第九話
夜、フェンス越しに
六月の夜は、蒸し暑い。
梅雨が明けたわけではないが、雨の降らない夜は湿気だけが残って、じっとりとした空気が部屋に漂う。エアコンを入れるほどでもないが、窓を開けないと息が詰まる。
俺は窓を開けた。
夜風が入ってきた。少しだけ、涼しかった。
時刻は夜の十時を過ぎたところだった。
課題は終わっている。風呂も入った。あとは眠るだけだが、なんとなく眠れない気がして、窓の外をぼんやり眺めていた。
隣の水瀬家の二階の電気がついていた。
美紀か美香か、どちらかの部屋だ。間取りは知っている。二階の右が美紀の部屋、左が美香の部屋。今ついているのは左——美香の部屋だった。
(……美香も眠れていないのか、それとも夜更かしか)
しばらく夜風に当たっていると、水瀬家の窓が開く音がした。
美香の部屋の窓だった。
「……あ、博之じゃん」
美香が顔を出した。
フェンス越しに、二階同士で向かい合う形になった。距離は三、四メートルほどだ。
「眠れないの?」
「お前こそ」
「私は夜型だから」
「夜型の言い訳で夜更かしするな」
「うるさいなあ」
美香がくすくすと笑った。夜の声は昼より少し低くて、静かだった。
*
二人でしばらく、フェンス越しに話した。
大した話ではなかった。今日の授業のこと、野田がまた美紀と美香を間違えたこと、明日の昼ごはんは何にしようかということ。
それでも、夜の静かな空気の中で話す声は、なんとなくいつもより柔らかかった。
「ねえ博之」
美香が少し声のトーンを落として言った。
「なに」
「最近、どう?」
「何が」
「何がって……全部」
全部、という言葉が、少し広かった。
俺は窓枠に肘をついて考えた。
「普通だ」
「普通か」
「お前は?」
「……私もまあ、普通」
美香が少し間を置いた。
「普通なんだけど、なんか最近、ちょっと落ち着かない気がして」
「何が落ち着かない」
「……なんでだろ。うまく言えないんだけど」
美香が頬杖をついて、夜空を見上げた。
雲の切れ間に、星がいくつか見えていた。
「ねえ、博之はさ、私のこと、どう思ってる?」
また聞いてきた。
以前、放課後の廊下で美香が聞いてきたのと、同じ問いだった。
「また聞くのか」
「答えてくれないから」
美香がさらりと言った。責めるような声ではなく、ただ事実を言っている声だった。
(……そうだな。俺はあのとき「今は答えられない」と言った。でも、それから時間は経った)
(……美香はずっと待っていた。それもわかっている)
「……美香のことは、大切だ」
俺が言うと、美香が「それって」と続けた。
「幼なじみとして?」
「……それだけじゃない、とは思う」
美香が少し黙った。
フェンス越しの距離で、美香の表情は少しだけ見えにくかった。でも俺には、美香がどんな顔をしているかが、なんとなくわかった。
「でも、まだちゃんとは言えないか」
美香が言った。
確認しているような声だった。
「……ああ」
美香が少し息をついた。
「……そっか」
怒っているわけではなかった。悲しんでいるわけでも、ない。
ただ、少しだけ、静かになった。
(……美香)
(……お前が待っていてくれているのは、わかってる)
*
「いつかちゃんと、答えてほしい」
美香が言った。
夜の声で、静かに、でもはっきりと。
「……わかった」
「本当に?」
「ああ」
「……じゃあ、待ってる」
美香がそう言って、少し笑った。
夜の中の笑顔だった。昼間の大きな笑い方とは少し違う、静かで、少し切ない笑い方だった。
「博之って、正直だよね」
「そうか?」
「うん。言えないときは言えないって言う。ごまかさない」
「それが正直かどうかわからないが」
「正直だよ。私はそれが好き」
美香がさらっと言った。
夜の声だったから、余計に響いた。
(……美香)
(……お前は、本当に、真っ直ぐだな)
「……ねえ博之」
「なに」
「美紀ちゃんのことも、大切?」
俺は少し驚いた。美香が美紀の名前を出したのが、意外だった。
「……ああ」
「そっか」
美香が頷いた。
怒ったり、悲しんだりする様子はなかった。ただ、確認しただけ、という感じだった。
「……私、お姉ちゃんのこと大好きだから」
美香が続けた。
「うん」
「だから、博之がお姉ちゃんのことも大切にしてくれてたら、なんか安心する。変かな」
「変じゃない」
「……よかった」
美香が夜空を見上げた。また星を見ていた。
(……美香は、俺と美紀のことも、同時に心配していたのか)
(……自分のことより、そっちを先に確認した)
(……それが美香だ。こういうやつだ)
フェンス越しに、しばらく二人で夜空を見ていた。
虫の声がしていた。どこかで猫が鳴いた。
それ以外は静かだった。
*
少しして、美香が「眠くなってきた」と言った。
「じゃあ寝ろ」
「うん。……博之も早く寝なよ」
「ああ」
「おやすみ」
「おやすみ」
美香の窓が閉まった。
少しして、部屋の電気が消えた。
俺はまだ窓の外を見ていた。
美香との会話が、頭の中に残っていた。
(……「いつかちゃんと答えてほしい」か)
(……わかった、と言った。本当に、ちゃんと答えなければならない)
そのとき。
水瀬家の別の窓が、静かに開いた。
右側の窓。美紀の部屋だった。
美紀が顔を出した。
少し驚いた顔をして、俺を見た。
「……博之? まだ起きてたの」
「ああ。美香と話してた」
「聞こえてた」
「そうか」
美紀がフェンス越しに、俺の方を見た。
夜の空気の中で、美紀の顔は少し柔らかかった。
「……美香と、何を話してたの」
「いろいろ」
「……そっか」
美紀がそれ以上は聞かなかった。
代わりに、窓枠に腕を置いて、同じように夜空を見上げた。
*
しばらく、二人で黙って夜空を見ていた。
虫の声が続いていた。
「美紀は何してた? 起きてたのか」
「……本を読んでた」
「眠れなかったのか」
「……そういうわけじゃない。読みたかっただけ」
「珍しいな、用もなく起きてるのは」
「……用がないことも、たまにはある」
美紀が少し口元を緩めた。
フェンス越しだったが、その表情はわかった。
「ねえ博之」
「なに」
「……美香と、ちゃんと話せた?」
俺は少し考えてから答えた。
「まだ途中だ。でも、少し話せた」
「そっか」
「美紀は……俺に何か聞きたいことはないか」
美紀が少し間を置いた。
夜風が吹いて、美紀の髪が揺れた。
「……ある」
美紀がそう言った。
「聞かないのか」
「……まだ、いい」
また「まだ」だった。
美紀はいつも「まだ」と言う。言いたいことがあるのに、自分の中でタイミングを決めて、それまでは言わない。
(……それが美紀のやり方だ。急かしても意味がない)
「……博之」
「なに」
「この前の夜、私が聞いたこと、覚えてる?」
覚えていた。
「博之は、私のことどう思ってる?」
「家族みたいなもの、ってだけじゃないよね? 最近。」
「覚えてる」
「……答え、出た?」
俺は正直に答えた。
「……まだ途中だ。でも、出しかけてはいる」
「……そっか」
美紀が頷いた。
静かに、でも確かに頷いた。
「……待てる」
美紀が言った。
「急かさないのか」
「……急かして出てくる答えじゃないでしょ、これは」
それは、そうだった。
美紀の言う通りだった。
(……美紀も、待っている)
(……美香も、待っている)
(……二人とも、俺のことを待っている)
その事実が、胸の中でじんと重かった。
重いけれど、あたたかかった。
*
「……ねえ博之」
「なに」
「夏になったら、何したい?」
急に話題が変わった。美紀らしかった。感情的な話の後に、別の話題を挟んで、空気を整える。
「花火、行きたい」
「……誰と」
「三人で」
美紀が少し間を置いた。
「……そっか」
今夜何度目かの「そっか」だった。でも今回のは、少し違う響きがあった。
嬉しそうな、そっか。
「美紀は何したい」
「……まだ決まってない。でも、三人でいられればそれでいい」
「消極的だな」
「……消極的じゃない。それが一番大事だから、先に言っただけ」
俺は少し笑った。
美紀が「なに」と言った。
「いや、美紀らしいと思って」
「……どういう意味で」
「いい意味で」
美紀が「……そっか」と言った。今度の「そっか」は、ほんの少し照れているようだった。
夜風が吹いた。
虫の声が、少し大きくなった。
夏が近づいているのかもしれない。
「……そろそろ寝る」
「ああ」
「おやすみ、博之」
「おやすみ」
美紀の部屋の窓が、静かに閉まった。
部屋の電気が消えた。
水瀬家の二階が、暗くなった。
二人とも、眠ったのだろう。
*
俺はしばらく、窓の外を見ていた。
美香の声が、頭に残っていた。
「いつかちゃんと答えてほしい。私、本気だから」
美紀の声も、残っていた。
「待てる。急かして出てくる答えじゃないでしょ、これは」
(……二人とも、本気だ)
(……本気で、待っている)
(……俺は、それに応えなければならない)
応えなければならない、という気持ちと。
どちらかを選んだとき、どちらかが傷つく、という怖さが。
胸の中で、静かにせめぎ合っていた。
(……でも)
(……いつまでも答えを出さないことが、二人にとって一番優しくないということも、わかっている)
窓を閉めた。
部屋が静かになった。
ベッドに横になって、目を閉じた。
今夜は誰も来なかった。
でも、フェンス越しに話した二人の声が、まだ近くにあるような気がした。
(……夏が来る)
(……夏が来る前に、少しだけ、整理しなければならない気がしている)
遠くで、雷の音がした。
また雨になるのかもしれない。
それでも夏は来る。
何かが変わる予感とともに、来る。
◇ ◇ ◇
― 第九話「夜、フェンス越しに」 了 ―
次話:第十話「選べない夏の前に」へ続く
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