プロローグ
今日も、いる。
目が覚めた瞬間、わかった。
また、来ている。
背中に体温がある。
小さくて、あたたかくて、妙に安心する体温が、うしろからぴったりと張り付いている。やわらかい何かが背中に当たっていて、細い腕が腰に回っている。黒髪が首筋をくすぐって、少しくすぐったい。
そして。
手が。
小さな掌が、朝の俺の――
(……あ。うん。今日もそういう感じね)
俺、桐島博之、十七歳。
これが、毎朝の現実だ。
*
少しだけ、事情を説明させてほしい。
俺の隣の家には、双子の幼なじみが住んでいる。
水瀬美紀と水瀬美香。一卵性双生児の姉妹だ。
二人とも、俺と同じ高校の同じクラス。二人とも黒髪で、二人とも身長百四十九センチで、二人とも――正直に言えば、かなり可愛い。
他人が二人を見分けられるかというと、ほぼ不可能だ。クラスメイトですら間違える。担任でさえたまに間違える。
でも俺は見分けられる。
生まれたときから一緒だから、当然といえば当然なのだが。
二人との付き合いは文字通り、生まれた日からだ。
父さんと水瀬のパパが学生時代からの親友で、家も隣同士。美紀と美香が生まれたのは俺が生まれた三ヶ月後で、俺たちはほぼ同時に育った。
一緒に風呂に入るのは当たり前。一緒にご飯を食べるのも当たり前。学校へ行くのも当たり前に一緒で、遊ぶのも当たり前に一緒だった。
お互いの家の合鍵を持っているのも、当然だ。
「おじゃまします」というより先に扉が開く。「ただいま」と言う必要がない家が、二軒ある。そういう関係だ。
美紀と美香は俺の父と母を「父さん」「母さん」と呼ぶ。
俺は二人の父と母を「パパ」「ママ」と呼ぶ。
もはや、何が家族で何がそうでないのかよくわからない状態で、俺たちは十七年間を生きてきた。
*
で。
そんな幼なじみが、俺には一つだけ困っていることがある。
朝、目が覚めると、俺のベッドに必ずどちらかが潜り込んでいる。
美紀か、美香か。
どちらかは、見ればわかる。俺には見分けられるから。
でも問題は、そこではない。
問題は。
そいつの小さな掌が、必ずといっていいほど、俺の朝の状態を、しっかりと、握っているということだ。
(……熟睡中なんだよな、これが。毎回)
無意識だというのはわかっている。
寝ているときに人の腕とか枕とかを抱きしめる癖があって、たまたまそこに俺がいて、たまたまそういう場所を握ってしまっているだけだということも、わかっている。
でも俺は男子高校生なので。
その「たまたま」が、毎朝きついわけで。
(嬉しいけど困る。困るけど嬉しい。これが俺の、毎朝の現実だ)
*
恐る恐る、振り返る。
黒髪が視界に広がった。すぴすぴと規則正しい寝息が聞こえる。小さな顔が、ぐっすりと眠っている。
前髪は真ん中で分かれている。
右耳に、小さなシルバーのリングピアス。
今日は美香だ。
美香――水瀬美香。双子の妹の方。
口調が少し甘えっぽくて、スキンシップが多くて、調子がいい。でもそれが計算かというとそういうわけでもなくて、天然でそういうやつだ。
ちなみに姉の美紀は、前髪を右に流している。左耳にシルバーのスタッドピアス。美香より少し真面目な雰囲気を醸し出しているが、本人に言うと「そんなことない」と言う。そういうところが美紀らしい。
美香の小さな手が、俺の腰のあたりにしっかりと回っている。
そしてもう一方の手は――まだ、例のあれを、している。
(……頼む、起きてくれ。自力で気づいてくれ。俺から言うのはいろんな意味で無理だから)
美香は起きない。
すぴすぴと、幸せそうに眠っている。
百四十九センチのちいさな体が、俺の背中にぴったりとくっついていて。
あたたかくて。
やわらかくて。
(……嬉しいんだよな、これが。問題はそこなんだよ)
*
なぜ鍵をかけないのか、と思う人もいるかもしれない。
かけた。一度だけ、試みた。
翌朝、俺のベッドには美紀がいた。
どういうことかと思って確認したら、合鍵で開けていた。
考えてみれば当然だった。お互いの家の合鍵を全員が持っているのだから。
「鍵、かかってたから合鍵使った」と美紀は何事もなかったように言って、朝ごはんを食べに一階へ降りていった。
俺はしばらく天井を見つめた。
美紀と美香は、毎日交互にやってくる。
もちろん示し合わせているわけではないと思う――たぶん。
でも不思議と、美紀の翌日は美香、美香の翌日は美紀、というペースになっている。
双子というのは、無意識のところで何かシンクロしているのかもしれない。
(……いや、シンクロのせいにしてどうする)
俺は静かにため息をついた。
*
正直に言う。
俺は、美紀のことも美香のことも、好きだ。
幼なじみとして好きなのか、それ以上の意味で好きなのかは、自分でもよくわかっていない。
ただ、毎朝こういう状況で目が覚めるたびに、「困る」と思う前に「嬉しい」と思ってしまう自分がいる。それだけはわかる。
でも、美紀と美香は双子だ。
まったく同じ顔をしている。俺には見分けられるが、それは十七年分の記憶があるからだ。横顔の角度。笑い方のくせ。首を傾ける方向。そういう細かいことの積み重ねで、俺には二人が別々の人間に見える。
二人は、まったく別の人間だ。
だから、どちらかを選ぶなんて、できるはずがない。
(……でも、このまま三人で、いられるわけでもない)
なんとなく、思う。
近い将来、俺はどちらかに選ばれてしまうのだと。
あるいは――どちらかを、選ばなければならなくなるのだと。
*
美香が、少し身じろぎをした。
ゆっくりと、目が開く。しばらくぼんやりとした顔で天井を見て、それから俺の方へ視線が動いた。
「……おはよ、博之」
眠そうな声。甘えたような声。
これが、毎朝の挨拶だ。
「ああ、おはよう」
美香がまたぎゅっと腕を縮める。まだ眠いらしい。小さな体が、また俺の背中にくっついてくる。
そして例の手は。
例の感じで。
今日も、握り直した。
(……美香さん。そろそろ気づいてほしいんですけど)
「んー……」
美香は気づかない。
すぴすぴと、また眠りかけている。
俺はそっとため息をついて、天井を見上げた。
窓の外から、春の朝の光が差し込んでくる。
遠くで、鳥が鳴いている。
隣の家から、水瀬家の母さん――美紀と美香のママが、朝ごはんの準備をしているらしい音が聞こえてくる。
今日も、こうして、始まる。
*
俺、桐島博之、十七歳。
となりに住む双子の幼なじみ、水瀬美紀と水瀬美香。
三人は生まれた日から一緒で、これからも多分、一緒だ。
ただ、少しだけ困っていることがある。
毎朝、どちらかが俺のベッドにいる。
そして毎朝、例の手が、例の場所を握っている。
嬉しいけど困る。
困るけど嬉しい。
そして、どちらかなんて選べるわけがない。
これが俺たちの、今のところの現実だ。
(……近い将来、この双子のどちらかに貞操を奪われる気がしてならないのは、俺だけだろうか)
美香がまた眠そうに「んー」と言って、顔を俺の背中に押し付けてきた。
黒髪がまた首筋をくすぐる。
あたたかい。
(……嬉しいのが本当に困る)
今日も、始まった。
俺たちの、甘くて危険な日常が。
◇ ◇ ◇
― プロローグ 了 ―
次話:第一話「合鍵と朝ごはんと僕の日常」へ続く
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