第五話
真夜中のノック、答えのない問い
夏期講習も一週間が過ぎた、ある夜のことだった。
時刻は深夜の二時を過ぎていた。
俺は課題が思いのほか長引いて、まだ起きていた。机に向かって最後の問題を解いていると、ドアにノックの音がした。
(……こんな時間に?)
いつもの合鍵の音ではなかった。直接ドアをノックする音。珍しいことだった。
「……入っていい?」
美紀の声だった。
「ああ」
ドアが開いた。
美紀が立っていた。部屋着のまま、髪をおろしている。
*
美紀が部屋に入って、すぐにまたノックの音がした。
(……二回もノックされるのは珍しい)
「博之ー、起きてる?」
今度は美香の声だった。
美紀がぴたりと固まった。
俺もドアを見た。
「……入っていい?」
美香の声が、もう一度した。
「……ああ」
俺は戸惑いながら答えた。
ドアが開いた。
美香が立っていた。
部屋の中に美紀がいるのを見て、美香が一瞬、目を丸くした。
「……あれ。美紀ちゃんもいる」
「……うん」
「珍しい組み合わせだね」
美香がそう言って、部屋に入ってきた。
美紀と美香が、同じ部屋に、同じ時間に、揃った。
(……これは、初めてのことだ)
(……今までは、いつも交互だった。今日はなぜ二人とも?)
*
「……なんで二人で来るんだ」
俺が聞くと、美紀と美香が同時に口を開いた。
「美香が来ようとしてたから」
「美紀ちゃんも来ようとしてたじゃん」
二人が、互いを見た。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が、部屋に広がった。
(……どうやら、二人とも、別々に俺の部屋へ来ようとして、廊下か玄関でかち合ったらしい)
(……それで、なんとなく、一緒に入ってきた、ということか)
美香が、ふと、口を開いた。
「……3人で寝よ」
俺は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「は?」
美紀が短く言った。でも、否定はしなかった。
「いや、だって。せっかく二人とも来たんだし。今日だけ特別に」
「……特別の意味がわからない」
「いいじゃん! ね、博之」
二人が俺を見た。
俺は答えられなかった。
(……どう答えればいいんだ、これは)
*
結局、断る理由を見つけられなかった。
というより、断る理由を考えている間に、美香がさっさとベッドに上がってしまった。
「博之、真ん中ね!」
「……なんでそうなる」
「真ん中が一番安定するでしょ」
美紀が何も言わずに、ベッドの反対側に座った。
俺はしばらく立っていたが、二人の視線に促されて、結局、真ん中に横になった。
(……シングルベッドに三人。物理的に、かなり狭い)
俺を真ん中に、左に美紀、右に美香。
どちらも、俺の腕を抱えるように寄り添ってきた。
(……これは、まずい状況なんじゃないか)
(……いや、もう手遅れだ。状況は始まっている)
*
電気を消した。
暗闇の中で、二人の体温が両側から伝わってきた。
息遣いが、近かった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
夏の夜の虫の声が、窓の外から聞こえていた。
「ねえ博之」
美香の声だった。
「なに」
「私と美紀ちゃん、どっちが好き?」
静寂が来た。
虫の声だけが、続いていた。
(……美香)
(……こんな状況で、その質問か)
美紀は何も言わなかった。
でも、その沈黙の中に、美紀も答えを待っているのがわかった。
息を呑む音が、左側から聞こえた気がした。
*
「……どちらも、大切だ」
俺は、それだけ言った。
「それじゃ答えになってない」
美香が、すぐに返した。
「……分かってる」
長い沈黙が来た。
誰も、何も言わなかった。
(……正直な言葉だった)
(……でも正直であることが、答えにならないことも、わかっていた)
(……どちらも大切だ、ということは、本当のことだ)
(……でも、それでは二人とも、納得できない。当然だ)
美香が、小さく息を吐いた。
諦めたような、それでも何かを受け止めたような、息だった。
美紀は、何も言わなかった。
ただ、俺の腕に回した手に、少し力が入った気がした。
*
しばらくして、美香の呼吸が、ゆっくりになっていった。
眠ったらしい。
美紀は、まだ起きていた。
暗闇の中で、俺は美紀の方を見た。
美紀も、俺を見ていた。
「……ごめん」
俺が言うと、美紀が小さく首を振った。
「……謝ることじゃない」
「正直に言っただけだ。でも、それじゃ二人とも傷つける」
「……傷つけないで答えを出す方法なんて、ないと思う」
美紀が、静かに言った。
「……どんな答えでも、誰かは傷つく。それは、もう、避けられないこと」
「……だから、博之が正直でいてくれることの方が、私は嬉しい」
(……美紀)
(……お前は、いつも、俺が思っている以上に、覚悟ができている)
*
「……博之」
「なに」
「……答えは、ちゃんと、出してね」
美紀が小さく言った。
「いつまでも『どちらも大切』って言ってたら、誰も先に進めない」
俺は、何も言えなかった。
美紀の言葉が、正しすぎたから。
「……出す」
「……いつ」
「この夏が終わるまでに」
美紀が、少しの間、黙っていた。
「……わかった」
それだけ言って、美紀も目を閉じた。
俺は、二人の間に挟まれたまま、しばらく天井を見ていた。
眠れなかった。
*
美香の規則正しい寝息と、美紀の少しゆっくりした寝息が、両側から聞こえていた。
二人とも、眠ってしまった。
俺だけが、起きていた。
(……どちらも、大切だ)
(……それは、今夜言った通り、本当のことだ)
(……でも、もうそれだけでは、許されない時期に来ている)
窓の外で、虫の声が続いていた。
夏の夜は、まだ深かった。
(……この夏が終わるまでに、と言った)
(……約束した。美紀に、そして自分自身に)
俺は目を閉じた。
でも、なかなか眠れなかった。
両側から伝わる体温が、あたたかくて、それでいて、重かった。
夏の夜は、まだ続いていく。
答えを出すまでの時間が、少しずつ、短くなっていく。
◇ ◇ ◇
― 第五話「真夜中のノック、答えのない問い」 了 ―
次話:第六話「海と、どちらかの涙」へ続く
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