第五話
初雪の日、博之は走った。
十二月。
初雪が降った日の朝だった。
俺は、いつものように、早朝ランニングに出た。
雪は、もう、降り止んでいた。でも、地面には、薄く、白い雪が積もっていた。
*
走りながら、ずっと、考えていた。
美紀のこと。
美香のこと。
幼い頃の、三人のこと。
(……どちらが好きか)
その問いを、ずっと、自分に投げかけてきた。
でも、走りながら、ふと、別の問いが、頭に浮かんだ。
(……どちらと、生きていきたいか)
その瞬間、何かが、変わった気がした。
*
好きか、という問いには、ずっと、「どちらも」としか、答えられなかった。
でも、「どちらと生きていきたいか」という問いには、もっと、具体的なイメージが、自然と、頭の中に浮かんできた。
毎朝、目を覚ましたとき、隣にいてほしいのは、誰なのか。
将来、何かに迷ったとき、一番に話したいのは、誰なのか。
年を取って、何でもないただの日常を、一緒に過ごしたいのは、誰なのか。
走りながら、その答えが、少しずつ、輪郭を持ち始めていた。
*
気づいたら、水瀬家の前に立っていた。
まだ、朝六時だった。
(……何をしてるんだ、俺は)
でも、足は、もう、インターホンに伸びていた。
俺は、インターホンを押した。
*
しばらくして、玄関の扉が開いた。
出てきたのは、美紀だった。
寝ぼけ眼で、パジャマのままだった。
「……博之? なんで?」
「走ってたら来てた」
「馬鹿じゃないの」
「そうかもしれない」
美紀が、少し笑った。
寝起きの、無防備な笑顔だった。
*
「……入る?」
美紀が言った。
「いや」
「なんで」
「……まだ、言えない。でも、もうすぐ言える」
美紀が、じっと、俺を見た。
その目に、何か、確かなものを見つけたような、表情があった。
「……分かった」
美紀が、それだけ言って、扉を閉めた。
(……美紀)
(……お前は、いつも、必要な分だけ、聞いて、必要じゃない分は、聞かない)
*
俺は、また、走り出した。
雪の上を、足跡を残しながら、走った。
答えは、もう、分かっていた。
(……美紀と、生きていきたい)
その言葉が、自分の中で、はっきりと、形を持った瞬間、不思議なほど、心が静かになった。
*
でも、その静かさの中に、別の感情も、確かにあった。
(……美香を、傷つける)
(……それは、避けられない)
走るペースが、少し、落ちた。
息が、白く、空気に溶けていった。
美香の笑顔が、頭に浮かんだ。
美香の涙も、頭に浮かんだ。
「もし、選ばれなかったとしても、博之のこと、嫌いになったりしないから」
その言葉も、思い出した。
*
(……美香は、もう、覚悟している)
(……俺が、その覚悟に、誠実に応えなければならない)
俺は、また、ペースを上げた。
冷たい空気が、肺に入ってくるのが、心地よかった。
走り続けて、いつもの公園を通り過ぎた。
雪をかぶった木々が、朝日に照らされて、白く光っていた。
*
走りながら、もう一度、自分に問いかけた。
(……本当に、これでいいのか)
答えは、変わらなかった。
(……美紀と、生きていきたい)
(……それでも、美香のことは、ずっと、大切な人として、変わらず、想っていく)
二つの想いは、矛盾しているようで、矛盾していなかった。
俺の中では、ちゃんと、両方が、同時に、本当のことだった。
*
家の近くまで戻ってきた。
雪が、まだ、薄く、道に残っていた。
俺は、立ち止まって、息を整えた。
白い息が、空に向かって、消えていった。
(……もうすぐ言える、と美紀に言った)
(……もうすぐ、じゃなくて、もう、言える)
でも、誰に、どう伝えるべきか。
その順番と、方法を、ちゃんと考える必要があった。
*
家に戻って、シャワーを浴びた。
体の冷えが、ゆっくりと、温かさに変わっていった。
俺は、自分の部屋に戻って、机に向かった。
ノートを開いた。
美香に、どう伝えるべきか。それを考えるためのノートだった。
今度は、少しだけ、書けた。
「クリスマスイブに、伝える」
(……クリスマスイブは、毎年、三人で過ごす日だ)
(……その日の前夜か、当日の終わりに、ちゃんと、伝える)
窓の外を見た。
雪は、もう、すっかり溶けていた。
でも、空は、まだ、冬の重たい雲に覆われていた。
答えは、もう、出ていた。
あとは、伝える勇気と、誠実さだけだった。
◇ ◇ ◇
― 第五話「初雪の日、博之は走った。」 了 ―
次話:第六話「クリスマスイブ、3人の夜」へ続く
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