……美紀も、か)
三人で並んで、夕暮れの通学路を歩いた。
右に美香、左に美紀。真ん中に俺。
いつもの配置だが、今日は少し、距離が近かった。
花びらが、また風に舞った。
美香が「きれい」と言った。
美紀が「うん」と言った。
俺は何も言わなかった。
(……綺麗だと思った。でも桜じゃなくて、二人の横顔を見ていた)
(……それを言える人間では、俺はまだない)
美香の手が、少し力を込めてきた。
美紀の肩が、少しだけ俺の腕に触れた。
(……これが、俺たちの今の距離なんだろう)
(……遠くもなく、かといって踏み込みきれてもいない、この距離)
三人で歩いた。
花びらが足元に積もった。
夕陽が沈んでいった。
*
日曜日。
三人で川沿いの公園へ出かけた。
四月の最後の週末で、桜はもうほとんど散っていた。葉桜になった木の下を歩くと、青い葉が日差しをやわらかく遮った。花の時期は終わっていたが、それはそれで悪くなかった。
川沿いのベンチに三人で座った。川の水が光を反射してきらきらしていた。遠くで子供が走り回っていて、犬を連れた老人が通り過ぎた。
「平和だなあ」
美香がのんびりした声で言った。
「こういう休日、好きだよ。なんもしないでぼーっとする感じ」
「お前、いつも動き回ってる印象があるが」
「だからたまにぼーっとしたくなるの!」
美香が笑った。
美紀が川を見ながら「……私も好き、こういう日」と言った。
「ねえ、三人でこういうの、あと何回できるかな」
美香がふいに言った。
「なんだ、急に」
「いや、なんとなく。高校卒業したらバラバラになるかもじゃん。大学とか就職とか」
「まだ先の話だ」
「でも絶対来るじゃん、そういうの。だから今のうちに数えておこうかなって」
俺は川を見た。
美香の言葉が、思ったより重く響いた。
(……バラバラになる。そういう未来が、確かにある)
(……でも今はまだ、三人でいる)
「バラバラにはならないんじゃないか」
美紀が言った。
「え?」
「どこに行っても、こうして集まれる。今まで一度もバラバラになったことはない」
「まあ、そうだけど……」
「だから、数えなくていい」
美香が「……お姉ちゃん、いいこと言うじゃん」と言って笑った。
美紀が「当然のことを言っただけ」と返した。
川の水がきらきらと光っていた。
風が吹いて、葉桜の葉がさわさわと揺れた。
(……バラバラにはならない。美紀はそう言った)
(……ただ、「形」は変わるかもしれない。それが怖いのかもしれない、美香は)
俺はそれを声に出さなかった。
出さなくてもいいと思った。
*
帰り道、コンビニに寄ってアイスを買った。
美香はいちごシャーベット、美紀はあずきバー、俺はバニラ。三人で食べながら歩いた。
「あずきバーって固くない? 美紀ちゃん歯大丈夫?」
「大丈夫」
「でもめちゃくちゃ固いじゃん」
「好きだから問題ない」
「どこが好きなの」
「……甘すぎないところ」
美香が「渋い趣味だ〜」と言って笑った。美紀が「うるさい」と言ったが声のトーンは穏やかだった。
帰り道の空が、だんだん暗くなってきた。夕暮れから宵に変わる頃の、青紫の空だった。
街灯がぽつぽつと灯り始めた。
「今日楽しかった」
美香が言った。
「うん」
「博之は?」
「俺も」
「お姉ちゃんは?」
美紀が少し間を置いてから「……うん」と言った。短い返事だったが、声が柔らかかった。
水瀬家と桐島家の前に着いた。
「じゃあね、博之」
「ああ、またな」
「また明日ね!」
美香がひらひらと手を振って、水瀬家に入っていった。
美紀が少し遅れて俺の方を向いた。
「……今日、ありがとう
「礼を言うようなことじゃない」
「でも……よかった。三人でいられて」
美紀がそう言って、扉を開けた。
振り返らずに入っていった。
(……よかった、三人でいられて)
(……それは俺も思う。同じように、思う)
*
夜。
自室のベッドに横になりながら、今日一日を思い返した。
川沿いの公園。葉桜の下。
美香の「あと何回できるかな」という言葉。
美紀の「バラバラにはならない」という言葉。
二人とも、同じことを心配していて、違う言葉で表していた。
(……美香は変わることを怖がっていた。美紀は変わらないと言い切った)
(……どちらも本当のことを言っていると思う)
帰り道、美香に手を取られたこと。
美紀が少し距離を詰めてきたこと。
(……あの距離が、今の俺たちの距離だ)
(……近づきすぎず、離れすぎず。でもどちらも、確実に近くにいる)
美紀が言っていた言葉が、また頭に浮かんだ。
「一緒にいれば、なんとかなる気がする」
(……そうだといいな)
(……そう、なれるといいな)
外は静かだった。
隣の水瀬家の明かりが、カーテン越しに見えた。
電気がついている。まだ起きているらしい。
美紀か、美香か。
あるいは、両方か。
俺は目を閉じた。
今日は、誰も来なかった。
でも不思議と、それでもあたたかかった。
今日の三人の時間が、まだ体の中に残っていたから。
(……この日常が、続いてほしい)
(……続きながら、何かが変わっていくとしても)
(……それでも、続いてほしい)
春の夜が、静かに、やわらかく、更けていった。
◇ ◇ ◇
― 第五話「制服と桜と、三人の距離」 了 ―
次話:第六話「体育祭前夜、どちらかが言った」へ続く
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