第八話
新学期、変わったこと変わらないこと
九月になった。
二学期が始まった。
夏休みは終わったのに、何も解決していなかった。
でも、三人の間には、明らかに何かが変わっていた。
距離は近い。でも、少し緊張感がある。
うまく言葉にできない、その変化が、二学期の始まりとともに、教室の中にも持ち込まれていた。
*
始業式の朝、教室で野田が話しかけてきた。
「なあ桐島、なんか三人変わった気がする」
「そうか?」
「うん。なんか……ドキドキするよ、見てて」
野田が、よくわからないことを言った。
「ドキドキって何だ」
「説明できないけど、空気が違う。前は『仲良し三人組』って感じだったけど、今は……なんか、ピリピリしてる、でも甘い、みたいな」
俺は何も言わなかった。
野田の感覚は、案外正確だった。
(……野田にもわかるくらい、変わってるのか)
*
体育の授業で、ペアを組む場面があった。
バドミントンのペア練習だった。
「私が博之と組む!」
「私が組む」
美紀と美香が、同時に言った。
二人が、互いを見た。
「……今、同時に言った」
「お姉ちゃんも同時に言った」
気まずい空気が流れた。
結局、じゃんけんになった。
美紀がパー、美香がチョキで、美紀の勝ちだった。
「くそー」
美香が悔しそうに言って、他の女子とペアを組むことになった。
(……プールのときも、こういう取り合いがあった)
(……でも、あのときよりも、今の方が、真剣な空気がある気がする)
*
美紀とペアでバドミントンをした。
美紀のスマッシュは、思った以上に力強かった。
「……本気で打つなよ」
「手を抜く理由がない」
美紀がそう言って、また強いスマッシュを打ってきた。
俺はぎりぎりで返した。
ラリーが続いた。
お互い、無言で、シャトルを打ち合っていた。
言葉はなかったが、何か通じ合うものがある気がした。
*
放課後、美紀とふたりで帰ることになった。
美香は部活で残っていた。
九月の夕方は、夏よりも少し涼しかった。
空の色も、少しだけ違って見えた。
「夏、どうだった?」
美紀が、ふと聞いた。
「……いろいろ」
「だな」
二人とも、それ以上は言わなかった。
しばらく、黙って歩いた。
*
住宅街に差し掛かったところで、美紀が、唐突に口を開いた。
「博之」
「なに」
「……美香に、ちゃんと答えてあげてほしい」
俺は、立ち止まった。
「美香に?」
「うん。あの子……本気だから」
(……美紀)
(……自分のことより、妹のことを先に言うのか)
「美紀は」
俺が聞くと、美紀が、少し目を伏せた。
「……私は、もう少し待てる」
(……)
*
俺は、しばらく何も言えなかった。
美紀の言葉が、胸の中で重く響いていた。
「美香に、ちゃんと答えてあげてほしい」
「私は、もう少し待てる」
(……美紀は、妹を優先しようとしている)
(……自分の気持ちを、後回しにしている)
(……それが、美紀の優しさなのか、それとも……)
「……それは、お前が一番、ちゃんと向き合われたい、ってことの裏返しじゃないのか」
俺が言うと、美紀が、少し驚いた顔をした。
「……どういう意味」
「待てる、って言うのは、本当は待ちたくないけど、待つって決めてる、ってことに聞こえる」
美紀が、しばらく黙った。
それから、小さく言った。
「……そうかもしれない」
*
美紀が、また歩き出した。
俺も、隣を歩いた。
「……でも、それでいい」
美紀が、続けた。
「私が待つことで、美香がちゃんと答えをもらえるなら、それでいい」
「それは、自分を犠牲にしてないか」
「……犠牲じゃない」
美紀が、はっきりと言った。
「……美香のことが、好きだから。お姉ちゃんとして、ちゃんと、あの子を大事にしたいから」
「だから、待てる。それは、選択だから」
(……美紀)
(……お前は、本当に、強いな)
(……いや、強いというより、優しいんだろう)
*
しばらく、二人で黙って歩いた。
夕暮れの住宅街は、静かだった。
「……博之」
「なに」
「美香に、ちゃんと答え出してあげて。早めに」
美紀が、もう一度言った。
「……お前のことは」
「私のことは、いい。今は」
また、「今は」という言葉が出た。
いつもの、美紀の言葉だった。
(……美紀は、いつも『今は』と言って、自分を後回しにする)
(……でも、それは『いつか』への期待を、捨てていないということでもある)
*
桐島家と水瀬家の前に着いた。
「……今日も、ありがとう」
美紀が、小さく言った。
「礼を言うことじゃない」
「……でも、言いたいから言う」
美紀が、扉を開けて、入っていった。
*
夜、自分の部屋で、今日のことを思い返した。
「……美香に、ちゃんと答えてあげてほしい」
「……私は、もう少し待てる」
「……美香のことが、好きだから」
(……美紀は、妹のために、自分の気持ちを後回しにしている)
(……それは、犠牲じゃなくて、選択だと言った)
(……その強さに、俺はどう応えるべきなんだろう)
でも、同時に、思った。
美紀が「待てる」と言ったからといって、それを当たり前のことにしてはいけない。
美紀の気持ちを、ただ「後回しにしていいもの」として扱うのは、間違っている。
(……美香にも、美紀にも、ちゃんと向き合う)
(……順番は、誰かが決めることじゃない)
(……俺が、ちゃんと考えて、決める)
窓の外で、秋の気配を感じさせる、少し涼しい風が吹いていた。
夏が、終わりに近づいていた。
俺は、机に向かって、ノートを開いた。
勉強のノートではなかった。
白紙のページに、何も書かずに、しばらく見ていた。
(……答えを、ちゃんと言葉にする)
(……美香にも、美紀にも、誠実に)
まだ、何も書けなかった。
でも、書こうとしている自分が、確かにいた。
九月の夜が、静かに更けていった。
◇ ◇ ◇
― 第八話「新学期、変わったこと変わらないこと」 了 ―
次話:第九話「文化祭前夜、美香の決意」へ続く
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