プロローグ
冬が来る前に、決めなければならない。
十一月の朝。
目が覚めた瞬間、わかった。
また、いる。
今日は、美香だった。
でも、俺は、今日は違った。
目が覚めた瞬間から、胸の中に、重いものがあった。
*
「……おはよ、博之」
美香が、眠そうに言った。
「ああ」
「なんか、顔こわい」
「そうか」
「……うん。なんか、今日違う感じがする」
美香が、俺の腕をぎゅっと掴んだまま、また目を閉じた。
俺は、その小さな手を見つめながら、思った。
(……美香)
(……お前の鋭さは、いつも、俺を見透かしてくる)
*
文化祭の後、美紀に「好きだ」と言った。
美紀も「私も、好きだよ」と答えてくれた。
あれから、もう少しで一ヶ月が経つ。
でも、美香には、まだ何も伝えていなかった。
(……伝えなければならない)
(……ずっと、わかっていた)
(……でも、伝えるということは、美香を傷つけるということでもある)
その怖さが、ずっと、俺の中にあった。
*
美香の規則正しい寝息が、また聞こえてきた。
眠ってしまったらしい。
俺は、天井を見上げた。
十一月の朝の光は、夏よりも、ずっと薄かった。
窓の外で、木枯らしが、葉を揺らす音がした。
(……冬が来る)
(……文化祭の後、『この冬が来る前に答えを出す』と決めた)
でも、まだ、何も言えていない。
美紀との気持ちは、確かめ合えた。
それでも、美香への答えを、まだ、言葉にしていない。
*
美香が、また少し身じろぎをした。
眠りながら、俺の腕を、もう少し強く掴んだ。
(……美香)
(……お前が眠っている間も、俺は、お前のことを考えている)
(……どう伝えれば、一番、お前を傷つけずに済むか。そんなことは、不可能だとわかっていても)
俺は、静かに、決意を固めていた。
*
しばらくして、美香が、もう一度、目を開けた。
「……博之」
「なに」
「今日、何か、話したいことある?」
俺は、少し、驚いた。
美香の、その問いが、まるで全部わかっているような、そんな声だったから。
「……なんでそう思うんだ」
「だって、今日、顔がこわいって言ったでしょ」
「……ああ」
「だから、何かあるんだろうなって」
(……美香)
(……お前は、いつも、こうやって、先に気づいてしまう)
*
俺は、しばらく、何も言えなかった。
言うべきことは、もう、決まっている。
でも、今、この瞬間に言うべきかどうか、迷っていた。
「……今は、まだ」
俺は、そう言った。
「……そっか」
美香が、小さく頷いた。
それ以上は、何も聞いてこなかった。
(……美香も、待ってくれている)
(……いつ、どんな形で伝えるか。それを、俺に委ねてくれている)
*
美香が、ベッドから起き上がった。
「……朝ごはん、食べよ」
「ああ」
美香が、いつも通りの調子で言った。
でも、その声に、いつもより少しだけ、覚悟のようなものが混じっている気がした。
*
俺も、ベッドから起き上がった。
窓を開けた。
十一月の冷たい風が、部屋に入ってきた。
水瀬家の方を見た。
美紀の部屋の窓が、少しだけ開いていた。
(……美紀)
(……お前との約束も、ちゃんと、果たさなければならない)
*
俺は、窓を閉めて、部屋を出た。
階段を降りながら、思った。
(……決める。今度の冬が終わるまでに、ちゃんと決める)
春、俺は「嬉しいけど困る」と思っていた。
今は、もう、その「困る」の中身が、まったく違うものになっていた。
それは、選べないことへの困惑ではなく。
誰かを傷つけることへの、避けられない覚悟だった。
*
リビングに降りると、美香が、もう朝ごはんの準備を手伝っていた。
母さんと、楽しそうに話をしている。
俺は、その光景を、しばらく見ていた。
(……この日常を、壊したくない)
(……でも、変わらないままでいることの方が、もっと怖い、と美紀は言った)
(……それは、今の俺にも、当てはまる)
俺は、リビングに足を踏み入れた。
「おはよう」
俺が言うと、美香と母さんが、同時に振り返った。
「おはよう、博之くん」
「おはよー!」
いつもの、朝の光景だった。
でも、その日常の中に、確かな変化への一歩が、もう始まっていた。
冬が来る。
答えを出すべき季節が、もう、目の前にあった。
◇ ◇ ◇
― プロローグ「冬が来る前に、決めなければならない。」 了 ―
次話:第一話「三者面談と、それぞれの将来」へ続く
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