第四話
夏期講習と隣の席の体温
八月に入って最初の月曜日、夏期講習が始まった。
俺たちが通う塾は駅前にあって、夏期講習の期間中は午前と午後の二部制になる。三人とも同じ時間帯、同じ講習を申し込んでいた。
申し込んだのは六月のことで、当時は特に何も考えずに「じゃあ一緒に」という流れだった。
(……あのときは、こうなるとは思っていなかった)
教室に入ると、座席が決まっていた。
講師が出席番号順に座らせるというシステムで、出席番号は三人とも近かった。
結果。
俺の左に美紀、右に美香。
(……この塾、なんでこんな配置にするんだ)
(……出席番号が近いだけで、こんな地獄みたいな配置になるとは)
いや、地獄ではない。
地獄ではないが、集中できる気がしない。
*
数学の授業が始まった。
講師が黒板に問題を書いて、解き方を説明していく。
俺はノートを取りながら、なんとか集中しようとした。
左から、美紀のシャープペンの音が、規則正しく聞こえてきた。
右から、美香の小さなあくびの音が聞こえてきた。
(……対照的だな、この二人)
問題を解く時間になった。
俺はノートに向かったが、横で美香が小さく唸っているのが気になった。
「……わかんない」
美香が小声で言った。
俺は少し横目で美香のノートを見た。最初の式から間違っていた。
「ここの計算、符号が違う」
「え、どこ?」
「ここ」
俺がノートを指でさすと、美香が顔を近づけてきた。
香りがした。シャンプーの匂いだろうか、夏の汗の匂いと混ざって、なんとも言えない感じだった。
(……近い)
(……授業中なのにこの距離は危険だ)
*
休憩時間になった。
「ねー博之、さっきの問題、もう一回教えて」
美香が身を乗り出してきた。
そこへ美紀が、すっと割り込んできた。
「私が教える」
「え、なんで? 博之に聞いてるんだけど」
「私の方が数学得意」
「博之も得意じゃん」
「私の方がもっと得意」
(……俺を挟んだ静かな主導権争いが、また始まっている)
美紀がノートを取って、美香に説明を始めた。丁寧で、わかりやすい説明だった。
美香が「ふんふん」と聞きながら、時々俺の方をちらっと見た。
「……博之は黙って見てて」
美紀が言った。視線も合わせずに。
「言われなくても黙ってる」
俺は黒板の方を見ながら、二人のやり取りを聞いていた。
(……俺がいない方が、二人は素直に話せるのかもしれない)
(……いや、俺がいるからこそ、こういう競い合いになっているのか)
*
午後の授業は、英語だった。
夏の暑さと、午前の集中の疲れで、教室全体が眠そうな空気になっていた。
右側で、美香がこくりこくりと船を漕いでいた。
肩が、徐々に俺の方に傾いてきていた。
(……寝るな。ここは塾だ。家のベッドじゃない)
とはいえ、美香の肩が俺の肩に触れる瞬間が来た。
美香はそのまま、肩にもたれかかって、すうすうと眠ってしまった。
(……塾でも、これか)
(……朝のあの状況を思えば、これくらい些細なことなのかもしれないが)
(……些細ではない。普通に困る。塾の教室だぞ)
左を見ると、美紀がそれに気づいていた。
美紀は何も言わず、ただ俺たちを見ていた。表情は読みにくかった。
講師が美香に気づいて、軽く咳払いをした。
美香がびくっと目を覚まして、「すみません!」と小さく言った。
教室の数人がくすくす笑った。
「……ごめん博之、もたれちゃった」
「大丈夫だ」
「あったかかったから、つい」
美香が悪びれもせずに言った。
(……あったかいから寝るというその発想、もう少し警戒してほしい)
*
夏期講習が終わって、三人で塾を出た。
外はまだ日が高くて、暑かった。
「アイス食べたい」
美紀が珍しく自分から言った。
「美紀が言うの珍しいな」
「……言うときは言う」
「私も! アイス食べたい!」
美香もすぐに同意した。
三人でコンビニに寄った。
店内は涼しくて、ほっとした。
アイスコーナーで、美紀があずきバー、美香がいちごシャーベット、俺はガリガリ君を選んだ。
「博之、ガリガリ君? 子供っぽいね」
「うまいから選んでるだけだ」
「私も食べたい!」
「自分のを買え」
美香がもう一本ガリガリ君を手に取った。結局四本買うことになった。
コンビニのイートインスペースに、三人で座った。
冷房が気持ちよかった。アイスを食べながら、他愛のない話をした。
「夏期講習、あと何日?」
「二週間くらい」
「長いね」
「でも終わったらまだ夏休みあるし」
「そうだね」
美香がアイスを噛みながら言った。
美紀はあずきバーを丁寧に食べていた。
*
しばらく、三人で黙ってアイスを食べていた。
窓の外を、自転車に乗った小学生たちが通り過ぎていった。
「……こういうの、ずっと続くといいな」
美香が、ぽつりと言った。
大きな声ではなかった。いつもの軽い感じの言葉だった。
でも、その言葉が、なぜか胸に残った。
(……「こういうの」というのは、夏期講習の帰りにアイスを食べること、だけじゃない気がする)
(……三人でいること、全部を指している気がする)
「……続くよ」
美紀が、即答した。
俺は美紀を見た。
美紀はアイスを食べる手を止めて、窓の外を見ていた。
でも、その目が、少し揺れていた気がした。
(……即答だった。でも、その目は少し揺れていた)
(……美紀は、本当にそう思っているのか。それとも、そう思いたいだけなのか)
美香が「そっか」と言って、笑った。
いつも通りの、明るい笑顔だった。
「博之もそう思う?」
美香が聞いてきた。
「……続くといいと思う」
「思う、じゃなくて、続けるんだよ! 博之が頑張って!」
「俺が?」
「博之が選ばないと、何も決まらないでしょ」
美香がさらっと言った。
でも、その言葉の中に、確かな重さがあった。
(……美香)
(……お前は、わかっていて、それでも軽い口調で言う)
(……それが、お前の強さなんだろう)
*
アイスを食べ終えて、三人でコンビニを出た。
夕方の道を、また三人で歩いた。
美香が前を歩いて、何か鼻歌を歌っていた。
美紀は俺の隣を、少し黙って歩いていた。
「……美紀」
「なに」
「さっきの『続くよ』、本当にそう思ってるのか」
美紀が少し、足を止めた。
「……思ってる」
「でも目が揺れてた」
「……見てたの」
「見てた」
美紀がしばらく黙った。
それからゆっくりと、言葉を選びながら言った。
「……『続く』っていうのは、何も変わらないっていう意味じゃない」
「……形が変わっても、三人でいることが続けばいい、っていう意味」
俺は美紀を見た。
美紀は前を向いて、静かな顔をしていた。
「……だから、即答できた。形がどう変わっても、続けたいから」
(……美紀)
(……お前は、もう、答えを知っているのかもしれない)
(……博之が誰かを選ぶ未来のことも、もう、考えているのかもしれない)
俺は何も言えなかった。
美紀の覚悟の深さに、少し圧倒されていた。
*
家に帰って、部屋でぼんやりと今日のことを思い返した。
夏期講習の隣の席。美香の肩の重み。美紀の真剣な説明。
コンビニでの「ずっと続くといいな」という美香の一言。
「続くよ」という美紀の即答と、その裏にある覚悟。
(……美香は、軽い口調で重いことを言う)
(……美紀は、即答の裏に、深く考えた答えを隠している)
(……どちらも、俺が思っているより、ずっと多くのことを考えている)
窓の外で、蝉の声が続いていた。
八月の夜は、まだ熱が残っていた。
(……「博之が選ばないと、何も決まらないでしょ」と美香は言った)
(……その通りだ。俺が、決めなければならない)
夏期講習はあと二週間ある。
その間にも、夏休みは続く。
花火は終わった。でも、まだ何か、起こりそうな予感があった。
(……この夏、まだまだ続く)
(……俺の答えも、まだ出ていない。でも、少しずつ、形になってきている気がする)
俺は目を閉じた。
明日も夏期講習がある。
また、隣の席に、二人の体温がある。
それが、嬉しいことなのか、困ることなのか。
もう、どちらか一方では言えない気がした。
夏の夜が、静かに更けていった。
◇ ◇ ◇
― 第四話「夏期講習と隣の席の体温」 了 ―
次話:第五話「真夜中のノック、答えのない問い」へ続く
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