第三話
隣の部屋の温度
翌日の昼休み、美紀と美香から同時に弁当が届いた。
美香のはキャラ弁だった。唐揚げのほかに卵焼きと小さなウインナーが並んでいて、ご飯の上にのりで「博之」と書いてあった。
美紀のはシンプルな二段弁当だった。唐揚げ、だし巻き卵、ほうれん草のおひたし、白ごはん。隙間に梅干しが一つ。
「どっちがうまい!?」
美香が身を乗り出してきた。
「両方うまい」
「そういう答えじゃなくて! どっちが『より』うまいか!」
「両方うまいから順位はつけられない」
美紀が「……そう」とだけ言って、自分の弁当を静かに食べ始めた。美香が「えーっ」とぶーたれながらも自分の弁当を開いた。
(……両方本当にうまかった。甲乙つけがたいという意味では嘘をついていない。ただし美紀のだし巻き卵の方が少し好みだったということは、墓まで持っていくつもりだ)
「ねえ博之、のりで名前書いたの気づいた?」
「気づいた」
「可愛くない?」
「子供っぽい」
「可愛いって言えばいいじゃん!」
美香がむくれた。俺は「うまかった」と言った。美香が「それでいいや」と言って笑った。
美紀は黙って弁当を食べていたが、俺がだし巻き卵を最後に食べたのを、ちらりと見ていた気がした。
(……気のせいかもしれない。気のせいということにしておこう)
*
その夜のことだ。
俺は自室で課題をやっていた。時刻は日付が変わったあたり。もうそろそろ寝ようかと思っていたとき、物音がした。
かすかな物音だった。
玄関の鍵が、ゆっくりと開く音。
(……来た)
足音が階段をのぼってくる。いつもより少しゆっくりした足音だった。俺の部屋の前で止まる。
ノック、は、しない。
ドアが、静かに開いた。
「……起きてた?」
美紀だった。
部屋着のままで、髪をおろしている。普段は学校でも家でも髪をまとめていることが多い美紀が、髪をおろしているのは珍しい。黒髪が肩より少し長く、さらりと流れていた。
(……珍しい格好だな)
「起きてる。どうした」
「……眠れなかった」
「入るか」
「……いい?」
「ドア開けた時点でいいもなにもないだろ」
美紀が少し眉を寄せた。反論しようとして、やめたらしい。
静かに、部屋に入ってきた。
*
美紀は俺の部屋が自分のテリトリーであるかのように、慣れた動作でベッドの端に腰を下ろした。
長年の習慣というのはそういうものだ。この部屋に来るのが当然で、ベッドに座るのが当然で、そこにいることに何の疑問も感じていない。
「課題?」
「ほぼ終わった」
「英語のプリント、難しかった?」
「そこそこ。美紀は?」
「……終わらせてから来た」
(……深夜に来る前に全部済ませてから来てるのか。それはそれで几帳面だな)
しばらく二人で黙っていた。
俺は課題の残りをやって、美紀はベッドに座って窓の外をぼんやり見ていた。
静かな時間だった。
不思議と、気まずくはなかった。
「ねえ」
美紀が唐突に言った。
「なに」
「……何でもない」
「何でもなくなかっただろ、今」
「……何でもないの」
美紀はそう言って、また窓の外を見た。
俺はそれ以上聞かなかった。聞いても答えないだろうということがわかっていたし、聞かなくてもいい気がした。
(……美紀はこういうやつだ。言いたいことはあるけど、言葉にするタイミングを自分で決める。急かしても出てこない)
「……眠い」
少しして、美紀が言った。
「そうか」
「寝ていい?」
「いつもそうしてるだろ」
美紀が少しだけ、ほんの少しだけ頬を染めた気がした。薄暗い部屋だったので、見間違いかもしれない。
美紀はベッドに横になった。
掛け布団を引き上げて、背中を向けて、丸くなった。
(……俺はどこで寝るんだ)
俺は課題を片付けて、電気スタンドだけ残して部屋の電気を消した。それからベッドに横になった。シングルベッドに二人で横になると、背中と背中がくっつく距離になる。
(……毎回これだ。毎回こうなる)
しばらくして、美紀の呼吸がゆっくりになった。
眠ったらしい。
背中から伝わってくる体温が、じんわりとあたたかかった。
(……まあ、いいか)
俺もそのうち眠った。
*
明け方に、目が覚めた。
最初は何が起きたか分からなかった。
ただ、何かが違うと感じた。
背中側からくっついていたはずの美紀が、いつの間にか向きを変えて、俺の方を向いていた。
腕が腰に回っている。
顔が、俺の背中に埋まっている。
黒髪が、首筋に当たっている。
そして。
小さな掌が。
(……あ)
(……ああ)
(……今日も、そういう感じね)
美紀の手が、しっかりと、俺の朝の状態を握っていた。
熟睡している。完全に、熟睡している。
規則正しい寝息が、俺の背中に当たっている。
(……美紀さん)
(……そこは、そういう場所なんですが)
(……ご存知ですよね、一応)
美紀は動かない。
すやすやと、幸せそうに眠っている。
俺はそっと、美紀の手を外そうとした。
すると美紀が、眠ったまま、ぎゅっと握り直した。
(……外れない)
(……というか、今の握り直しは何だ)
(……無意識なんだろうな。絶対無意識だよな。美紀がわかってやってるわけがない。わかってやってたらそれはそれで困る)
俺は諦めて、そのまま天井を見た。
朝の薄明かりが、カーテンの隙間から差し込んでいた。
美紀の体温が、じんわりと伝わってくる。
あたたかい。
(……嬉しいけど、これは本当に困る)
(……でも起こすのも悪い気がする。美紀、顔色が最近すこし悪かったし。ちゃんと眠れてなかったんだろう)
(……まあ、もう少しだけ、このままでいいか)
俺は目を閉じた。
また、うとうとし始めた。
美紀の規則正しい寝息が、子守唄みたいだった。
*
朝の六時すぎ。
美紀が目を覚ました。
俺はそのとき、もう起きていた。
美紀が身じろぎをして、それから、止まった。
止まった。
数秒の沈黙があった。
それから美紀が、ゆっくりと手を引いた。何も言わずに、静かに、引いた。
「……おはよう」
美紀の声は、いつもより少し低かった。
「ああ、おはよう」
俺も普通に返した。
二人とも、何も言わなかった。
俺は「気づいていた」とは言わなかった。美紀は「気づいていなかった」とも言わなかった。
美紀がゆっくりと起き上がった。髪を手で整えて、少しだけ乱れた寝間着を直した。
後ろから見ると、首筋がうっすら赤くなっているのが見えた。
(……気づいてたんだな、やっぱり)
「……昨日の課題、終わらせてから来てたって言ってたな」
俺が話題を変えるように言うと、美紀が少し間を置いてから答えた。
「……うん」
「真面目だな」
「……そういうのは、片付けてからじゃないと落ち着かない」
「美香なら先に来てあとで片付けるな」
「……私は美香じゃないから」
美紀が少し、口元を引き締めてそう言った。怒っているわけではない。ただ、それだけのことを、はっきりと言った。
「そうだな。美紀は美紀だ」
美紀が俺を振り返った。
少しだけ、目が丸くなった。それから視線を逸らした。
「……朝ごはん、下で食べる?」
「母さんがいればな」
「起こしていく。私が作る」
「美紀が?」
「……ダメ?」
「ダメじゃないけど、悪いだろ」
「いつもご飯をもらってるから。たまには作る側でいたい」
美紀はそれだけ言って、さっさと部屋を出ていった。
俺はしばらくベッドの上に座ったまま、美紀が出ていったドアを見ていた。
(……「私は美香じゃないから」、か)
(……当然だ。俺には最初からそう見えてる)
*
美紀が作ってくれた朝ごはんは、シンプルなトースト、目玉焼き、野菜スープだった。
母さんはまだ寝ていた。起こしに行こうとした美紀を「いい、寝かせてやれ」と俺が止めたので、二人で食べることになった。
向かい合って食卓に座ると、なんとなく妙な雰囲気になった。
いつもは三人か、もしくは家族も含めた大勢で食べることが多い。二人だけで朝ごはんを食べるのは、珍しかった。
(……落ち着かない。なんで落ち着かないんだ。美紀と二人でいること自体は珍しくないのに)
「スープ、うまい」
俺が言うと、美紀が「そう」とだけ答えた。少し間があって、
「……コンソメが切れてたからコンソメなし。ごめん」
「十分うまい」
「……コンソメがあった方がよかった」
「今でも十分うまい」
美紀が黙った。それからスープを一口飲んで、「……そう」と言った。
口元が、ほんの少し、緩んでいた。
「ね、美紀」
「なに」
「最近、顔色悪かっただろ。眠れてなかったのか」
美紀が少し固まった。
「……見てたの?」
「まあな」
「……別に、たいしたことじゃない」
「眠れないのはたいしたことだ」
美紀がスープのカップを両手で包みながら、しばらく黙っていた。
「……考えすぎると眠れなくなる。昔から」
「何を考えてる」
「……いろいろ」
「俺に言えることか」
「……まだ、言えない」
まだ。
その一言が、少し引っかかった。「言えない」じゃなくて「まだ言えない」。
(……いつかは言える、ということか)
「眠れなくなったら来ていい。声くらいは聞く」
俺が言うと、美紀が俺を見た。
少し驚いた顔だった。
「……博之の部屋で寝ていい、ってこと?」
「そうは言ってない」
「じゃあどういう意味」
「声を聞く、と言った。寝ていいとは言ってない」
「……結局寝ることになると思う」
「それはお前の問題だ」
美紀が「……そう」と言って、また口元を少し緩めた。
(……今のは笑ってたな。ちゃんと笑ってた)
*
朝ごはんを食べ終えたころ、玄関の合鍵が開く音がした。
「おはよー! ご飯あるー!?」
美香だった。
リビングに飛び込んできた美香は、テーブルに美紀と俺が向かい合って座っているのを見て、一瞬止まった。
「……あれ。美紀ちゃんいる」
「いる」
「昨日ここに来てたの?」
「……うん」
「何時に?」
「……夜中」
美香がじとっとした目で美紀を見た。美紀はスープのカップを持ったまま視線を受け止めた。
「お姉ちゃん、ずるくない?」
「何が」
「だって私が前の日に来たじゃん。翌日はお姉ちゃんの番じゃないの通常」
「そんなルールはない」
「暗黙のルールがあるでしょ!」
(……暗黙のルールがあったのか。そして俺の知らないところで運用されていたのか)
「博之ー、美紀ちゃんに何かされた?」
「されてない」
「本当に?」
「本当だ」
美香がそれでも不満そうな顔をした。美紀は涼しい顔をしていた。
「……美香、朝ごはん食べる? スープが少し残ってる」
美紀が言った。
「……食べる」
美香がぼそっと答えて、俺の隣に座った。美紀がスープを温め直して、トーストを焼いてくれた。
三人で朝ごはんを食べた。いつも通りの、騒がしくて、あたたかい朝になった。
*
その夜。
俺はベッドに横になりながら、天井を見ていた。
美紀が来た夜のことを、思い返していた。
薄暗い部屋。肩が触れる距離。美紀の、いつもより少し素直な声。
「眠れなかった。だから来た」
それだけのことなのに、なぜか頭に残る。
(……美紀がここに来るのは、ただ眠れないからなのか)
(……それとも)
考えかけて、止めた。
考えても、答えは出ない。
(……美紀は「まだ言えない」と言っていた。なら俺が先回りして考えるのは、美紀に失礼な気がする)
ただ。
今夜、美紀の体温が隣にあって。
あたたかくて。
それで眠れた。
それだけのことが、なんだか少しだけ、特別に思えた。
(……困ったな)
(……本当に、困った)
外は静かだった。
隣の水瀬家の電気が、もう消えていた。
美紀も美香も、自分の部屋で眠っているのだろう。
今夜は、一人だ。
なのに、さっきまで隣にあった体温のことを、まだ覚えていた。
(……嬉しいけど困る、の意味が、少し変わってきた気がする)
(……これは、まずいかもしれない)
春の夜が、静かに深くなっていった。
◇ ◇ ◇
― 第三話「隣の部屋の温度」 了 ―
次話:第四話「小さな手のひらの罪」へ続く
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