第七話
夏の終わりと、届かない言葉
八月の下旬。
夏休みも残り十日ほどになった、ある午後のことだった。
俺の部屋で、美紀と並んで勉強していた。
夏期講習の総まとめテストが近いということで、二人で問題集を進めることにしていた。
扇風機の音と、シャープペンの音だけが、部屋に響いていた。
*
しばらく問題を解いていると、美紀が、ふと鉛筆を置いた。
「博之」
「なに」
「……私、ずっと考えてたんだけど」
美紀の声が、いつもより少し硬かった。
(……何かを言おうとしている)
「……言ってもいい? ちゃんと、言ってもいい?」
俺は、頷いた。
美紀が、少し息を吸った。
部屋の中が、急に静かになった気がした。
「……私は」
(……来る)
(……ついに、来る)
*
そこへ、合鍵の音がした。
ドアが、勢いよく開いた。
「博之ー! 今日スイカ買ってきたよ!」
美香だった。
大きなスイカを抱えて、満面の笑みで部屋に入ってきた。
部屋の空気が、一瞬で変わった。
「あ、お勉強中? ごめんごめん!」
美香が、気づいたように口を押さえた。
でも、もう遅かった。
(……美紀の言葉が、中断された)
*
美紀が、ゆっくりと鉛筆を持ち直した。
「……なんでもない」
美紀が、小さくため息をついて言った。
問題集に視線を戻した。
美香は気づいていなかった。
「スイカ冷えてるから今切ろうよ!」と元気に言って、もうキッチンの方へ向かっていた。
俺は、美紀を見た。
美紀は問題集を見ていたが、視線は少し遠い目をしていた。
(……美紀)
(……何を言おうとしていたんだ)
聞きたかった。
でも、聞けば余計に、何かが壊れてしまう気がした。
*
しばらくして、美香がスイカを切って戻ってきた。
「はい、スイカ! 冷えてて美味しいよ!」
美香が、皿に切ったスイカを並べた。
三人で、スイカを食べることになった。
「今年初めてのスイカだね」
「そうだな」
「種、ちゃんと出してよ。前みたいに飛ばさないでね」
「飛ばしたのはお前だろ」
「私じゃないよ! 美紀ちゃんでしょ!」
「……覚えてない」
美香が「絶対お姉ちゃんだったよ!」と言い張った。美紀は「……記憶にない」と繰り返した。
いつもの、ばかばかしいやり取りだった。
でも、それが、なぜかありがたかった。
*
スイカを食べながら、美香が他愛のない話を続けた。
今日見たテレビの話、来週の花火の打ち上げ場所の話、友達から聞いた怖い話。
美紀は、相槌を打っていたが、いつもより少し静かだった。
俺は、ときどき美紀の方を見た。
美紀は、笑っていた。
でも、その笑顔の中に、少しだけ、遠い場所を見ているような目があった。
(……笑っているけど、何かが違う)
(……さっき言いかけたことを、まだ抱えているんだろう)
*
夕方になって、美香が「もう帰る」と言った。
「博之、また明日ね!」
「ああ」
美香が元気よく部屋を出ていった。
美紀も、帰る準備を始めた。
問題集をバッグにしまいながら、何も言わなかった。
俺は、美紀が立ち上がったところで、声をかけた。
「美紀」
「なに」
「さっき、何か言おうとしてただろ」
美紀が、少し動きを止めた。
「……うん」
「言わなくていいのか」
美紀が、少しの間、考えていた。
それから、小さく首を振った。
「……今は、いい」
(……「まだいい」と同じだ)
(……美紀は、いつも、自分でタイミングを決める)
*
美紀が、部屋のドアの前で、一度だけ立ち止まった。
振り返らずに、小さく言った。
「……いつか、ちゃんと言う」
それだけ言って、美紀は部屋を出ていった。
ドアが、静かに閉まった。
俺は、その声を、しばらく胸の中で繰り返していた。
「……いつか、ちゃんと言う」
(……美紀が言おうとしていたことは、もうわかっている気がする)
(……でも、本人の言葉で聞くまでは、確信にはならない)
*
夜、自分の部屋で、一人になった。
窓の外で、蝉の声が、まだ続いていた。
今日のことを、思い返した。
「……私は」
その続きを、美紀はまだ言っていない。
(……美香のスイカが、悪いわけじゃない)
(……でも、もし美香が来るのがあと五分遅かったら、美紀は何を言っていたんだろう)
考えても、答えは出なかった。
美紀が、いつか言うと約束した。
それを、信じて待つしかない。
窓の外を見た。
夏休みも、残り十日。
夏が、終わりに近づいていた。
(……この夏が終わるまでに、答えを出す)
(……美紀の約束も、俺の約束も、同じ場所に向かっている)
俺は、目を閉じた。
美紀の最後の言葉が、まだ耳に残っていた。
「……いつか、ちゃんと言う」
夏の夜が、静かに更けていった。
◇ ◇ ◇
― 第七話「夏の終わりと、届かない言葉」 了 ―
次話:第八話「新学期、変わったこと変わらないこと」へ続く
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