第二話
花火の前に、ふたりきり
地元の花火大会は、毎年七月の最終土曜日に開催される。
今年もその日が来た。
三人で行くという話は、終業式の日に美香が提案して、美紀が即答して、俺も行くと言った。あれから二週間が経っていた。
当日の午後、集合は夕方五時に桐島家の前、ということになっていた。
俺が準備を終えて玄関を出たとき、美香からLINEが来た。
『ごめん! 美紀ちゃんが先に行ってて、って言ってる。私、あと三十分くらいかかる。先に博之と合流しといて!』
(……美紀と、ふたりで先に行くことになった)
(……美香、これは意図的か、天然か)
(……たぶん天然だが、結果は同じだ)
振り返ると、水瀬家の玄関が開いて、美紀が出てきた。
浴衣だった。
紺地に白い小花の浴衣。黒髪を上に結って、うなじが見えていた。
百四十九センチの、美紀の、浴衣姿だった。
(……)
(……なんだ、これは)
(……知ってた。浴衣着ると言っていた。わかってた。なのに)
美紀が俺に気づいて、少し立ち止まった。
俺を上から下まで見て、それから目を逸らした。
「……浴衣じゃないの」
「俺は持ってない」
「……そっか」
美紀がそれだけ言って、歩いてきた。
俺の隣に並んだ。
「……似合ってる」
俺が言うと、美紀が少し止まった。
「……急に何」
「似合ってると思ったから言った」
「……そういうことを、いきなり言わないで」
「なんで」
「……困るから」
美紀がそっぽを向いた。耳が赤かった。
(……そういう反応をされると、こちらが困る)
*
花火会場は、駅の近くの河川敷だった。徒歩で十五分ほどかかる。
美香を待たずに先に向かうことにした。
夕暮れの道を、美紀と並んで歩いた。
浴衣を着た人たちが、同じ方向へ向かっていた。
うちわを持った老夫婦、浴衣の女子グループ、子供を連れた家族。
その中に、俺と美紀がいた。
(……ふたりで並んで歩いていると、なんか、違う雰囲気だな)
(……三人のときとは少し違う。当たり前だが)
「美香、間に合うかな」
「……間に合わなかったら、現地で合流すればいい」
「そうだな」
少し沈黙が来た。
美紀が浴衣の袖を少し直した。
「……紺の浴衣、自分で選んだのか」
「……ママが一緒に選んでくれた。でも、この色は私が決めた」
「なんでこの色」
「……落ち着くから」
(……美紀らしい選び方だ)
夕陽が沈んでいった。空がオレンジから紫に変わっていった。
美紀の浴衣の紺が、夕暮れの空の色と、どこか似ていた。
*
河川敷に近づくと、出店が並んでいた。
焼きとうもろこし、たこ焼き、金魚すくい、射的。夏の夜の匂いがした。
「何か食べるか」
「……たこ焼き、食べたい」
「買ってくる」
「……一緒に行く」
美紀がついてきた。
たこ焼きを買って、二人で歩きながら食べることにした。
美紀が割り箸でたこ焼きを一つ取った。
口に入れた瞬間、少し目を丸くした。
「……熱い」
「そうだろうな」
「……でも、おいしい」
美紀がもう一つ取った。今度はふうふうと冷ましてから食べた。
(……几帳面だな。たこ焼きを食べるのも)
「博之も食べて」
「ああ」
俺も一つ取った。熱かったが、うまかった。
歩きながら食べていると、美紀がふと立ち止まった。
射的の屋台の前だった。
「……やりたい?」
「お前がやりたいのか」
「……少し」
美紀が射的をやった。
一発目は外れた。二発目も外れた。三発目で小さなぬいぐるみをかすったが、落ちなかった。
「……惜しかった」
「悔しいか?」
「……少し」
(……美紀が「少し悔しい」と言うのは珍しい。夏の空気のせいかもしれない)
俺がやってみた。一発目で小さなキーホルダーを落とした。
「……ずるい」
「ずるくない、当たっただけだ」
「……それをずるいと言う」
俺はキーホルダーを美紀に渡した。
猫の形をした、小さなアクリルのキーホルダーだった。
「いらないか?」
「……いる」
美紀が受け取った。少し見てから、浴衣の袂に入れた。
それだけのことなのに、美紀の耳がまた少し赤くなった。
(……かわいい、と思った。それに気づいて、また自分が困った)
*
河川敷のいい場所に、レジャーシートを広げた。
花火の開始まで、あと三十分ほどあった。
美香からLINEが来た。『もうすぐ着く! 場所教えて!』
美紀と並んで座っていると、辺りが少し暗くなってきた。
夜の河川敷に、ちらちらと明かりが増えていった。
美紀が膝を抱えて、川の方を見ていた。
浴衣の裾が、夜風に少し揺れていた。
「……ねえ、博之」
「なに」
「……聞いていい?」
俺は美紀を見た。
美紀は川を見たままだった。
「なにを」
「……私のこと、どう思ってる?」
(……また聞いてきた)
(……夏休み前の夜に聞いてきて、眠ってしまった、あの問いだ)
今夜の美紀は眠そうではなかった。
川を見ながら、真剣な顔をしていた。
「……家族みたいなもの、だけじゃないよね。最近は」
俺は少し考えた。
夏休み前の夜も、同じことを言われた。あのときは答えられなかった。
でも今夜は、少し答えに近いものがある気がした。
「……違う。それだけじゃない」
美紀が少し息を止めた。
川の音だけが聞こえていた。
「……じゃあ、何?」
「……まだ、ちゃんと言えない。でも、そういうことだ」
美紀がゆっくりと俺を見た。
暗くなりかけた河川敷で、美紀の目が真剣だった。
「……ちゃんと言えるようになったとき、言ってくれる?」
「ああ」
「……待ってる」
美紀がまた川の方を向いた。
でも今度は、少しだけ表情が柔らかくなっていた。
(……美紀)
(……お前は、いつもそうやって待ってくれる)
(……それがどれだけのことか、俺は少しずつわかってきた)
*
そのとき、後ろから声がした。
「博之ー! 美紀ちゃーん! ここにいたんだ!」
美香だった。
走ってきた美香も浴衣を着ていた。薄いピンク地に桜の柄。黒髪を低めの位置でまとめていた。
百四十九センチが、走ってくる。
(……美香の浴衣姿も、なかなかに破壊力がある)
美香がレジャーシートに膝をついて、二人の間に割り込んできた。
「待たせてごめんね! 帯が結べなくてさ!」
「ママに結んでもらえばよかったのに」
「ママも最初うまく結べなくて、二人でやり直してたら時間かかっちゃって!」
美香が笑いながら言った。
美紀が「帯くらい自分で練習しておきなさい」と言った。美香が「お姉ちゃんは自分で結べたの?」と聞いた。美紀が少し間を置いてから「……練習した」と言った。
(……練習したのか。美紀らしい)
「博之、私の浴衣どう?」
美香が俺に聞いた。
「似合ってる」
「やった! 美紀ちゃんは?」
「……似合ってる」
「お姉ちゃんも似合ってるよ! 紺、きれい!」
美香が美紀の浴衣を褒めた。美紀が「……ありがとう」と言った。
姉妹だからこその、自然なやり取りだった。
(……こういう二人を見ていると、どちらかを選ぶということの重さが、また増す気がする)
*
花火が始まった。
一発目の大玉が上がって、どん、という音が遅れて届いた。
三人で並んで、夜空を見上げた。
花火が次々と上がった。
赤、青、緑、金色。夜空に大きな花が咲いて、消えた。
「きれい!」
美香が声を上げた。
美紀は黙って見ていた。夜空を見上げた横顔が、花火の光に照らされて、きれいだった。
(……美紀の横顔を見ていた)
(……花火より、美紀の横顔を見ていた)
(……それに気づいて、俺は正面に向き直した)
美香が俺の袖を引っ張った。
「ねえ、博之。花火と私、どっちを見てた?」
俺は少し固まった。
(……美香、なんで気づくんだ)
「……花火を見てた」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
「……まあいいや。博之ってたまに遠い目するよね」
美香がそれだけ言って、また花火の方を向いた。
俺はほっとしながら、また花火を見た。
でもその横で、美紀が小さく言った。
「……私も、見てた」
美紀の声は、美香には聞こえていなかった。
俺にだけ、聞こえた。
(……美紀)
(……何を、見てた?)
(……花火か、それとも)
聞けなかった。
花火がまた上がった。大きな金色の花が咲いて、夜空に広がって、消えた。
*
花火が終わって、三人で帰り道を歩いた。
人混みの中を、並んで歩いた。美香がいろいろ喋っていた。今年の花火はどれが一番きれいだったか、来年も三人で来たいか、屋台でもっと食べればよかった、など。
美紀は静かに歩いていた。でも不機嫌ではなかった。むしろ、どこか穏やかだった。
水瀬家と桐島家の前に着いた。
美香が「今日楽しかった! おやすみ!」と言って、さっさと水瀬家に入っていった。
美紀が少し遅れて、俺の方を向いた。
「……今日、ありがとう
「礼を言うようなことじゃない」
「……キーホルダー、ありがとう」
「ああ」
美紀が袂から、猫のキーホルダーを出した。
夜の明かりの中で、小さくきらりと光った。
「……大切にする」
(……美紀)
(……そういうことをさらっと言うな)
美紀が扉を開けた。
入っていく前に、もう一度振り返った。
「……博之」
「なに」
「……さっき言ってた。『そういうことだ』って」
「ああ」
「……ちゃんと覚えてるから。忘れないで」
それだけ言って、美紀は扉を閉めた。
(……忘れるわけがない)
(……「待ってる」と言った美紀が、「忘れないで」と言った)
(……それは、俺への催促ではなく、お前のことを忘れないでいてほしい、ということだろう)
(……忘れない。絶対に忘れない)
*
家に帰って、部屋に戻った。
今夜は誰も来なかった。
ベッドに横になって、今日のことを思い返した。
浴衣の美紀。射的のキーホルダー。「家族みたいなものだけじゃないよね」という問いへの「そういうことだ」という答え。「忘れないで」という最後の言葉。
(……美紀への気持ちが、今日でまた少し、はっきりした)
(……でも美香のことも、ある)
(……美香の浴衣姿も、きれいだった。走ってきた美香の笑顔も、好きだ)
天井を見た。
花火の光が、まぶたの裏に残っていた。
(……どちらも大切だ。それは変わらない)
(……でも「どちらも」では答えにならない、ということも、わかってきた)
窓の外で、遠く花火の最後の一発が、ぽん、と鳴いた。
もう終わっていたはずなのに、どこかの打ち残しが光ったらしかった。
夏の夜が、静かに深くなっていった。
◇ ◇ ◇
― 第二話「花火の前に、ふたりきり」 了 ―
次話:第三話「夜の縁側、美紀の秘密」へ続く
お読みくださり有難うございます!!
この作品を気に入ってもらえましたら、下にある☆☆☆☆☆やブックマーク、スタンプで応援いただけると大変励みになります!!
読者の皆様からの応援が次へのモチベーションになります!!




