第三話
夜の縁側、美紀の秘密
花火大会の翌日は、何もない一日だった。
美香は朝から友達と買い物に出かけていた。美紀は家で読書をしているらしく、昼間は会わなかった。
俺は一人で部屋の片付けをしたり、夏期講習の予習をしたりして過ごした。
夕方、母さんが「縁側で夕涼みしたら?」と言った。
うちの縁側は古いタイプで、庭に面している。夏の夜はそこに座って風に当たるのが、子供の頃からの習慣だった。
夕ごはんの後、俺は縁側に座った。
虫の声が聞こえた。庭の木が、夜風で揺れていた。
*
時刻は十一時を過ぎていた。
もう少しで寝ようかと思っていたとき、フェンスの方で物音がした。
美紀だった。
水瀬家の庭側から、フェンスの隙間に近づいてきていた。
「……博之?」
「ああ。眠れないのか」
「……うん」
美紀がフェンスの隙間から、こちら側の庭に出てきた。実は、フェンスの一部が低くなっていて、子供の頃から行き来できる場所がある。久しぶりに使われたその場所を、美紀が通ってきた。
(……懐かしいな、ここを通るの)
(……小学生のとき、よく行き来してた)
美紀が縁側に近づいてきて、俺の隣に座った。
部屋着のままで、髪をおろしている。
「……縁側、久しぶり」
「そうだな」
「……子供の頃、よくここに三人で座ってたね」
「西瓜食べてた」
「……うん。種を庭に飛ばして、母さんに怒られてた」
美紀が小さく笑った。
昔のことを思い出すと、自然と空気が和らいだ。
*
二人で並んで、夜の庭を見ていた。
虫の声が、絶え間なく続いていた。
「……昨日、美香と何話してたの」
美紀が、唐突に聞いた。
(……「聞く?」と聞いてきたあの言葉とは違って、もう聞くことを決めている声だった)
「……聞きたいのか」
「……聞く」
俺は少し考えた。
花火大会の夜、美香が言ったことを、正直に伝えるべきか迷った。
でも、美紀は知る権利がある気がした。
「……花火大会で、美香が俺に好きか聞いてきた」
長い沈黙があった。
虫の声だけが、続いていた。
「……美香はそういうとこ、ずるい」
美紀が、ぽつりと言った。
(……)
(……美紀が、こういうことを言うのは初めてだ)
(……いつも「美香らしい」とか「強い」とか、肯定的なことを言っていたのに)
「……どういう意味だ」
俺が聞くと、美紀が少し俯いた。
「……まっすぐ聞けるのが、ずるい」
美紀の声が、少し震えていた。
いつも冷静な美紀が、こんな声を出すのは珍しかった。
「美紀」
「……私も、同じこと聞きたかった」
美紀が続けた。
「でも先に言われたら……聞けないじゃない」
(……美紀)
俺は美紀の横顔を見た。
夜の暗さの中で、美紀の表情はよく見えなかった。でも、肩が少し落ちているのがわかった。
*
しばらく、誰も何も言わなかった。
虫の声と、遠くで鳴いた猫の声だけが聞こえた。
「……美紀は、ずっと先に言われる方なのか」
俺が聞くと、美紀が少し顔を上げた。
「……何が」
「美香が先に何かを言って、美紀がそのあとになる、ということが」
美紀が少し黙った。
「……昔から、そう」
「どういう意味だ」
美紀が、ゆっくりと話し始めた。
「……美香は、何でも先に手を出す。先に言葉にする。先に動く」
「……私は、考えてから動く。だから、いつも一歩遅れる」
「……それが、悪いことだとは思ってない。でも」
美紀が、少し息を吸った。
「……博之のことだけは、遅れたくなかった」
(……美紀)
俺は何も言えなかった。
美紀の言葉が、胸の中で重く響いた。
「……ごめん。こんなこと言うつもりじゃなかった」
美紀が少し早口になった。いつもの落ち着いた声に戻そうとしている、でも戻りきれていない声だった。
「……謝るな」
「……でも」
「謝ることじゃない」
俺がきっぱりと言うと、美紀が静かになった。
*
長い沈黙が、また訪れた。
今度の沈黙は、重くなかった。むしろ、何かが少し軽くなったような沈黙だった。
縁側の板の上に置かれた、美紀の手が見えた。
月明かりで、白く浮かんでいた。
俺は、その手に、自分の手を重ねた。
(……何も言わずに、こうした)
(……言葉では、うまく言えなかったから)
美紀が、びくっと体を震わせた。
でも、手を引かなかった。
「……博之?」
「……答えなくていい」
俺が言うと、美紀が少し息を呑んだ。
「……ただ、こうしてたい」
美紀が、何も言わなかった。
手を引かなかった。
そのまま、二人で、夜空を見た。
月が、雲の隙間から見えていた。
星が、ぽつぽつと光っていた。
虫の声が、変わらず続いていた。
(……これが、今俺にできる、一番正直なことだった)
(……言葉にできないことを、こうして示す)
(……美紀がそれを、受け取ってくれた)
*
しばらく、二人で手を重ねたまま、黙っていた。
美紀の手は、小さくて、少し冷たかった。
俺の手の中で、その冷たさが、徐々にあたたかくなっていくのがわかった。
「……博之の手、あったかい」
美紀が、小さく言った。
「お前の手が冷たいだけだ」
「……そうかもしれない」
美紀が、少し笑った。
夜の中の、静かな笑いだった。
「……これ、美香には言わないで」
美紀が言った。
「なんで」
「……恥ずかしいから」
「言わない」
「……ありがとう」
美紀がそう言って、少し俺の方に体重をかけた。
肩が触れるくらいの距離だった。
(……美紀)
(……お前がこんなに素直になるのを、初めて見た気がする)
(……夜だからか。それとも、もう、隠さなくていいと思ったからか)
虫の声が、続いていた。
風が、少し冷たくなってきた。
夏の夜だったが、深夜になると涼しくなる。
「……そろそろ、帰る」
美紀が言った。
でも、手を離さなかった。
「……もう少し」
美紀が小さく言った。
俺は何も言わずに、そのまま手を重ねていた。
*
十二時を過ぎた頃、美紀がようやく手を離した。
「……帰る」
「ああ」
「……今日のこと」
「なに」
「……覚えてて」
美紀が立ち上がった。
フェンスの隙間に向かって、歩いていった。
途中で、一度だけ振り返った。
「……博之」
「なに」
「……ありがとう」
それだけ言って、美紀はフェンスの隙間を通って、水瀬家の庭に消えた。
俺は一人、縁側に残った。
美紀の手の温度が、まだ残っているような気がした。
*
部屋に戻って、ベッドに横になった。
今夜のことを、何度も思い返した。
「……美香はそういうとこ、ずるい」
「……博之のことだけは、遅れたくなかった」
(……美紀が、初めてあんなに弱いところを見せた)
(……いつも落ち着いていて、論理的で、感情を表に出さない美紀が)
手を重ねたときの感触を、思い出した。
冷たかった手が、少しずつあたたかくなっていった感触。
「……これ、美香には言わないで」
(……美紀の秘密を、もう一つ知った気がする)
(……美紀は、ずっと「妹に先を越される」ということに、何かを抱えていたのかもしれない)
(……それでも、いつも美香のことを「強い」「あの子は強い」と言っていた)
(……自分の気持ちを抑えて、妹を立てていたのかもしれない)
俺は天井を見つめた。
美紀のことを、もっとちゃんと知りたいと思った。
美紀が抱えているものを、ちゃんと受け止めたいと思った。
(……答えは、もう、ほとんど出ている気がする)
(……でも、まだ言葉にできない。それを言葉にしたとき、美香を傷つけることになるから)
窓の外で、虫の声がまだ聞こえていた。
夏の夜は長い。
でも、この夏もいつか終わる。
(……終わる前に、ちゃんと言葉にする)
(……美紀に。そして、美香にも)
俺は目を閉じた。
美紀の小さくて冷たい手の感触が、まだ手のひらに残っているような気がした。
◇ ◇ ◇
― 第三話「夜の縁側、美紀の秘密」 了 ―
次話:第四話「夏期講習と隣の席の体温」へ続く
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