第一話
合鍵と朝ごはんと僕の日常
結局、美香を起こしたのは俺だった。
「美香」と声をかけると、「んー」という返事があって、それからまた沈黙になった。起きる気がまったくない。
「美香」もう一度呼ぶ。「んーー」さらに深く眠りに潜っていく返事だった。
俺はそっと腰に回された腕を外して、身体の向きを変えた。すると美香が眉をしかめて、空になった場所を探すように手を伸ばす。
(……その手の動き、やめてほしいんだけど)
枕を抱かせると、美香はそれを抱きしめてまた眠り始めた。解決した、ようで解決していない。
俺はベッドから降りて、カーテンを少し開けた。四月の朝の光が部屋に差し込んでくる。
「……明るい」
美香が眩しそうに目を細めた。ようやく起きてくれるらしい。
「おはよ、博之」
「さっきも言った」
「そうだっけ?」
のんびりした顔で起き上がって、髪をぐしゃぐしゃと直す美香。寝ぼけているせいか、ピアスが少しずれている。俺は何も言わなかった。
「昨日何時に来たんだ」
「えーと……十二時くらい?」
「また深夜か」
「だって眠れなかったんだもん」
美香は悪びれもせずそう言って、ふわあ、と大きなあくびをした。
(眠れないなら自分の部屋で眠れないでいてくれ、と毎回思うんだが、毎回言えないんだよなこれが)
「朝ごはん、父さんちで食べていい?」
「うちは『父さんち』じゃなくて俺の家なんだが」
「同じじゃん」
美香はそれだけ言って、もう一階へ降りる気満々の顔をしていた。この家に来るのが当然で、ここで朝ごはんを食べるのが当然で、そのことに何の疑問も持っていない。
それが美香だ。
*
一階に降りると、母さんがすでに三人分の朝ごはんを用意していた。
「あら、美香ちゃん。おはよう」
「おはようございます、母さん! 今日もご飯ありがとうございます」
「いつでもいらっしゃい。美紀ちゃんは?」
「お姉ちゃんは今日は早起きして自分ちで食べるって言ってた」
母さんはそれを聞いて「そう」とだけ言い、とくに驚いた様子もなかった。この家では美紀や美香がいること自体が日常で、いない方がむしろ珍しいくらいだ。
(父さんも母さんも、この状況に何も言わないのが逆に怖いんだが)
朝ごはんは焼き魚と味噌汁と白ごはんだった。美香は「いただきます」を元気よく言って、勢いよく食べ始めた。
「おいし! 母さんの味噌汁、やっぱり好きだわ」
「ありがとう。美香ちゃんはよく食べるから作りがいがあるわ」
「えへへ」
俺は黙って自分の分を食べた。
いつも通りの朝だ。美香が来て、母さんが喜んで、俺が微妙な気持ちになる。その繰り返し。
「博之、今日も一緒に登校する?」
「お前と美紀が来るんだろ、どうせ」
「えへへ、そうだね」
まったく悪びれない。本当にこいつは。
*
朝ごはんを食べ終えてしばらくすると、玄関の鍵が開く音がした。
「おはようございます」
美紀の声だ。
インターホンは押さない。合鍵で開けて、挨拶だけして入ってくる。これが美紀のスタイルだ。美香はインターホンすら押さないので、美紀の方がまだ礼儀正しいとも言える。
「美紀ちゃん、おはよう。朝ごはんは?」
「食べてきました。ありがとうございます、母さん」
「そう。じゃあお茶だけ飲んでいって」
「……はい」
美紀がリビングに入ってきた。紺のカーディガンに制服のスカート。前髪は右に流して、左耳のスタッドピアスが小さく光っている。
美香と並ぶと、ほぼ同じ顔が二つになる。でも俺には全然違って見える。
「美香、またここで寝てたの」
美紀が美香を見て、静かに言った。言い方は穏やかだったが、中身はほぼ確認だった。
「眠れなかったんだもん」
「自分の部屋で眠れなかったらいいでしょ」
「博之のベッドの方が落ち着くんだよね」
美香がさらっと言った。俺の心臓が一回だけ余計に跳ねた。
(……そういうことさらっと言うなよ)
美紀が俺の方を一瞬だけ見た。何も言わなかった。でも俺は、美紀が「そっか」と思ったような気がした。根拠はない。
「そろそろ出ようか」
美紀がお茶を飲み終えてそう言った。いつも通りの口調で、いつも通りの提案だった。
*
四月の通学路は桜が満開だった。
風が吹くたびに花びらが舞って、地面に積もっている。毎年見ている景色なのに、毎年少しだけ綺麗だと思う。
三人並んで歩く。俺が真ん中で、左に美紀、右に美香。これもいつも通りの配置だ。
美香が俺の腕に自分の腕をからめてきた。当たり前のように。
(……いや、それやめろとは言いにくいんだが)
美紀がそれを横目で見て、少し距離を詰めてきた。こちらは腕をからめるわけではなく、ただ少し近づくだけだ。でもその分、俺には伝わる。
(……美紀もか)
「桜、今年もきれいだね」
美香が空を見上げながら言った。
「そうだな」
「お姉ちゃんは?」
「……きれいだと思う」
美紀はちらりと空を見て、すぐに前を向いた。桜より自分の足元の方が大事、というような歩き方をする。美香は逆に上ばかり見て、足元をあやうく踏み外しそうになる。
俺は二人の間にいて、どちらも転ばないように微妙に気を配りながら歩いた。
(……これも、ずっとそうだな)
「博之はどっちが好き? 桜が満開のときと、散り始めのとき」
美香が聞いてきた。
「散り始めの方かな」
「え、なんで? 満開の方がきれいじゃん」
「散るから惜しくなるだろ」
美紀が「……そっか」と小さく言った。俺の答えを咀嚼するような間があって、それからまた黙って歩き始めた。
美香は「博之って詩人だねー」と言って笑った。
*
学校に着くと、クラスメイトの野田が下駄箱のところで待っていた。
野田は俺の数少ない普通の友人のひとりで、双子に対して毎回正直なリアクションをするやつだ。
「おはよー……って、また三人か」
「また、ってなんだよ」
「いや、毎日三人で来るから。なんか様式美みたいになってるよね」
美香が「おはようございます、野田くん」と愛想よく挨拶した。美紀が「おはよう」とコンパクトに返した。
「双子って毎日そっくりだよな。てか、どっちが美紀でどっちが美香?」
「わかんないの?」
「わかんない。毎日見てるのに毎日わかんない」
美香がくすくすと笑った。美紀は少し呆れたような顔をしたが、怒ってはいない。
「博之はわかるの?」
「当然」
「どうやって?」
「なんとなく」
野田が「すごいな」と言った。俺はとくに返事をしなかった。
なんとなく、というのは本当のことで、見た瞬間にわかる。歩き方、立ち方、顔の角度。言葉にできないことの積み重ねが「美紀か美香か」を教えてくれる。でもそれを説明しようとすると、なんか変なことになる気がして、いつも「なんとなく」で誤魔化している。
「桐島って、両方と付き合ってんの?」
野田がふいに聞いてきた。
「付き合ってない」
「でもなんか、両方から好かれてない?」
「幼なじみだから仲がいいだけだ」
美香がそれを聞いて「えー」と言った。美紀は何も言わなかった。
(……美香の『えー』、その意味を深く考えるのはやめておこう)
「いや、でもさ」と野田が続ける。「男子の間では、桐島は双子を侍らせてる男、みたいな扱いになってるぞ」
「侍らせてない」
「客観的に見るとそう見えるんだよ。双子の美少女が毎朝一緒に登校してくれてんだから」
俺は何も言えなかった。
否定したいが、されてみれば確かにそういう状況ではある。
(……でも実態は毎朝ベッドに侵入されてる側なので、侍らせてるとは少し違う)
*
授業が始まった。二年A組の座席は、今年の最初のくじ引きで決まった。
結果として、博之の左斜め前に美紀、右隣に美香、という配置になった。
(……この学校、なんで毎年こうなるんだ)
英語の授業中、美香が小さく折った紙を横からそっと渡してきた。
『放課後、クレープ食べに行かない?』
俺は前を向いたまま、ノートの端に書いた。
『三人で?』
返ってきた紙にはでかい字で「もちろん!」と書いてあった。
授業中に前を向くと、美紀が背筋を伸ばしてノートを取っていた。板書を一字一句正確に書き写している。
(……美紀はちゃんと授業聞いてるな)
俺も一応ノートに向かった。
*
放課後、三人で学校の近くの商店街へ向かった。目的地はいつものクレープ屋だ。
小さな店で、テイクアウト専門。でも生地がもちもちしていてフルーツが新鮮で、この辺では一番うまい。三人でよく来る。
「わたしはいちごカスタード」
美香がメニューを見ながら即断した。
「私も同じにしようかな」
美紀が隣でメニューを眺めながら言った。
「お姉ちゃん、私と同じじゃん」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど……なんかかぶるのやだ」
「じゃあ私が先に言ったからいちごカスタードは私のもの」
「え、そんなルールある?」
「今決めた」
美紀が静かに宣言した。美香が「えーっ」と声を上げる。
「じゃあじゃんけんで決めよ!」
「いいけど、負けたら別のにしなさい」
「お姉ちゃんが別のにしてよ」
「先に言ったのは私だから先に言った方が権利がある」
「意味わかんない!」
(……同じメニューを頼もうとして揉めるの、本当に双子らしいな)
じゃんけんの結果、美香がグー、美紀がパーで美紀の勝ちだった。
美香は「くそー」と言いながらチョコバナナに変更した。美紀はいちごカスタードを静かに注文した。
「博之は?」
「プレーン」
「え、それだけ?」
「シンプルなのが好きなんだ」
「地味ー」
美香がそう言って笑った。俺は「うるさい」と返した。
三人で商店街のベンチに座って、クレープを食べた。
四月の夕方の風が気持ちよくて、行き交う人の声が遠くに聞こえた。美香がクレープを食べながらバナナがうまいうまいと言っていた。美紀はいちごカスタードを丁寧に食べていた。
「やっぱり双子ってそっくりだな」
俺がぽつりと言った。
「どういう意味?」
「じゃんけんの前に全部同じこと言ってた」
「え、そう?」
「二人とも最初にいちごカスタードって言って、二人とも同時に相手が先だって言った」
美香が「ほんとだ」と笑った。美紀は少し考えてから「……そうね」と言った。
「でも中身は全然違うから」
美紀が静かに言った。
「そうだな」
俺は答えた。それだけで、美紀が少し表情を和らげた。気のせいかもしれないが。
*
夜。
夕ごはんはまた三人で食べた。うちの母さんが多めに作って、美紀と美香の分も当然のようにある。水瀬家の両親も「今日はそっちでお世話になります」とLINEを送ってきていた。もはや連絡すら自動化されている。
食事のあと、美香はリビングでスマホをいじりながらうとうとし始めた。
美紀は「美香、帰るよ」と声をかけた。
「んー……もう少し」
「また博之の部屋で寝るつもり?」
「……ちょっとだけ」
「帰るよ」
美紀がきっぱり言うと、美香はしぶしぶ起き上がった。
「じゃあ博之、また明日ね」
「ああ」
「おやすみ」
「おやすみ」
美香がひらひらと手を振りながら玄関へ向かった。
美紀は帰り際、少しだけ足を止めた。
「……博之」
「なに」
「今日、楽しかった」
それだけ言って、美紀は出ていった。
ドアが静かに閉まった。
(……たった一言なのに、なんでそんなに胸に残るんだ)
俺はしばらく玄関のドアを見つめてから、自分の部屋に戻った。
机に向かって教科書を開いたが、さっきの美紀の声が頭の中で繰り返した。
楽しかった、か。
(……俺も、楽しかったけどな)
俺は教科書を閉じて、天井を見上げた。
春の夜は静かで、隣の水瀬家から微かに話し声が聞こえてきた。美香のはしゃいだ声と、美紀の落ち着いた声。
二つの声を聞きながら、俺は思った。
今日も、こうして終わる。
明日の朝、また誰かが来る。
そしてまた、俺は困って、嬉しくて、困る。
(……これが、俺たちの日常だ)
目を閉じると、すぐに眠くなった。
隣から聞こえてくる声が子守唄みたいだった。
春の夜が、静かに更けていった。
◇ ◇ ◇
― 第一話「合鍵と朝ごはんと僕の日常」 了 ―
次話:第二話「どちらが美紀でどちらが美香か問題」へ続く
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