エピローグ
朝、また君がいた。
目が覚めた瞬間、わかった。
また、いる。
夏休みの初日の朝だった。
七月の朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。昨日より少し眩しかった。夏が来た、という光の色だった。
背中に体温がある。
小さくて、あたたかくて、やわらかい体温が、うしろからぴったりと張り付いている。
細い腕が腰にしっかりと回っていた。
黒髪が首筋をくすぐった。
そして、小さな掌が。
(……今日も、例の感じで)
(……今日も、しっかりと)
春から続く、同じ朝だ。
でも、同じ朝ではなかった。
*
振り返らなくても、わかった。
今日は美香だ。
背中への密着の仕方、腕の回し方、体温の質感。全部が、美香だった。
美香は深く眠っていた。すぴすぴと規則正しい寝息が、俺の背中に当たっていた。
いつもなら、この状況で俺は困惑していた。
嬉しいけど困る。困るけど嬉しい。その繰り返しだった。
でも今朝は、少し違った。
(……美香)
(……昨夜、お前は言った。「選ばれなかった方のこと、ちゃんと大切にしてよ」と)
(……自分が選ばれないかもしれない、ということを、もうわかっている顔で)
美香の腕が、少し力を込めてきた。
眠りながら、ぎゅっとしてきた。
(……美香)
(……お前のことも、ちゃんと、向き合う。約束する)
例の手が、今日もしっかり握っていた。
俺は苦笑した。
それから、少し笑った。
(……嬉しいけど困る、という感覚は、変わっていない)
(……でも、「困る」の中身が、少し変わってきた気がする)
*
七月の朝の光が、部屋を満たしていた。
俺はそのまま、天井を見ていた。
美香の体温が背中にあって、あたたかかった。
この春から、いろんなことがあった。
入れ替わり作戦があった。美紀が「ちゃんと見てくれてるんだね」と言った。
美香が「ちょっとだけ答えてほしかった」と言った。
美紀が深夜に来て、美香が夜中に来て、交互に来ていることを知った。
体育祭があった。美香が全力で走った。美紀が全力で踏ん張った。
美紀が「博之は私のことどう思ってる?」と聞いて、眠ってしまった。
フェンス越しに、美香と話した。美紀と話した。
美香が「いつかちゃんと答えてほしい、私、本気だから」と言った。
美紀が「待てる」と言った。
(……たった一学期の間に、こんなに変わった)
(……春の始まりの頃、俺はただ「嬉しいけど困る」と思っていた)
(……今も困っている。でも、困り方が変わった)
美香が少し身じろぎをした。
眠りが浅くなってきたらしい。
*
美香がゆっくりと目を開けた。
寝ぼけた顔で、俺の背中に顔を押し付けたまま、しばらくぼんやりしていた。
それから少しして、目が覚めたらしく、身を起こした。
美香が俺の方を見た。
俺も美香を見た。
「……おはよ、博之」
いつもの声だった。
眠そうで、甘えたような、美香の声だった。
「ああ、おはよう」
美香がのんびりと髪を直した。それから窓の外を見た。
「……夏だ」
「そうだな」
「なんか眩しい」
「七月だからな」
美香がふわあ、とあくびをした。
それからまた俺を見て、少し考えるような顔をした。
「……博之、今日、何か変わった顔してる」
「そうか?」
「うん。なんか……違う感じ」
(……美香は、こういうことに鋭い)
「昨日の夜のこと、考えてた」
「……何を?」
「お前が言ったこと」
美香が少し固まった。
それから「……どれ」と小さく聞いた。
「選ばれなかった方のことを大切にしてよ、ってやつ」
美香がゆっくりと目を伏せた。
しばらく黙っていた。
「……覚えてたんだ」
「覚えてる。ちゃんと覚えてる」
「……そっか」
美香が静かに言った。
それから少し間を置いて、また俺を見た。
「……約束してくれる?」
「ああ、約束する」
美香が「……うん」と言った。
昨夜の声より、少し柔らかかった。
それから美香がいつもの顔に戻った。
「よし! 夏休み初日! 朝ごはん食べよう! 母さんいる?」
「いる」
「やった! 行こう!」
美香がベッドから飛び降りて、ドアに向かった。
扉の前で一度だけ振り返った。
「……博之」
「なに」
「夏休み、楽しもうね。三人で」
俺は頷いた。
「ああ。三人で」
美香が笑って、部屋を出ていった。
*
部屋に一人になった。
美香の体温がまだ、シーツに残っていた。
七月の光が、部屋を照らしていた。
俺はベッドに腰掛けたまま、しばらくそこにいた。
(……この夏が終わるとき、俺は何かを選んでいるはずだ)
昨夜の夢を思い出した。
誰かと手を繋いでいた夢。顔が見えなかった夢。
あたたかかった夢。
(……美紀か、美香か)
(……夢の中でも、俺には選べなかった)
(……でも、どちらかの手だった)
(……どちらかが、俺の手を握っていた)
階下から美香の声がした。
母さんと話している声。朝ごはんの話をしているらしかった。
窓の外で、蝉が鳴き始めた。
七月の蝉の声は、まだ少し遠慮がちだった。でも夏が来たことを、はっきりと告げていた。
(……夏が、始まった)
*
窓を開けた。
夏の空気が部屋に入ってきた。
まだ朝なのに、すでに熱を帯びていた。
水瀬家を見た。
美紀の部屋の窓が、少し開いていた。
カーテンが、風に揺れていた。
(……美紀)
(……今朝はどうしてるんだろう)
しばらくして、美紀の部屋のカーテンが動いた。
美紀が窓から顔を出した。
俺と目が合った。
美紀が少し驚いた顔をした。
それから、小さく手を上げた。
挨拶だった。
俺も手を上げた。
「……おはよう」
美紀の声が、フェンス越しに届いた。
「ああ、おはよう」
それだけだった。
でも、それで十分だった。
(……美紀も、今日の朝を生きている)
(……俺と同じ夏の空気の中に、いる)
美紀がカーテンの内側に引っ込んだ。
また、カーテンが揺れた。
*
階下から美香の声がした。
「博之ー! 朝ごはんできてるよ! 早くおりてきてー!」
俺は苦笑して、窓を閉めた。
この夏が終わるとき、俺は何かを選んでいるはずだ。
そうしたら——この朝は、変わってしまうのだろうか。
美紀か美香か、どちらかが来る朝。
例の手が、例の場所を握る朝。
嬉しくて困って、困って嬉しい朝。
(……変わってしまうかもしれない)
(……変わらないといいとも思う)
(……でも、変わらないままでいることの方が怖い、と美紀は言った)
(……それは、俺も同じだ)
窓の外で、蝉が鳴き続けていた。
夏が、来た。
◇ ◇ ◇
― エピローグ「朝、また君がいた。」 了 ―
第一巻 完
~ 第二巻「夏の熱が、距離を縮める」へ続く ~
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