第一話
プールと水着と百四十九センチの破壊力
夏休みに入って五日目の朝、美香が俺の部屋のドアを開けるなり言った。
「今日、プール行こう!」
ノックはなかった。合鍵で入ってきて、いきなりそれだ。
俺はまだ半分眠っていた。
「……何時だ」
「八時! もう全然遅くない!」
「夏休みの八時は早い」
「そんなことない! 美紀ちゃんも行くって言ってるし!」
(……美紀が行くと言っているのか)
(……夏休み三日目の朝の「さっきのは忘れて」から三日が経った。美紀は普通に接してくれているが、俺の方がまだ少し落ち着かない)
「……市民プールか」
「そう! 今日、晴れてるし! 行こう行こう!」
美香がベッドの端をぽんぽんと叩いた。起きろ、という合図だ。
俺は諦めて起き上がった。
*
午前十時。
三人で市民プールに着いた。
更衣室で着替えて出てくると、美香がすでにプールサイドに立っていた。
俺は、少し固まった。
美香が、水着を着ていた。
それ自体はわかっていた。プールに来たのだから。
でも。
百四十九センチの体に、ビキニが似合いすぎた。
(……なんで幼なじみがこんなことに……)
(……いや、幼なじみだからこそ余計に困る)
(……子供の頃は一緒に風呂に入っていたのに、今これを見てこういう気持ちになるのは、俺の成長のせいか、美香の成長のせいか)
(……たぶん両方だ)
美香が振り返った。
「博之! 来た来た! 早く入ろうよ!」
元気よく手を振っている。その動作のたびに、いろんなものが揺れる。
(……目のやり場に困る)
そこへ美紀が更衣室から出てきた。
俺はまた、少し固まった。
美紀も、水着を着ていた。
美香と同じ体型に、落ち着いた色のビキニ。
美香より少し地味な色合いだが、それがかえって美紀らしくて、目を引いた。
(……二人とも、百四十九センチが、こんなに……)
(……俺は今日一日、正気でいられるだろうか)
「博之、何固まってんの」
美香が不思議そうに言った。
「……なんでもない」
「変な顔してるよ?」
「そうか」
美紀がこちらを見た。俺と目が合った瞬間、少しだけ視線を逸らした。三日前の朝のことを、美紀も引きずっているのかもしれなかった。
(……お互い様だな、これは)
*
プールに入る前に、プールサイドで日焼け止めを塗ることになった。
「博之も塗った方がいいよ! 焼けるから」
美香がそう言いながら、自分の腕に日焼け止めを伸ばしていた。
「自分で塗れる」
「背中は? 背中は自分じゃ塗りにくいじゃん。塗ってあげるよ!」
美香が日焼け止めのボトルを持って、俺の後ろに回ろうとした。
そこへ美紀が、すっと割り込んできた。
「私が塗る」
静かに、でも明確に言った。
「え!? お姉ちゃんずるい! 私が先に言ったじゃん!」
「言っただけで、まだ塗っていない」
「それ屁理屈じゃん!」
「屁理屈じゃない、事実を言っている」
(……俺の背中を巡って戦争が始まっている)
(……俺の背中に何か希少価値でもあるのか)
じゃんけんになった。
美紀がパー、美香がグーで、美紀が勝った。
「やったー……じゃなくて、当然ね」
「今やったーって言おうとしたよね!」
「言っていない」
(……言おうとしていた。俺にはわかった)
美紀が俺の背後に回った。
日焼け止めを手のひらに出して、俺の背中に当てた。
(……冷たい)
(……日焼け止めが冷たい。それだけだ。それだけなのに、なぜ落ち着かないんだ)
美紀の手が、背中を均等に伸ばしていく。丁寧で、ムラのない塗り方だった。
何も言わずに、静かに塗っている。
(……美紀の手が、背中にある)
(……三日前の朝のことを、思い出さずにはいられない)
(……落ち着け、俺)
「……終わった」
美紀が言った。少し早口だった。
「ありがとう」
「……うん」
美紀がさっと離れた。
美香が「私も塗ってもらおうかな」と言い出して、「自分で塗れ」と美紀が返した。
(……美紀、俺には塗ってくれたのに)
*
プールに入った。
七月の市民プールは混んでいた。家族連れや学生グループが大勢いて、水面が騒がしかった。
俺たちは浅いところで、しばらく涼んでいた。
美香が「潜れる?」と言って、そのまま水中に潜った。しばらくして浮かんできて「気持ちい!」と言った。
美紀は水面に肩まで浸かって、静かに周囲を見ていた。
少しして、隣のレーンから波が来た。
美香がバランスを崩して、俺の腕に掴まってきた。
「わっ、ごめん!」
「大丈夫か」
「うん! ありがと」
美香がそのまま、俺の腕にしがみついた。「もう少しこのままでいい?」と言った。離す気がないらしい。
(……百四十九センチが腕にくっついている。水の中で。夏の市民プールで)
(……正気でいろ、俺)
美紀が反対側から近づいてきた。
腕を取るわけではなかった。でも、俺の左側に立って、少し距離を詰めた。
「……邪魔」
「え、何が邪魔?」
「……美香が場所を取りすぎてる」
「そんなに取ってないじゃん!」
そう言いながら、美紀も俺の腕のあたりに手を添えた。
美香が右から、美紀が左から、どちらも俺の腕近くにいた。
(……これは、どういう状況だ)
(……水の中で、両側から百四十九センチに挟まれている)
(……溺れそうだ。水の中じゃなくて、精神的に)
「二人とも離れろ」
「えー!」
「……別に掴まってない」
「掴まってないけど近い!」
美紀が「近くて何が悪い」と言った。
美香が「そうだそうだ」と言った。
俺は水の中で天を仰いだ。
*
しばらく泳いで、プールサイドで休憩することにした。
売店でアイスを買った。美香はいちごシャーベット、美紀はあずきバー、俺はバニラ。
並んでプールサイドに座って食べた。
「あー、楽しかった!」
美香が足をばたばたさせながら言った。
「まだ終わってない」
「でも楽しいじゃん今!」
美紀がアイスをかじりながら「……うん」と言った。珍しく同意した。
三人並んで座って、プールを眺めた。
子供たちが飛び込んで、水しぶきが上がっていた。
蝉の声が、遠くから聞こえていた。
「ねえ博之、今日楽しい?」
美香が聞いた。
「まあ」
「まあって何よ! もっとちゃんと言って!」
「……楽しい」
「よし!」
美香がガッツポーズをした。
美紀が「何がよしなの」と言った。
美香が「博之が楽しいって言ってくれたから」と言った。
(……美香は、俺が楽しいかどうかを気にしていた)
(……そういうやつだ、美香は)
「博之」
今度は美紀が呼んだ。
「なに」
「……アイス、溶けてる」
見ると、バニラアイスが少し溶けて、俺の指に垂れていた。
「……拭いた方がいい」
「ああ」
俺がポケットを探ると、ハンカチを持っていなかった。美紀がさっと自分のハンカチを差し出した。
「使っていい?」
「……どうぞ」
俺がハンカチで指を拭くと、美紀がそのハンカチを受け取った。受け取って、しばらく自分の手の中に持っていた。
(……何をしているんだ、美紀)
(……でも何も言えなかった)
美香がそれを見て「お姉ちゃん、博之の間接キス狙ってる」と言った。
美紀が「違う」と言った。声が少し高かった。
俺は前を向いたまま、プールの水面を見ていた。
(……夏休みが、始まったばかりだ)
(……これが毎日続くのか)
*
夕方、三人でプールを出た。
日が傾いていたが、まだ暑かった。
夏の夕方の、長い影が三人分、地面に伸びていた。
美香がアイスをもう一本買っていた。歩きながら食べている。
美紀は少し黙っていた。疲れているのかもしれなかった。
俺も黙っていた。
三人で並んで歩いた。いつもの配置。俺が真ん中、右に美香、左に美紀。
美香がアイスを食べ終えて、少し博之の方に寄ってきた。
美紀も、少し歩くペースを落として、俺との距離が縮まった。
(……今日一日、ずっとこうだった)
(……二人とも、俺の近くにいた)
(……それが嬉しいのか困るのかは、もう、聞かなくていいくらい、わかっている)
「博之、今日どっちの水着が好きだった?」
美香が唐突に聞いてきた。
(……それを聞くか)
(……そして今それを、美紀も横で聞いている)
「どちらも似合っていた」
「そういう答えじゃなくて! どっちが好みだったかって聞いてるの!」
「似合っていたとしか言えない」
「えー! お姉ちゃん、博之に聞いてよ」
「……私は聞かない」
美紀が静かに言った。でも、耳が少し赤かった。
(……美紀も気になっているじゃないか)
「もう! 二人ともわかんない!」
美香がぷりぷりした。
俺は苦笑した。
美紀が「……うるさい」と言いながら、口元が少し緩んでいた。
*
家に帰って、夕ごはんを食べて、風呂に入った。
今日は美香も美紀もそれぞれの家に帰った。
久しぶりに、夜の部屋が静かだった。
ベッドに横になって、今日のことを思い返した。
(……百四十九センチの破壊力、というのは、なかなか言い得て妙だな)
(……子供の頃から知っていたのに、水着姿を見てあれだけ動揺するとは)
日焼け止めを塗ってくれた美紀の手を思い出した。
水の中で腕に掴まってきた美香を思い出した。
アイスが溶けた俺の指を拭いたハンカチを、しばらく手の中に持っていた美紀を思い出した。
(……どちらも、大切だ)
(……どちらも、好きだ)
(……でも、「どちらも」では答えにならない)
窓の外で、蝉が夜になっても鳴いていた。
夏の夜は長い。
まだ始まったばかりだった。
俺は目を閉じた。
今日の美紀の横顔と、美香の笑顔が、交互に浮かんだ。
(……この夏が終わるまでに、答えを出す)
(……それだけは、決めた)
◇ ◇ ◇
― 第一話「プールと水着と百四十九センチの破壊力」 了 ―
次話:第二話「花火の前に、ふたりきり」へ続く
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