アフターストーリー特別編
初めてのデート、なのに緊張する理由
付き合い始めて、最初の週末。
美紀と、二人で出かけることになった。
行き先は、隣町の本屋と、その近くのカフェ。特別な場所ではなかった。
(……なのに、なんでこんなに、緊張するんだ)
*
駅で待ち合わせた。
約束の時間より、五分早く着いた。
ホームのベンチに座って待っていると、改札の方から、見慣れた、でも、いつもとは違う姿が、近づいてきた。
美紀は、いつもの制服ではなく、私服だった。
紺のコートに、白いマフラー。髪は、いつもより、丁寧に整えられていた。
見慣れているはずの美紀なのに、なぜか、新鮮に見えた。
「……何、見てるの」
「いや、私服、新鮮だなと思って」
「……毎日、家でも私服でしょ」
「そうだけど、なんか違う」
美紀が、少し、頬を染めた。
「……今日のために、いつもより、ちゃんと選んだから」
「そうだったのか」
「……言わなくていいのに、気づくんだから、博之は」
美紀が、小さく、笑った。
*
電車に乗って、隣町まで、二十分ほど。
窓際の席に、並んで座った。
冬の景色が、車窓を、流れていった。
「……こうして電車に乗るの、久しぶりかも」
美紀が、窓の外を見ながら、言った。
「いつも歩きか自転車だしな」
「うん。なんか、旅行みたいで、ちょっと楽しい」
美紀が、隣町への電車に乗るだけで、こんなに嬉しそうにするとは思わなかった。
(……こういう、ちょっとしたことに、喜びを見つけるところが、美紀らしい)
*
隣町に着いて、駅前の通りを、二人で歩いた。
商店街には、クリーニング屋、パン屋、小さな雑貨屋が並んでいた。
「あ、あのパン屋、人気あるって聞いたことある」
美紀が、指をさした。
店の前には、小さな行列ができていた。
「並ぶか?」
「……本屋の後で、いい?」
「分かった」
その「本屋の後で」という言い方に、なんとなく、今日一日の計画を、すでに頭の中で組み立てている美紀らしさが、出ていた。
(……美紀は、こういうところ、ちゃんとしてるよな)
*
本屋に入ると、美紀の目が、すぐに、文芸書のコーナーに向かった。
迷いのない足取りで、棚の前に立った。
美紀が、いつも読んでいる作家の新作を見つけた。
美紀は、夢中になって、立ち読みを始めた。
その横顔が、真剣で、いつもの教室での顔とは、また違う、知的な表情をしていた。
(……こういう顔、学校じゃ、あまり見ない)
(……俺は、まだ、美紀の知らない顔を、たくさん知っていくんだろうな)
「……買わないのか」
「うーん、迷ってる」
「俺が買う」
「え、いいよ自分で」
「クリスマスのお返し、まだしてないから」
美紀が、少し、固まった。
「……お返しって」
「お前は、馬鹿と言ってきただけだろ」
「……それは、お返しじゃないでしょ」
「いや、ちゃんと、もらった」
美紀が、噴き出すように、笑った。
「……博之、その理屈、おかしいから」
「おかしくない。お前が言った『馬鹿』は、ちゃんと、嬉しいプレゼントだった」
「……変なところで、頑固だよね」
美紀が、笑いながら、それでも、本を、レジに持っていく俺を、止めなかった。
*
本屋を出て、さっきのパン屋に向かった。
行列は、少し短くなっていた。
並んでいる間、美紀が、ふと、言った。
「……こうやって並ぶの、なんか好き」
「並ぶのが?」
「うん。何かを待つ時間が、嫌いじゃない」
「美紀らしいな」
「……どういう意味」
「待つのが得意なんだろうな、って」
美紀が、少し、目を伏せた。
その表情に、これまでの、たくさんの「待てる」という言葉が、重なって見えた気がした。
「……そうかもしれない」
(……美紀は、ずっと、待つことに、慣れていたんだろう)
(……これからは、待たせる時間より、一緒にいる時間を、増やしていきたい)
*
順番が来て、メロンパンと、クロワッサンを買った。
二人で、半分ずつ、分け合った。
「……あったかい」
美紀が、メロンパンを、両手で包みながら、言った。
「うまいな」
「うん。並んだ価値、あった」
*
昼食は、近くの小さな定食屋に入った。
美紀は、生姜焼き定食。俺は、唐揚げ定食。
「……家族でこういうとこ来るのと、二人で来るのと、なんか違う」
美紀が、味噌汁を一口飲んで、言った。
「どう違う」
「……うまく言えないけど。なんか、特別な感じがする」
俺は、それを聞いて、少し、嬉しくなった。
「同じ定食屋なのにな」
「……場所じゃないんだよ、たぶん」
美紀が、まっすぐに、俺を見て、言った。
「博之と一緒にいることが、特別なんだと思う」
(……美紀)
(……そういうことを、急に、まっすぐに言うのは、反則だ)
俺は、何も言えずに、唐揚げを食べた。
美紀が、それを見て、くすくすと、笑っていた。
*
午後、カフェに入った。
窓際の、二人掛けの席に座った。
美紀が、ホットチョコレートを注文した。俺は、コーヒーにした。
「……付き合うって、こういうことなんだね」
美紀が、カップを両手で包みながら、言った。
「どういう意味だ」
「なんでもないことが、特別に思える。今日とか、本屋に行って、パン買って、定食食べただけなのに」
俺は、少し、考えてから、答えた。
「俺も、同じこと思ってた」
「……ふふ」
美紀が、嬉しそうに、笑った。
*
しばらく、二人で、他愛のない話をした。
今日見た本屋の話、パン屋の行列の話、来週のテストの話。
特別なことを話さなくても、ただ、二人でいる時間が、ゆっくりと、流れていった。
「……ねえ、博之」
美紀が、少し、声を、落とした。
「なに」
「今日、楽しい?」
「ああ。楽しい」
「……よかった」
美紀が、少し、安心したように、息をついた。
「……実は、ずっと、ちゃんとデートできてるか、不安だった」
「なんでだ」
「……分からない。初めてだから」
美紀が、正直に、言った。
(……美紀も、緊張してたんだな)
(……俺だけじゃなかった)
*
夕方、店を出た。
冬の日は短く、もう、空が、薄い橙色に染まり始めていた。
帰り道、二人で、駅まで、ゆっくりと歩いた。
商店街の灯りが、少しずつ、点り始めていた。
「……美香に、見つかったら、何か言われるかな」
「絶対言われる」
「……だろうね」
二人で、少し、笑った。
*
駅前の小さな公園を通りかかった。
夕方の冷たい風が、二人の頬を、撫でていった。
美紀が、ふと、足を止めた。
「……博之」
「なに」
美紀が、俺の方を、向いた。
夕暮れの、橙色の光が、美紀の顔を、柔らかく、照らしていた。
「今日、本当に、楽しかった」
「俺も」
「……これから、こういう日が、たくさん、増えるといいな」
「増やす」
俺は、はっきりと、言った。
美紀が、少し、目を、見開いた。
それから、嬉しそうに、笑った。
*
しばらく、二人で、見つめ合った。
公園には、もう、誰もいなかった。
夕暮れの風だけが、二人の間を、静かに、通り過ぎていった。
(……今しかない、と思った)
俺は、ゆっくりと、美紀の方に、顔を、寄せた。
美紀が、それに、気づいた。
目を、少し、見開いて、それから、ゆっくりと、閉じた。
*
唇が、触れた。
クリスマスイブの夜、頬に交わしたものとは、まったく、違う、感触だった。
短い、それでも、確かな、キスだった。
唇が、離れた。
美紀の頬が、夕暮れの光よりも、もっと、赤く、染まっていた。
「……博之」
美紀が、小さく、声を、出した。
「……今、私たち」
「ああ」
「……初めて、だった」
「俺も」
二人で、しばらく、何も言わずに、見つめ合っていた。
夕暮れの風が、二人の間を、また、通り過ぎていった。
*
「……もう一回、していい?」
俺が、聞くと、美紀が、小さく、頷いた。
俺は、もう一度、美紀に、口づけた。
今度は、さっきよりも、少しだけ、長く。
美紀の手が、そっと、俺のコートの袖を、掴んだ。
(……美紀)
(……これから、こういう瞬間を、もっと、たくさん、積み重ねていく)
*
唇が、離れた。
美紀が、少し、照れたように、笑った。
「……公園で、こんなこと、しちゃったね」
「誰も見てなかった」
「……それは、よかった」
二人で、また、笑った。
*
駅まで、二人で、手を繋いで、歩いた。
冬の夕暮れの中、二人の影が、長く、伸びていた。
「……今日のこと、忘れないでね」
美紀が、俺の手を、少し、強く、握りながら、言った。
「忘れない」
「……絶対?」
「絶対」
美紀が、満足そうに、頷いた。
*
電車に乗って、帰る間、美紀は、俺の肩に、そっと、頭を、預けていた。
冬の車窓を、夕暮れの景色が、流れていった。
(……これからも、こういう日常が、続いていくんだろう)
(……なんでもない時間が、特別になる。それが、好きということなのかもしれない)
俺は、美紀の頭に、そっと、頬を、寄せた。
電車の揺れが、二人を、優しく、揺らしていた。
冬の夕暮れが、ゆっくりと、夜へと、変わっていった。
二人だけの、初めての、特別な一日が、静かに、終わりに、近づいていった。
◇ ◇ ◇
― アフターストーリー特別編 了 ―
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